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被害者と加害者の権利

[社会問題]

被害者の権利

加害者の権利ばかり守られて被害者の権利がないがしろにされているという話はよく聞く。私もそう思う。では、なぜ、被害者の権利がないがしろにされるのだろうか。被害者の権利は、遺族の権利=復讐の権利であるかのように言われることが多い。確かに、いわれなき多大な被害を受けたことには同情する。悲しみがいかに深いかもよくわかる。大事な肉親を返してほしいと願うことは正当な主張だろう。しかし、たとえどんなに強い悲しみであろうとも、たとえどれだけ正当性があろうとも、復讐は感情を満たすだけの行為にしか過ぎない。一般的に考えて、生きる権利などの基本的人権よりも優先されることはあるまい。ないがしろにされるのも当然ではないだろうか。

そもそも、被害者にとって最も重要な権利は、基本的人権を侵されない権利ではないのだろうか。まずは、犯罪にあわないようすること、殺人事件で言えば殺されない権利、つまり、生きる権利ではないのか。欧米では異常犯罪の前歴者のデータが一般家庭に配られるという。危険を回避する手段が提供されていて、犯罪被害を未然に防ぐことができる。初犯から身を守ることはできないので完全ではないが、これこそ被害者の権利を守るということではないのだろうか。日本では、加害者側の人権に配慮しているからか、そういった情報を積極的に公開しようという動きはない。それは、被害者の権利が正しく語られていないからだと思う。

加害者の権利

人道的見地からいえば、確かに、加害者の基本的人権も尊重されるべきであろう。もちろん、被害者の権利のほうが優先することは言うまでもない。被害者の人権を最大限守ったうえで、さらに、加害者の人権をも守れるというなら、そうするのは間違いではないだろう。では、果たしてそんなことは可能なのだろうか。

漫画「北斗の拳」や映画「マッドマックス」のような暴力が支配する世界を思い浮かべてほしい。秩序のない世界で権利を主張することには意味がない。みんながルールを守るからこそ基本的人権が守られるのである。つまり、ガマンという負担をもって得られた秩序から基本的人権を受益しているのである。では、社会は、ルールを守らない人=負担を背負わない人に人権を与える余裕があるのだろうか。負担の減少は、受益の減少につながる。無い袖は振れない。ルール違反は誰かの基本的人権を侵害する。つまり、殺人者に人権を与えるならば、その代わりに、被害者の生きる権利が奪われる。被害者と加害者の双方の人権を守ることは不可能だろう。

軽犯罪ならば被害者のリスクも少ない。金で済むような問題であるなら、尻ぬぐいをさせるという前提で更正の道を与えることも不可能ではない。しかし、殺人のような取り返しのつかない重犯罪ではそうはいかない。死んだ人間を生き返らせることはできないからだ。奪われた被害者の人権は返ってこないのである。それでも、加害者の権利は守られるべきものだろうか。

少年法

私は、犯罪の程度を全く考慮せず、一律に年齢で区切って厳罰を免れる制度には疑問を感じる。今は立派な大人になった人から、若い頃に軽犯罪行為をいくつも犯したという類いの話はよく聞く。その人たちは過去を反省している。しかし、少年法を逆手にとって確信犯的に殺人を犯すような少年に更正の可能性はあるのだろうか。犯罪計画を練る知恵がある一方で、人として最低限やってはいけないことが理解できていない、自らの欲望を満たすために他人を平然と傷つけることができる少年に更正の可能性はあるのだろうか。いつの日か、この少年が自らの過ちを悔いることがあるのだろうか。罰ではなく罪を悔いる日が訪れるのであろうか。私には、とても、想像できない。

厳罰に処されるということは、それだけ重い罪を犯したということである。逆に言えば、軽い罪を犯した人は軽い罰ですんでいる。つまり、もともと更正できる可能性が高い人は重い罰を受けないのである。であるならば、更正の道を与えるために罰を免除する必要性は乏しい。当然、罰を受けながらの更正の道は険しい。しかし、それは罪を犯した自分自身の責任である。そういった観点で考えた場合、現行の少年法の存在意義には大いに疑問を感じる。

最終更新時間:2005年08月30日 19時20分27秒

社会問題