{{category 創作基礎}} {{outline}} !!!日本の評価基準 !!シナリオ 現在の状況は、すべて、シナリオライター達を甘やかし過ぎた結果である。駄作に対して正当な評価(=「つまらない」)を下さないから、無能な人間が重宝されて登用され、有能な人材が育たないのである。そもそも、どうして、作品に対して正当な評価ができないのであろうか。それは、くだらないシナリオに馴らされて面白いシナリオを知らないからである。美味しいものを食べたことがない人が食べ物の味に対して正当な評価を下せないのと同じことである。どんなに不味い食べ物であっても、それ以上の食べ物をしらなければ、旨いと言うだろう。くだらないシナリオがまかり通っているがために、面白いシナリオを知る機会が無い。面白いシナリオを知らないから、くだらないシナリオを高く評価する。その結果、また、くだらないシナリオがまかり通る。そういう悪循環が生じているのである。 最近の和製のシナリオの特徴は、次のようなところであろうか。5分もあれば表現出来てしまうような練り込み不足のシナリオを、水増し工作で長編作品に仕上げてしまう。元々薄っぺらくて中身がない物を、さも中身が詰まっているかのように見せるために、物語の序盤から設定等を徹底的に隠蔽し、定番の浪花節や精神論や根性論などで徹底的に引っ張る。揚げ句の果てには、謎とやらの存在を匂わせておきながら、実のところ何も考えてもいない。登場人物の様々な思惑が交錯することもなく、ありきたりな展開と奇抜な発想を取り除けば何も残らない。政治家などの、よくわからない世界の人間が、よくわからない都合で、よくわからない決定を下す。主人公達は、よくわからない上下関係で、よくわからない理由で、その命令に従わなければならない。そんな、シナリオがまかり通り過ぎである。 シナリオ作りはボツの塊である。何も無いところに、シナリオ全体の構想が突然湧いてくることはありえない。登場人物の様々な思惑や行動が複雑に絡み合ったシナリオが、制作者の意図に従った形で、一発で完成するということはまずないといっていいだろう。大まかな流れにしても細部にしても、ひとつひとつの発想の組み合わせによって、ひとつの作品が完成するのである。シナリオの構成部品には勘に頼る部分が多いだろうが、それらを組み合わせる作業は論理的思考に基づいて行われるのである。組み合わせの過程では、必ず、何処かで無理が生じる。バラバラに生まれた発想が、そうそう都合よく組み合わさるはずがない。まさに、答えのないパズルである。矛盾という壁に突き当たる度に軌道修正しなければならない。軌道修正の度に、それ以前の発想がボツとなっていくのである。そうした作業の中でボツになる発想の比率は半分では済まないだろう。徹底的な試行錯誤が優れたシナリオを生むのであって、それに近道というものはない。 現在の日本の作品の大半は、そういう手間暇をかけていない。勘だけで作られていて論理的思考が全く見られない。シナリオはあまり重視されていないというべきだろうか。はっきり言ってしまえば、シナリオなどは何でもいいのである。それらしい形にさえ仕上げてくれれば、あとは、それらしい映像を仕上げればひとつの作品としての形は整う。一流の作品を作ろうという気は全くない。商業的には三流の作品で十分なのである。それを見て面白がる人が多数いるのだから。結局は、日本人全体の舌が肥えない限り現状は変わらない。おそらく、それは、まだまだ先のことであろう。 //!!アニメ //作品としての総合評価 //絵と動きの善し悪し>確かに箸にも棒にもかからないような酷いものもあるようだ。 {{lastmodified}} {{category_list 創作基礎}}