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私がWikipediaを辞めたわけ

[ウィキペディア]

出典至上主義そのものは決して間違っていない

池田信夫氏はWikipediaが『信頼できる情報源』に依存することを批判しているが、これは見当違いである。池田信夫氏はマスコミの情報の信憑性の問題をWikipediaの問題にすり替えている。以下、詳細は間違ったWikipedia批判に記載する。

独自研究擁護主義に毒された日本語版Wikipedia

JANJANの市民記者である松山大智氏が、Wikipediaについて、ルールの濫用を指摘している。その指摘が凄くもっともであるので、ここで紹介する。

ただし、その前に、松山大智氏は、一点だけ重大な勘違いをしているので、それを先に指摘しておく。

つい数年前までは、出典自体より真実が優先されていた。そのため、執筆者が独自の視点で常識的であれば、文章には問題があっても、その記述自体は生かそうとしていた。

しかし、出典絶対主義兼独自研究排除という方向性ができた。そのため、家庭料理や方言など、実際に評論家が文章にするわけではない記事はすべて「独自研究」の扱いである。

たとえ独自研究であっても、事実であり、万人が認めるものなら、百科事典にふさわしくないとは言えないはずである。

松山大智氏は、Wikipediaが出典を重視する理由について、大きな誤解をしている。

松山大智氏は、「真実」と軽々しく口にするが、その真実とは一体何か。何が真実かを誰がどうやって判断するのか。Wikipediaの執筆者が嘘を書くかもしれない。どうやって、それが真実だと証明するのか。

その分野の専門家の肩書きで発表したり、行政機関の肩書きで発表するなら、その肩書きを真実の裏付けとできる。しかし、Wikipediaの執筆者の多くは、全く無名の素人である。信頼できる情報源を示すことは、匿名の執筆者にとって、その記事が真実であることを示す唯一の手段であろう。真偽が定かでない記事が真実であることを示すためには、出典は必要な手段なのである。

尚、この松山大智氏の主張を「百科事典に独自の視点を持ち込むのはいいこと」と曲解して批判する人も居るが、それは的外れである。松山大智氏の主張は、出典がないことを口実に真実が排除されることへの批判であって、デタラメな独自研究を載せろと言っているわけではない。彼の主張を読めば分かる通り、百科事典としての記述は全て真実であるべきとする彼の理念には一切のブレはない。彼は、現在のWikipediaの定義で「独自研究」に該当しても、「常識的」「事実」「万人が認めるもの」であれば容認すべきと言っているだけである(松山氏の文章中の「独自の視点で」は「独自の視点でも」の誤記と推定)。彼は、ありとあらゆる「独自研究」を容認しろと言っているわけでも、積極的に「独自研究」を導入しろと言っているわけでもない。ただ、出典主義を真実を排除する口実にするなと言っているだけである。彼の主張の問題点は「常識的」「事実」「万人が認めるもの」を見極める具体的手段を提示していないこと(=方法論)一点だけであって、おかしな理念を主張しているわけではない。

まず、出典の明記があるが、最近では常識でわかること、複数の状況から容易に演繹的に答えが導かれるものであっても、一部の編集者や管理者は投稿者に一方的に罵声を浴びせ、「要出典」「独自研究」タグをべたべた貼って、記事をつぶしている。

独自研究は載せないによれば、「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」は、「もっぱら一次資料に基づいていてもかまいません」と書いてある。それ故、「常識でわかること、複数の状況から容易に演繹的に答えが導かれるもの」を潰すのは、Wikipediaのルールの濫用である。

そのような状況について、井戸端欄やメーリングリストで相当数の非難が投稿されている。管理者の強権や、出典のあるべき姿についての疑問や意見がいくつも投稿している人がいた。しかしその人が関った記事の多くは「この人は信用できない」といわんばかりに否定的に処理され、各方向から非難されて八方塞になったが故にミスをした。そのミスが致命傷になり、つるしあげ的に長期ブロックになった。

その人も一つ一つにきちんと詰めた議論をしようとしているのに「議論を疲弊させる」と、管理者や常連はその人の挙げた問題を議論しようとせず、それ以上に傾聴すらしようとしない。もちろんWikipedia内ではいじめは厳禁だが、実際はつるしあげなどは珍しくないことがはっきりする状況である。

何か、私が体験したことそのもののように見える。多少、事実関係の差異はあるので、私のことではないようだ。私は「出典のあるべき姿」について「いくつも投稿」していないから、そもそもの話の出発点も違う。ということは、日本語版Wikipediaでは、そのようなことが常態化しているのであろうか。だとすると、日本語版Wikipediaには未来はない。

 Wikipediaの基本理念

出典を明記するには、次のように書いてある。

南京大虐殺のように意見が分かれる項目には、参考文献は必要になります。

これは、裏を返せば、意見が分かれる余地がない項目であれば、参考文献が必要がないとも読み取れる。

独自研究は載せないは、もっと明確である。

独自研究と認定される編集は、以下のようなものです。

・新しい未発表の理論や解決法を加筆する。

・オリジナルのアイデアを加筆する。

・新しい用語を定義する。

・既存の用語に新たな定義を与える。

・他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判の良い資料を提示することなく加筆する。

・編集者が好む立場を支持するような形で、既存の事実、理念、意見、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判の良い資料を明記せずに加筆する。

・新しい造語を、その造語が何らかの評判の良い資料に由来することを示さずに、導入したり使ったりする。

ここでは、何を「独自研究」と定義しているか良く読んでおいてもらいたい。

・一次資料とは、考古学的な人工遺物・映画・ビデオ・写真、日記・国勢調査・公聴会の議事録や裁判の記録・インタビューのような歴史的文書、アンケートや調査の結果一覧、実験室での分析・観察の記録、実地調査の記録といった、情報やデータを提供するものです。

・二次資料とは、他の情報源から取得した情報やデータの概括、分析、総合、解釈、評価を行うものです。

一次資料を直接ウィキペディアで公表すること、たとえば投稿者自身の体験の記述や、投稿者が行ったアンケートやインタビューなどを掲載する事は独自研究にあたり許されません。ウィキペディアにある記事は全て、既に発表されている一次資料や二次資料に基づいていなければなりません。なお、現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は「独自の研究」には当たりません―それは「情報源に基づいた調査」であり、百科事典の執筆の基本です。

なお、(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません。

「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」が例外となっていることを良く読んでおいてもらいたい。

理論に関しては、以下のことに留意してください。

・主要な概念を記す。

・個々の理論を明確に区別し、かつ、極少数の人々にしか支持されていない理論には言及する必要がないことに留意しつつ、既知の一般的な概念を記し、全体的な合意を特定する。

「既知の一般的な概念」を記すように書かれていることを良く読んでおいてもらいたい。

信頼できる情報源も参考にしたい。

注意信号がでたら、編集者は寄せられた主張を念入りかつ懐疑的に調べるべきです。

・広く知られてはいない、驚くべきまたは重要な主張

・一流のニュースメディアで取り上げられていない最近の出来事に関する、驚くべきまたは重要な報告

・誰かの発言に関する、ふだんとは違う人を困惑させたり物議をかもしたりするような、あるいはそれまで擁護してきた関係者に反対するような報告

・支持されていない主張や、関係学会に普及している見解に矛盾する主張。提案者が、そうした人々が沈黙しているのは陰謀のためだと言っている場合は特に気をつけてください。

ここでは、何を「注意信号」と定義しているか良く読んでおいてもらいたい。

最後に、ウィキペディアでやってはいけないことも見てもらいたい。

ウィキペディアでは、出典(参考文献)に基づいて記述することを大切なルールとしています(Wikipedia:検証可能性をご覧ください)。しかし、これは論拠を示すということであって、他の人が書いた文章を丸写せよと言っているのではありません。他の人が書いた文章を丸写しすることは、盗作であり、著作権侵害という法律違反になります。また、引用であっても著作権法で認められる引用の要件に該当しない場合は著作権侵害になるので注意して下さい。

上記の理由から外部のウェブサイトや書籍の文章をそのまま投稿することは、著作権侵害として必ず削除の対象となります。

著作権侵害を避けるためには、

参照した文献の書誌情報をきちんと明示する

参照した文献にある内容を自分の文章でまとめなおす(原典の創作性を採用・模倣しない)

ことが大切です。

Wikipediaでは「他の人が書いた文章を丸写しすること」は認められておらず、文献を参照する場合でも「自分の文章」でまとめなおさなければならない。

 日本語版Wikipediaの実態

日本語版Wikipediaには、ルールに出典不要と明記される記事を書いても、出典を強要する人が少なくない。私も、そうした、過剰な出典強要に度々あってきた。ある日、「既知の一般的な概念」と、それを元にした「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」であり、「分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事」を加筆した。ただ、小難しい専門用語で書かれていて分かり難かった部分を易しく言い替えたり、説明が省略されている「既知の一般的な概念」を補足しただけである。少なくとも、執筆した本人は、そのつもりである。そうすると、例によって、過剰な出典を強要されたのである。私は、すかさず、何処が独自研究に該当するのかと尋ねたが、それに対する具体的な返答はない。彼は、ただ「独自研究だから出典を示せ」とオウム返しするだけである。あまりにしつこいので、「Wikipediaの基本相互作用に載っているじゃないか」と言い返してみた。もちろん、これは「独自研究と言っているのは基本相互作用のことではない」という返答を期待しての発言である。彼がどの部分に対して独自研究と言っているのかを明らかにするために、故意にすっとぼけた答えを返してみたのである。「じゃあ、どれのことを言ってるんだよ」との再返答を用意して待っていた答えは意外な内容だった。彼の答えは「Wikipediaは自己参照を出典として認めていない」である。何と、彼が求めていたのは、基本相互作用に関する出典だったのである。

基本相互作用は、出典がなければ独自研究になるのだろうか。だとすると、Wikipediaの基本相互作用の記述は独自研究になってしまう。Wikipediaには、基本相互作用のページだけでなく、強い相互作用電磁相互作用弱い相互作用重力相互作用のいずれにも出典がないのだ。だとすると、Wikipediaは、そんな基本的な項目でさえ、独自研究が掲載されているのか。

もちろん、そんなわけはない。基本相互作用が「既知の一般的な概念」であり、「意見が分かれる項目」でないことは誰の目にも明らかだろう。そこらに売ってる解説書にも、大抵は掲載されているような、物理学の基本知識である。ネット上で検索しても3分で大学教諭の解説ページを見つけられるくらい、有名すぎる基本知識である。そして、「相対性理論は間違っている」系のトンデモさんは良く居るが、「基本相互作用は間違っている」系のトンデモさんなど聞いたこともない。Wikipediaにこれらの出典が掲載されていないのは、出典が見つけられないからではなく、掃いて捨てるほどそこらに出典がありすぎるから、敢えて省略したに過ぎない。少なくとも、4つの基本相互作用と、その概要くらいなら、わざわざ出典を必要とするようなことではない。つまり、彼は、「意見が分かれる項目」に該当しない「既知の一般的な概念」に対して出典を示せと言っていたのである。「Wikipediaは自己参照を出典として認めていない」という答えは、出典不要の記述に対する過剰な出典要求であったことを彼自身が認めたに等しい。彼は、そのことに気づいているのかいないのか知らないが、鬼の首を取ったかのように、故意のルール違反だと糾弾してきた。

Wikipediaのルールをよく知っていれば、具体的なルールの書かれたページを示して、出典不要だと言い返すことは容易だろう。しかし、Wikipediaの初心者は、過剰な出典を強要されたら、自分で対抗するのは難しい。ルールを逆手に取られたら、ルールを熟知している方が圧倒的に有利である。そして、そのような過剰な出典の強要が行なわれていても、誰も、やり過ぎだとは注意しないのである。何故、そうなるのかは、後でまとめて記述する。

そうした過剰な出典を強要する人に限って、自分は独自研究を提示しつつも、決して、その出典は提示しない。しつこく要求して、しぶしぶ提示されるのは、その人の提示した独自研究とは違う物の出典や、記事の分野とは違う論文である。ここまで紹介したリンク先には、「物理学の記事を書くのに、物理学以外の分野の論文を出典としてはならない」とする決まり事は見当たらない。これを逆手に取れば、分野外の論文を出典とすることも可能である。実際に、それをやっても分野外だと批判されないのである。また、ちゃんとした文献でも、どの部分をどのように引用するかで全く意味が変わって来る。しかし、出典があるかないかしかチェックされないことが多いので、出典元の趣旨を180度ねじ曲げていても批判されることはない。つまり、せっかくの出典主義も実態としては形骸化してしまっているのである。

ここで、Wikipediaの丸写し禁止ルールを思い出して欲しい。Wikipediaでは、全ての記述は「自分の文章」で書かなければならない。つまり、Wikipediaで問われている検証可能性は、「自分の文章でまとめ」た文章の検証可能性である。出典の趣旨をねじ曲げて独自研究にすり替えたとしても、「自分の文章でまとめ」ただけとする言い訳が通れば独自研究扱いされない。逆に、「分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事」のない「既知の一般的な概念」に対しても、「自分の文章」部分に言い掛かりをつけてしまえば、独自研究扱いして排除することができる。ルールを逆手に取れば、独自研究を守る目的で検証可能性を悪用することができるのである。そして、日本語版Wikipediaでは、実際にそれがまかり通っているのである。

以上のように、過剰な出典を要求する人は、記事の内容を恣意的にコントロールする目的でルールを濫用する。つまり、本来は「独自研究」を防ぐためのルールであるのに、自分の「独自研究」を守るためにルールが濫用されているのである。それに対しても、誰も注意しない。

言葉を濁さない「本当に事実なのであれば、曖昧に書かずに断言してください。」に反することを平気で書く人も居る。そして、それを指摘されても、平気で屁理屈を並べる。それに対しても、誰も注意しない。

多数決主義に毒された日本語版Wikipedia

 Wikipediaの基本理念

ウィキペディアは何ではないかについて、次のように書かれている。

ウィキペディアは多数決主義ではありません

合意形成の主たる(しかし唯一ではない)方法は、編集と議論であり、投票ではありません。合意形成にむけて調査投票を利用することはありますが、そうした投票や調査は議論の助けになるどころか、むしろ妨げになる場合があります。それらは慎重に用いられるべきであるし、他の合意形成された意思決定を上回る拘束力はありません。

投稿ブロックの方針についても、次のように書かれている。

利用者間でトラブルが発生した場合にはいきなり投稿ブロックを依頼するのではなく、まずWikipedia:論争の解決に従い対話と合意での解決を目指してください。対話による解決が不調に終わった場合、Wikipedia:投稿ブロック依頼に指定の書式で投稿ブロック依頼を出してください。

ここでは、「対話と合意での解決」と書いてあることを良く読んでもらいたい。

管理者は投稿ブロック実施前に以下の事項を確認する必要があります。

1.投稿ブロックの対象となる行為に該当すること。

2.投稿ブロックの対象となる人に対して、問題解決のための誠意・敬意を持った話しかけを誰かが試みていて、それが拒絶されていたり、はねつけられていたりすること。

3.投稿ブロックを行う管理者以外の方が投稿ブロック依頼を出していること。

4.投稿ブロックの合意が形成されていること。

ここでは、投稿ブロック実施前に「問題解決のための誠意・敬意を持った話しかけを誰かが試みていて、それが拒絶されていたり、はねつけられていたりすること」を確認しろと書いてあることを良く読んでもらいたい。

 日本語版Wikipediaの実態

依頼人に誠意も敬意もなく、依頼人が一方的に対話を拒絶していても、表面的な意見と多数決の結果だけを見て、ブロック判断が行なわれている。「対話と合意での解決」が図られていなくても、多数決主義でブロック判断が行なわれている。というより、管理者は、「対話と合意での解決」が図られているかどうかのチェックもしない。被依頼人が、必死で、「対話と合意での解決」を図ろうとしても、依頼人が拒絶してしまえば「対話と合意での解決」は不可能である。そして、依頼人は、2ちゃんねるで増援要請をして、事前に偏見を植え付けた友達を大量に招き入れて、多数の賛成票を投じさせる。被依頼人が誠意を示そうとしても、依頼人による「被依頼人が暴れている」とする印象操作の前に誠意は隠されてしまう。管理者は依頼内容を詳細に精査しないから、ルールを逆手に取って賢く立ち回った者が勝つ。それが、日本語版Wikipediaの実態である。「対話と合意での解決」が図られていないと一言言って差し戻す、たったそれだけのことが行なわれていないのである。

そうなった最大の原因は、管理の不備である。ちゃんと管理されていないから、質の悪い執筆者が集まり、質の悪い運営が行なわれる。管理者が、それをチェックしないから、増々、質が悪くなる。日本語版Wikipediaは、理念がどれだけ立派であっても、運営次第で最悪になることを、自ら証明する場にしかなっていない。

裁判員制度では、「人を裁く自信が無いから」という理由で、裁判員になりたくない人が多数居るという。人が人を裁くとき、正常な人なら、「自分にその資格があるか」を自問自答する。しかし、日本語版Wikipediaには、そうした常識は通じない。日本語版Wikipediaは、社会に貢献したい人ではなく、自己主張をしたい人のたまり場なのだ。そして、自分にそれだけの適性があるのかどうかの自問自答をすることはない。先入観に基づいて事実関係を精査せずに中立的観点を欠いた意見を述べる時点でその適性に欠けているというのに、その自覚が全くない。日本語版Wikipediaは、そういうニートのたまり場になっている。

もっとも、それだけなら、まだマシな方だ。実は、日本語版Wikipediaは、もっと悪質な人物も巣食っている。都合が良い時は全面擁護しながら、都合が悪い時は卑怯な手段を講じてでも陥れる、そんな人物も居るのである。

もちろん、日本語版Wikipediaの執筆者には立派な人も居る。しかし、少数派では、日本語版Wikipediaを変えるには非力である。今の日本語版Wikipediaは、内部から改革できる段階をとっくに過ぎている。管理者になったくらいでは不十分で、もっと上の権限がなければ話にならない。それに、ニートたちの自己主張を抑えようとすれば、彼らから反発を食らって、管理者になることさえ難しいだろう。Jimmy Wales氏らに直談判して改革を促すという手もあるだろうが、私にはそこまでのバイタリティはない。だから、私は、日本語版Wikipediaの執筆者を辞めたのである。今は、せめて、日本語版Wikipediaが社会の害にならないようにするにはどうすべきか、を考えて行動している。

私は、善意の集合体が良い物を作るとする考えは否定しない。事実、英語版Wikipediaは高い評価を受けているようだ。ソフトウェアの分野でのオープンソースも一定の成果を上げている。しかし、善意の集合体が黙っていて簡単に手に入るわけではない。とくに、共同体を善意の集合体にするのは非常に難しい。失敗すれば、善意どころか、悪意の集合体になってしまう。日本語版Wikipediaは、典型的な失敗例として後世に名を残すだろう。

補足

私は、ある管理者(以下、「管理者M」)を庇った。その結果、投稿ブロック処分を受けた。反対意見を抹殺することしか頭にない人に対しては、どれだけ誠意ある対話に努めても無駄だった。

何故、私が、管理者Mを庇ったのか。私は、管理者Mに個人的に恨みを持っていた。ひょんなことから、管理者Mが即時ブロックを受けたことを知り、「それ見たことか」と興味本位で調べたのが事の始まりだった。というより、仕返しのネタを探していたのかもしれない。しかし、何度、管理者Mの即時ブロックの経緯を見ても、ある疑念がぬぐい去れなかった。それは、「この即時ブロックはどのルールに違反したのか」である。どう見ても、明示したルールには全く反してないし、基本ルールの理念と照らし合わせても何も問題はない。

管理者Mの行為は、保護解除後のページ編集である。当時、自分が関わったページについては保護してはいけないというルールはあったが、保護解除後のページ編集を禁じるルールはなかった(今でも、ルールは変わっていないように見える)。そして、保護解除後のページ編集を禁じなければいけない合理的理由もないし、基本ルールの理念にも反しない。ルールとして確立していないだけでなく、複数の管理者も反対意見を述べるなど、合意としても出来上がっていなかった。自分が関わったページを保護することを禁止する合理的な理由はある。何故なら、それを許せば、管理者権限を記事の恣意的なコントロールに悪用できるからだ。しかし、保護解除後のページ編集は、そうした記事の恣意的なコントロールに悪用できない。よって、自分が関わったページを保護することを禁止するルールがあることは、保護解除後のページ編集を禁じる理由にならない。準用するには状況があまりにも違い過ぎる。

何故か、管理者Mの過去の“悪業”を根拠に、厳しい処分をすべきだと主張する人もいた。しかし、過去に悪業があるなら、その悪業に対して処分すべきであって、正しい行為を罰するのはおかしい。(誤解のないように言っておくと、私は、管理者Mの過去については何一つ関知していない。「悪業」が本当に行なわれたのかどうか、事実関係を全く知らない。ただ、一度だけ、私自身がとばっちりを食らったことがあるだけである。)どうも、管理者Mに対する個人攻撃の様相を見せてきている。

とはいえ、私には関係ないことだから放っておけば良い。憎き仇がどうなろうが知ったことではない。しかし、管理者Mの弁護を誰も引き受けないなら、欠席裁判(本人はブロックされているから発言できない)を私は黙って見ていて良いのか。自問自答して得た答えは「義を見てせざるは勇なきなり」である。何処をどう間違えたか、私は、仇討ちの相手だったはずの人物を擁護することを選択したのである。そして、私は、意見集約ページに次のような意見を述べた。

  • 保護解除後編集はWikipediaの明示された如何なるルールにも反しない
  • 明示されたルールに反しないなら基本原則に沿って考えるべきである
  • Wikipediaの基本原則に従えば保護解除後編集は認められるべきである
    • 保護解除後編集には、編集後保護のような禁止すべき明確な理由がない
    • 編集の自由が基本原則であり、禁止は例外にすぎないので、例外理由がなければ認めるべき
  • 即時ブロック等の強硬手段に出る前に、ルール策定や合意形成に努めるべき

すると、その直後、私が「明示されたルールに反しなければ何をしても良い」と言ったことにされた。当然、私は、異論があるなら正面から反論すれば良いのであって、人の意見を捏造すべきではないと抗議した。そうすると、私の意見の重要部分は意見集約ページからゴッソリ除去されたのである。どうやら、議論の大前提の是非(保護解除後編集が禁止されるべき行為か、そうした合意が形成されているか)については言及して欲しくなかったらしい。以後、投稿ブロックまでの経緯は、松山大智氏の指摘にあった事例とソックリなので、敢えて、これ以上は書かないこととする。

これ以上ないくらい派手な撃沈である。管理者Mから見れば、私の行為は何の役にも立っていないだろう。端から見れば、とんだドン・キホーテだ。しかし、それでも全く構わない。私は、そのことを全く後悔していないし、行為を恥じてもいない。もしも、後悔するとしたら、過去の恨みのために自分の信義に反する行為を行なった場合だけだろう。しかし、私は、そのような自分の信義に反する行為は取らなかった。信義のために派手に撃沈したのだから、恥じるべきどころか、大いに誇るべきだと思う。格好良いズルと格好悪い信義なら、私は迷わず格好悪い信義を取る。せいぜい思うことは、もっと上手く立ち回れば事態は違っていたかも、くらいの認識である。むしろ、日本語版Wikipediaが腐り切っていることを理解できたことは最大の収穫だろう。

最終更新時間:2010年02月08日 21時58分25秒

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