[創作基礎]
駄作の作り方
シナリオ構成の典型的な失敗例を次に挙げる。失敗の多くは、作者自身が自己の創造力の無さを認めようとせず、見栄を張ることによって生じている。自己の能力を凌駕した壮大な物語を創ろうとするものの、壮大さの中身を具体的に理解せずには壮大な物語は書けない。書けないにもかかわらず、壮大に見せたい。揚げ句の果てに、自分の手には負えずに他力本願の誤魔化しに走り、かえって作者の創造力の無さを際立たせる結果を招くのである。
知識依存症
知識をひけらかすだけなら物語を書く必要はない。むしろ、知識以外の中身のない余計な部分を強制的に受け入れさせられるのは苦痛であろう。詳しい知識を元に高度な思考をもって複雑怪奇なシナリオを組み立ててこそ物語にする意味がある。さらに付け加えるなら、専門家さえ知らないような詳細な情報を調べあげたなら、その情報だけでも大いなる価値がある。しかし、現実の知識依存症的シナリオは、だれでも知っているような知識をひけらかすだけに終わっていることが多い。
現実依存症
現実依存症の際たるものは、連載開始当時の首相と同姓同名の主人公が活躍する格闘技漫画や有名作家と同姓同名の主人公がボクシングで才能を開花させる漫画などである。たとえ、実在の人物の名前などのほんの一部であったとしても、歴史的事実に頼り切るとシナリオの内容の薄っぺらさが余計に際立ってしまう。
それでなくとも、ノンフィクションは難しい。歴史的事実を並べるだけなら、さほど難しくはない。しかし、それでは後述する出来事依存症である。物語である以上、登場人物の性格等を表現することが非常に重要である。それには、非常に高い観察力、分析力、創造力が必要になる。ノンフィクションなのに創造力とはコレ如何に?と思われるかもしれない。しかし、それは次の説明のとおり重要なことである。登場人物を表現するうえで、行動に対する当人なりの判断基準を示すのは重要なことである。その判断基準が正しいかどうかは、その人物の評価に合致してさえいればよい。問題なのは、その人物なりの判断基準を持たず、何の脈絡もなく訳の分からない行動を取ることである。それでは、ただの変人であり、魅力ある人物にはならない。主役にしても敵役にしても、読者が納得しない。しかし、人間誰しも、他人から見て不可解な行動の一つや二つは取るものである。それら不可解な行動については、作者なりの理由づけが必要である。読者を納得させることができれば、嘘でもいい。というより、真実は当人しか知らないことであるから、嘘しか書きようがない。それには、創造力が大きくものをいう。
ノンフィクションで失敗する事例は大きく2とおりある。ひとつは、先にも述べた出来事依存症である。もうひとつは、史実と違う方向に話が進んでしまって収拾がつかなくなるケースである。とくに現代物での成功は難しい。正確かつ詳細かつ新鮮な情報源の確保と高度な観察眼と迅速な分析能力を問われるからである。史実から離れてしまっても、歴史物であればタラレバ物というひとつのジャンルとして見ることができよう。しかし、現代物では辛い。時々刻々と変化する情勢を見据えつつ、タラレバの対象とするターニングポイントを見極めるのは非常に難しい。すべてが終わってから判断するのは容易である。しかし、現在進行形では、現実の筋書きに結論が出ていないため、物語の筋書きとの比較が出来ず、判断は困難をきわめる。ネタが新鮮だからこそ現代物なのである。ネタが新鮮でなくなれば、歴史物になってしまう。現代物の特性を最大限にいかしつつ、タラレバ的物語を創るのは、奇跡としかいいようがない。私は、その成功事例を見たことがない。
出来事依存症
出来事というのは好き勝手にいくらでも作ることができる。極端な話を言えば、突然隕石が落ちてきた。UFOが飛来した。火山が爆発した。・・・などがある。これらの出来事を組み合わせさえすれば物語が完成するというなら、何も知らない小さな子供でも「斬新」な物語作家になれる。何がつまらないかといえば、人間が描かれていないことであろう。出来事ばかり羅列した物語は、出来の悪い日記のようである。
今日、朝起きて、顔を洗った。 ご飯を食べた。 学校に行った。 ・・・。
物語においては、登場人物の設定を明確に表現することが重要である。彼らが、何を求めていて、どういう思考パターンを持っていて、どういう選択の元に行動を起こすのか。それが人物の魅力になるのである。人物設定次第で、憎らしくもなり愛らしくもなる。それが表現できなければ、読者に何の感情も発生させることができない。感情移入できるかどうかは、ひとえに人物設定の表現にかかっているのである。
ひどい場合は、後述する設定依存症を併発するようになる。
設定依存症
秘密設定依存症
「この物語は謎が多い。」というのは、よく聞く言葉である。しかし、「謎」を「秘密」と取り違えていると思われるケースが多々見受けられる。謎の多い物語は面白いが、秘密の多い物語は読者が疲れるだけである。謎とは論理的な類推に基づいて明らかになるものであって、作者しか知らない「事実」を小出しにするだけではタダの秘密である。謎を作るのは難しいが秘密は簡単に用意できる。なぜなら、設定をたくさん作ればよいからだ。
未定設定依存症
秘密設定依存症が、度を過ぎると、作者も知らない「事実」に依存するようになる。そのような「事実」は、設定として適切かどうかの検証もしようがなく、物語にとって何の足しにもならない。物語を壮大なものにする手法のつもりであろうが、冒頭でも述べたとおり、何の足しにもならない「事実」の存在は、かえって作者の創造力の無さを際立たせる結果を招く。
新設定依存症
都合の良い新設定が出てくることは悪いことではない。物語の布石として使うのならば全く問題ない。しかし、それですべてが解決するというのは、反則技である。そのようなことが許されるなら、何でもありになってしまい、高度な思考は不要になる。アニメ「宇宙戦艦ヤマト」の最終話で空間メッキなる新兵器でデスラー相当率いる艦を撃破するのは、まさにこの事例にあたる。漫画「ドラえもん」には、未定設定依存症から新設定依存症を併発したケースを痛烈に皮肉ったシナリオがある。冒険活劇で主人公を死なせて続きが書けなくなってしまった作者に代わって、ドラえもんが、タイムマシンを利用して買ってきた未来の漫画を模写して原稿を完成させるという結末で、「この漫画の本当の作者は誰なのだろうか?」と不思議がるというオチである。しかも、原稿の中身がすごい。その回の始めに新人物が登場し、終わるころには衝撃的に死んでみせて、さて次はどうなるのだろう?・・・ということを延々と繰り返すというものである。これは、藤子不二雄両氏が、ドラえもんやオバケのQ太郎などの新連載の際、全然何も考えていないうちから大げさな予告をして苦労した体験を元にしているのであろう。
アイデア依存症
物語の過程や結末等について面白いアイデアが思い浮かび、それを発表するために無理矢理物語を完成させるということは少なくない。そうした、たった一つのアイデアを形にするために出来た物語の多くは、設定や話のつながりに大いに無理があることが多い。そうなると、アイデア以外には何も取り柄がない。
そのアイデア自体が本当に素晴らしいものであるかどうかも疑ってみるべきだろう。誰しも、自分に対しては評価が甘くなる。他人からみれば大した事もないありきたりなアイデアを後生大事にしているのかもしれない。下手をすると、アイデアも含めて何の取り柄もない物語が出来てしまう。
アイデア依存症は他の失敗例と少し毛色が違うようにも見える。なぜなら、自分が生みだしたアイデアであれば、他力本願ではないからである。しかし、既にあるものに頼り切り、新しいものを産み出す努力を怠っているという点は、これまで挙げたものと共通している。
そもそも、物語の面白さにとって、アイデアなど二の次ではないか。背景や人物の設定、話の流れなどには数え切れないくらいの可能性がある。その中から最善の組み合わせを選択してこそ、面白い物語が出来上がるのである。そのためには、徹底的な試行錯誤を繰り返さなければならない。創作の秘けつは、エジソンが言う発明の秘けつと同じく、1%のひらめきと99%の努力によって成り立つものである。アイデアなどに頼り切って努力を怠っているようでは、面白い物語が書けるはずもない。
仮に面白いアイデアが浮かんだとしても、物語として形にならないものであるなら、採用を断念すべきである。作家の使命は、面白いアイデアを発表することではない。面白い物語を発表することである。目的と手段をはき違えるべきではない。どうしてもあきらめきれないほど惜しいアイデアであるなら、次回作以降のためにネタ帳にでも控えておけばよいことである。
最終更新時間:2005年08月15日 21時55分31秒
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