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Winny裁判

[社会問題]

前置き

現段階では判決文を読んだわけではないので、詳細は分からない。しかし、この判決がおかしいのは明らかである。

幇助の定義

幇助の罪について、刑法第62条には次のようにしか書いていない。

正犯を幇助した者は、従犯とする。

幇助の成立要件には、さまざまな、法的解釈があるようだが、常識的に考えて、少なくとも、主犯が確定していること[1]が前提であるはずである。でなければ、犯罪として問われる責任の範囲が定義できない。

例えば、完全犯罪を小説に書いたとする。常識的に考えて、模倣犯の可能性があることくらいは、誰でも気づくだろう。もし、主犯が確定していることを幇助の条件としないなら、このような小説を発表した人は、模倣犯の行為に対して幇助が成立してしまう。

主犯を確定しなくて良いならば、Winnyを使った全ての著作権侵害行為について作者の幇助が成立する。そうすると、作者は、一体、何時まで幇助の罪に問われ続けなければならないのだろうか?たった一度の行為で無限の責任を追及されなければならないのだろうか?そんな馬鹿なことはあり得ない。

これは、日本国憲法第39条の一事不再理の原則とも整合しない。

何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない

この裁判は、たった二人の著作権侵害について幇助の罪を問うものであるが、もし、本当に幇助が成立するなら、Winnyを使用した全ての著作権侵害について幇助の罪を問わなければならないはずである。しかし、この裁判の判決が確定してしまえば、この裁判で問われた以外の著作権侵害行為には刑事責任を追及することができない。それでは、本来問われるべき犯罪が見逃されてしまうことになる。

以上のように考察すると、明らかに、Winnyの作者が行なった行為は、法律が想定していない事態であり、罪刑法定主義の原則に乗っ取れば、完全無罪となって然るべき行為なのである。このような行為を違法としたければ、そのような法律を事前に作らなければならない。もっとも、小説に書いただけで犯罪に問われるような法律は論外であるし、そうならないような法規定は作るのは極めて困難だろう。

ネット上の発言

聞く所によると、Winnyの作者は、2ちゃんねるで、著作権侵害を誘発するような数々の発言を行なったと言う。そして、現行の著作権規定への問題提起としてWinnyをばらまいたと言う。それが事実なら、決して、好ましいこととは言えない。いや、道徳的にはかなり悪いことだろう。しかし、かといって、そうした行為が何ら法律に反さないのであれば、そのことによって有罪となるのはおかしい。

争点は、Winnyをばらまく行為が合法か違法かである。そして、その行為が合法であるなら、それに対して、どんな目的を公言しようが、罪に問われるはずがない。違法行為であるからこそ、言った内容で、罪の重さが変化するのであって、元々、合法であるなら、罪に問われるはずなどないのである。「現行の著作権法はおかしい。全ての著作物は自由に複製できて然るべきだ」と発言するのは、言論の自由として認められている。単独では違法とならない行為と、単独では違法とならない発言を組み合わせると、何故、違法となるのか?・・・犯罪の構成要件?犯行声明を構成要件とする犯罪とは何だろうか。犯行声明がなければテロは無罪となるのだろうか。そんなはずはあるまい。犯行声明があってもなくても、テロの違法性は明らかである。

一般に、犯罪の成立に、違法性の認識は必須ではない。確かに、幇助が成立するには、違法行為に使われることを認識している必要がある。しかし、違法に使われる可能性を知っていれば犯罪が成立するなら、包丁を売っても幇助が成立するし、車を売っても幇助が成立する。

確定した犯意が必要であるとしても、主犯が確定していなければ、犯意が確定しているとは言えないはずである。何故なら、本気で幇助を目論んでいても、主犯が犯行に及ばなければ、幇助は成立しないからである。幇助が成立するには、主犯の犯行が成立することが必須である。つまり、実行されない犯行に対する犯意では、明らかに、幇助の構成要件を満たさない。個々の人間について見れば、著作権侵害をするかしないかについて、確定的なことは言えない。大言壮語はネットの常である。それも、2ちゃんねるなら尚更そうした傾向があるだろう。悪ぶってみせるのがカッコイイと思ってる人間もいる。見ず知らずの人間のネットの発言だけでは、冗談なのか本気なのかを判断することはできない。よって、確定した犯意があったとは言えないだろう。確かに、確率論で言えば、誰かが著作権侵害を行うことは、ほぼ確定していると言える。しかし、もし、確率論で確定した犯意を認定できるなら、包丁や車の販売でも、一定数以上販売すれば、幇助が成立することになる。それらの行為が幇助にあたらないなら、確率論では確定した犯意を認定できないと言うことである。

Winnyを著作権侵害に利用する者は、作者が何を言おうが、著作権侵害を行うだろう。著作権侵害を行わない者の行為も、同様に、作者の発言とは無関係である。著作権侵害は行為を行う者の良心の問題であって、作者の発言が著作権侵害を惹起したとは言えない。

このように、何処をどのように解釈しても、ネット上の発言によって犯罪が成立するという論理は成り立たない。そもそも、Winnyを配付する行為を犯罪に問いたいのであれば、その行為単体で犯罪を立件すべきであり、ネット上の発言を持ち出すのはこじつけであろう。ようするに、現行法がインターネットのようなコンピュータネットワークを想定していないという立法の不備の問題であり、それは、罪刑法定主義の原則を覆す合理的理由にはならないのである。これでは、著作権侵害の取り締まりに名を借りた言論統制である。

国家的都合

著作権侵害を防止することは重要である。今回は、著作権侵害を行なった犯人を特定することができた。しかし、今後、もっと優れた技術が開発されれば、全く犯人を特定しようがないP2Pソフトが出て来てもおかしくはない。そうした事態に一定の歯止めをかけたいという事情は分からなくもない

しかし、だとしても、法治国家としての原理原則は、最低限、守らなければならない物である。京都地裁の裁判官は罪刑法定主義の原則も知らないのかと言いたい。海外では、DVDのプロテクトを破るソフトを作った作者は無罪となっている。その作者が、違法目的での利用を予見できなかったとは考えにくい。いや、多数の違法利用があることは十分に認識していたはずである。それでも、無罪となったのは何故か。それは、違法目的に使われる可能性を認識していただけでは犯罪に問うことはできないからだろう。日本だけが特殊な法体系というわけではあるまい。いくら、犯罪防止の必要性があるとはいえ、法の原則を曲げてまで、現行法に違反していない者を有罪にするのは間違っている。

包丁や銃を作ったのと等しいとする論理があるが、それらを勝手に作ったり、バラまいたりすることは、銃刀法で禁止されている。法律で禁止されていて処罰も決められているのだから、罪刑法定主義の原則に基づいているのである。それに対して、P2Pソフトを作ってはいけないという法律は何処にもない。道徳的には好ましい行為ではないが、かといって、法を犯してない者を法で裁こうとするのは間違っている

道徳

作者の行為は擁護されるべきものではない。Winnyは犯罪に悪用される可能性の高いツール、いや、犯罪者にとってこそ利益が大きいツールであり、そうしたツールを配付したことは道徳的に問題がある。

しかし、だからと言って、法理を曲げて良いということにはならない。著作権侵害に使われる危険性の高いツールであっても、外国の判例で作者は無罪となっている。それは、何よりも法理を守ることが第一であると考えるからだろう。想定外の「犯罪」に対して、法改正ではなく、法理を曲げて対処しようとする日本流のやり方は極めて危険である。そのようなやり方を許せば、法治国家ではなくなるし、民主主義も危うくなる。

最終更新時間:2006年12月15日 18時32分10秒

社会問題