私がWikipediaを辞めたわけ
体験談
Wikipediaの記事の内容があまりに酷すぎた。 とくに量子力学分野は疑似科学のオンパレードであった。 その状態を憂いて、私は、Wikipediaの編集を始めた。 必要な出典と過剰な出典要求に書いた通り、「既知の一般的な概念」を「あなた自身の言葉で再構成し、ウィキペディアに提出」しただけに過ぎないことにも過剰な出典要求がなされ、ひどい時にはブロック要求まで出される有様だった。
そんなある日、私は、ある管理者(以下、「管理者M」)を庇った。 その結果、私は、投稿ブロック処分を受けた。 反対意見を抹殺することしか頭にない人に対しては、どれだけ誠意ある対話に努めても無駄だった。
何故、私が、管理者Mを庇ったのか。 実は、私は、管理者Mに個人的に恨みを持っていた。 ひょんなことから、管理者Mが即時ブロックを受けたことを知り、「それ見たことか」と興味本位で調べたのが事の始まりだった。 というより、仕返しのネタを探していたのかもしれない。 しかし、何度、管理者Mの即時ブロックの経緯を見ても、ある疑念がぬぐい去れなかった。 それは、「この即時ブロックはどのルールに違反したのか」である。 どう見ても、明示したルールには全く反してないし、基本ルールの理念と照らし合わせても何も問題はない。
管理者Mの行為は、保護解除後のページ編集である。 当時、自分が関わったページについては保護してはいけないというルールはあったが、保護解除後のページ編集を禁じるルールはなかった(今でも、ルールは変わっていないように見える)。 そして、保護解除後のページ編集を禁じなければいけない合理的理由もないし、基本ルールの理念にも反しない。 ルールとして確立していないだけでなく、複数の管理者も反対意見を述べるなど、合意としても出来上がっていなかった。 自分が関わったページを保護することを禁止する合理的な理由はある。 何故なら、それを許せば、管理者権限を記事の恣意的なコントロールに悪用できるからだ。 しかし、保護解除後のページ編集は、そうした記事の恣意的なコントロールに悪用できない。 よって、自分が関わったページを保護することを禁止するルールがあることは、保護解除後のページ編集を禁じる理由にならない。 準用するには状況があまりにも違い過ぎる。
何故か、管理者Mの過去の“悪業”を根拠に、厳しい処分をすべきだと主張する人もいた。 しかし、過去に悪業があるなら、その悪業に対して処分すべきであって、正しい行為を罰するのはおかしい。 (誤解のないように言っておくと、私は、管理者Mの過去については何一つ関知していない。 「悪業」が本当に行なわれたのかどうか、事実関係を全く知らない。 ただ、一度だけ、私自身がとばっちりを食らったことがあるだけである。) どうも、管理者Mに対する個人攻撃の様相を見せてきている。
とはいえ、私には関係ないことだから放っておけば良い。 憎き仇がどうなろうが知ったことではない。 しかし、管理者Mの弁護を誰も引き受けないなら、欠席裁判(本人はブロックされているから発言できない)を私は黙って見ていて良いのか。 自問自答して得た答えは「義を見てせざるは勇なきなり」である。 何をどうトチ狂ったのか、私は、仇討ちの相手だったはずの人物を擁護することを選択したのである。 そして、私は、意見集約ページに次のような意見を述べた。
- 保護解除後編集はWikipediaの明示された如何なるルールにも反しない
- 明示されたルールに反しないなら基本原則に沿って考えるべきである
- Wikipediaの基本原則に従えば保護解除後編集は認められるべきである
- 保護解除後編集には、編集後保護のような禁止すべき明確な理由がない
- 編集の自由が基本原則であり、禁止は例外にすぎないので、例外理由がなければ認めるべき
- 即時ブロック等の強硬手段に出る前に、ルール策定や合意形成に努めるべき
すると、その直後、私が「明示されたルールに反しなければ何をしても良い」と言ったことにされた。 当然、私は、異論があるなら正面から反論すれば良いのであって、人の意見を捏造すべきではないと抗議した。 そうすると、Maris stellaと名乗る自分が横からシャシャリ出てきて「『コメント依頼』妨害」だとして私の意見の重要部分を意見集約ページからゴッソリ除去したのである。 事実無根の言いがかりに異議申立することのどこが「『コメント依頼』妨害」に該当するのか全く意味不明である。 そもそも、このMaris stellaは、それまでに、私が論争に巻き込まれた際は、常に、私を擁護していた。 その擁護が本心であるなら、私が筋違いのことを言わないことは知っているはずであるから、主張内容について目を通すはずである。 であれば、その内容が事実無根の言いがかりに対する異議申立であることもわかるはずだし、異議申立の内容が妥当かどうかも判断できるはずである。 意見集約ページに記載した意見の内容が妥当であるかどうかは別として、異議申立の内容におかしな所は何もないはずである。 繰り返すが、明示されたルールにも反しない場合は基本原則に沿って考えるべきと言ったのであって、「明示されたルールに反しなければ何をしても良い」とは一言も言っていない。 基本原則に沿って考えるべきとは、言い換えれば、基本原則に沿わないことをすべきではないという趣旨であり、決して、「何をしても良い」という意味にはならない。 意見集約ページに書いた私の意見が正しいかどうかに関わらず、この異議申立にどこもおかしな所などないことは誰にでも分かることであるはずである。 それなのに、何故、Maris stellaは、突然、私に不当な攻撃を仕掛けてきたのか。 まず、Maris stellaが、以前に私に味方してきたのは、どうやら、その時に言い争っていたW** * ***という人物を嫌悪しているからのようである。 つまり、敵の敵は味方という論理で擁護してきたのである。 それは以下のMaris stellaのメールの文面からはっきりと読み取れる。
これは、ウィキペディアでは書けませんが、W** * ***とは「頭がおかしい」とわたしは考えています。 従って、論理的な話とかが、通用しない人間です。 「君子危うきに近寄らず」というのは、気違いの相手をするのは危険なので、避けるしかないという意味です。
W** * ***とは量子力学など、何も分かっていないようですね。 ノートでの話は、まったく議論の呈を成していません。 ***は量子力学を知らない。 知らないのに、自分は正しいと妄想している。 こんな人間と議論するのは、時間の無駄で、かつ危険です。 気違いに刃物とか、気違いにウィキペディアです。
ノートを読んで、量子力学では自明なことをを述べているのに出典も何も不要だとわたしも思いましたが、あれはやはり、量子力学の教科書でも参考文献に挙げておけばよかったと思います。
「半年以上に渡って」が明確に虚偽だと指摘したのに、***は、これを虚偽だったとして謝罪もしていないでしょう?
普通、考えがたいことです。 ブロック依頼も出鱈目なら、その依頼理由が虚偽だと、履歴を元に立証したのに、その反省がない。 だから「頭がおかしい=恐らく何かの精神障害」なのです。
科学哲学がどうこう云っていますが、妄想宇宙論理学の主観真理崇拝教徒なのでしょう。
腹を立てるというよりも、気違いに腹を立てても仕方ないということです。 ***はそのうちにブロックされるでしょうが。 関わりたくないというのは本心です。 気違いの相手はご免です。
論理的に正しい主張だけでは、ウィキペディアは通用しないです。 馬鹿や非常識な人間が多すぎるのです。 また、ブロック依頼などに常駐しているのは、三分の一は荒らしか頭のおかしい人です(これは、ウィキペディアでは絶対に公言できません)。
***が典型ですが、ああいう困った人、頭のおかしい人は、近寄らないこと、関係を持つだけで、どこで何を考えるか分からないので、一切関係を持たないことです。 いずれ、ああいう人は、淘汰されて行くでしょう。 ……(他人事ではないかも、わたしも頭がおかしい人と見られているかも)。
そして、突然、私に牙をむいてきたのも、管理者Mを擁護したからであろう。
M***という人は気のよい人で、おばさんですが、理工系の知識は皆無なのと、妙な余計な考えがあります。
つまり、Maris stellaは、今回の管理者Mの行動は「妙な余計な考え」によるものであって、その処分が適切だという結論に何が何でも持って行きたかった。 それには、議論の大前提の是非(保護解除後編集が禁止されるべき行為か、そうした合意が形成されているか)についての言及は、彼にとって都合が悪かったのである。 だから、このような卑怯な手段で発言を封じることにしたのであろう。 ようするに、Maris stella自身が「論理的に正しい主張」かどうかで判断しない「馬鹿や非常識な人間」だったということである。
以後、投稿ブロックまでの経緯は、必要な出典と過剰な出典要求の違いで紹介した松山大智氏の指摘にあった事例とソックリなので、敢えて、これ以上は書かないこととする。 ブロックに賛成票を投じた人が、正当な異議申立を封じられた事実をきちんと確認せずに印象だけで投じたのか、それとも、Maris stellaのような悪意を持って投じたのかは分からない。 当時の議論に参加せず、後から、あのブロックは間違いだったと言ってくれた人もいたが、すべて、後の祭りである。 というように、これ以上ないくらい派手な撃沈である。 管理者Mから見れば、私の行為は何の役にも立っていないだろう。 端から見れば、とんだドン・キホーテだ。 しかし、それでも全く構わない。 私は、そのことを全く後悔していないし、行為を恥じてもいない。 もしも、後悔するとしたら、過去の恨みのために自分の信義に反する行為を行なった場合だけだろう。 しかし、私は、そのような自分の信義に反する行為は取らなかった。 信義のために派手に撃沈したのだから、恥じるべきどころか、大いに誇るべきだと思う。 格好良いズルと格好悪い信義なら、私は迷わず格好悪い信義を取る。 せいぜい思うことは、もっと上手く立ち回れば事態は違っていたかも、くらいの認識である。 むしろ、日本語版Wikipediaが腐り切っていることを理解できたことは最大の収穫だろう。
多数決主義に毒された日本語版Wikipedia
Wikipediaの基本理念
ウィキペディアは多数決主義ではありません
合意形成の主たる(しかし唯一ではない)方法は、編集と議論であり、投票ではありません。 合意形成にむけて調査投票を利用することはありますが、そうした投票や調査は議論の助けになるどころか、むしろ妨げになる場合があります。 それらは慎重に用いられるべきであるし、他の合意形成された意思決定を上回る拘束力はありません。
「ウィキペディアは多数決主義ではありません」と明確に書かれている。
利用者間でトラブルが発生した場合には、いきなり投稿ブロックを依頼するのではなく、まず論争の解決に従い、対話と合意での解決を目指してください。 それでも上手く行かなかった場合、投稿ブロックの方針の「投稿ブロックを実施すべき場合」をよく読み、該当する場合には以下の説明の手順で投稿ブロックの依頼を行ってください。
ここでは、「対話と合意での解決」と書いてあることを良く読んでもらいたい。 Wikipedia:投稿ブロックの方針には、以前は、管理者は「問題解決のための誠意・敬意を持った話しかけを誰かが試みていて、それが拒絶されていたり、はねつけられていたりすること」を確認する必要があると書いてあった。 現在は、「ブロックされた利用者の会話ページに知らせるに当たって、理論的根拠に加え、事実の概要と適用した方針中の条項を引用する」ことを推奨するにとどまっている。
日本語版Wikipediaの実態
依頼人に誠意も敬意もなく、依頼人が一方的に対話を拒絶していても、表面的な意見と多数決の結果だけを見て、ブロック判断が行なわれている。 「対話と合意での解決」が図られていなくても、多数決主義でブロック判断が行なわれている。 というより、管理者は、「対話と合意での解決」が図られているかどうかのチェックもしない。 被依頼人が、必死で「対話と合意での解決」を図ろうとしても、依頼人が拒絶してしまえば「対話と合意での解決」は不可能である。 そして、依頼人は、2ちゃんねるで増援要請をして、事前に偏見を植え付けた友達を大量に招き入れて、多数の賛成票を投じさせる。 被依頼人が誠意を示そうとしても、依頼人による「被依頼人が暴れている」とする印象操作の前に誠意は隠されてしまう。 管理者は依頼内容を詳細に精査しないから、ルールを逆手に取って賢く立ち回った者が勝つ。 それが、日本語版Wikipediaの実態である。 「対話と合意での解決」が図られていないと一言言って差し戻す、たったそれだけのことが行なわれていないのである。
そうなった最大の原因は、管理の不備である。 Wikipediaには39の国別協会があるとされる。 しかし、日本語版Wikipediaには、国別協会が存在せず、設立のための検討・準備すらされていない。 日本語版Wikipediaには、調停委員会も裁定委員会も存在しない。 その結果、質の悪い執筆者が集まり、質の悪い運営が行なわれる。 そうした質の悪い執筆者から選ばれた管理者では、それを適切にチェックできないから、増々、質が悪くなる。 Quality Management SystemやSafety Management Systemでは、誰にでもできるような体系的な仕組み作りが重要だと言うが、それは本当の意味で誰でも良いわけではない。 最低限の資質を持った人間なら誰でもできるという意味であって、その辺りの道端を歩いているおっさんにでもできるような仕組みなど作れるわけがない。 日本語版Wikipediaに欠けているのは、必要な資質をもった人材の育成である。 日本語版Wikipediaは、理念がどれだけ立派であっても、運営次第で最悪になることを、自ら証明する場にしかなっていない。
裁判員制度では、「人を裁く自信が無いから」という理由で、裁判員になりたくない人が多数居るという。 人が人を裁くとき、正常な人なら、「自分にその資格があるか」を自問自答する。 しかし、日本語版Wikipediaには、そうした常識は通じない。 日本語版Wikipediaは、社会に貢献したい人ではなく、自己主張をしたい人のたまり場なのだ。 そして、自分にそれだけの適性があるのかどうかの自問自答をすることはない。 先入観に基づいて事実関係を精査せずに中立的観点を欠いた意見を述べる時点でその適性に欠けているというのに、その自覚が全くない。 日本語版Wikipediaは、そういうニートのたまり場になっている。
もっとも、それだけなら、まだマシな方だ。 実は、日本語版Wikipediaは、Maris stellaのような、もっと悪質な人物も巣食っている。 都合が良い時は全面擁護しながら、都合が悪い時は卑怯な手段を講じてでも陥れる、そんな人物も居るのである。
もちろん、日本語版Wikipediaの執筆者には立派な人も居る。 しかし、少数派では、日本語版Wikipediaを変えるには非力である。 今の日本語版Wikipediaは、内部から改革できる段階をとっくに過ぎている。 管理者になったくらいでは不十分で、もっと上の権限がなければ話にならない。 それに、ニートたちの自己主張を抑えようとすれば、彼らから反発を食らって、管理者になることさえ難しいだろう。 Jimmy Wales氏らに直談判して改革を促すという手もあるだろうが、私にはそこまでのバイタリティはない。 だから、私は、日本語版Wikipediaの執筆者を辞めたのである。 今は、せめて、日本語版Wikipediaが社会の害にならないようにするにはどうすべきか、を考えて行動している。
私は、善意の集合体が良い物を作るとする考えは否定しない。 事実、英語版Wikipediaは高い評価を受けているようだ。 ソフトウェアの分野でのオープンソースも一定の成果を上げている。 しかし、善意の集合体が黙っていて簡単に手に入るわけではない。 とくに、共同体を善意の集合体にするのは非常に難しい。 失敗すれば、善意どころか、悪意の集合体になってしまう。 日本語版Wikipediaは、典型的な失敗例として後世に名を残すだろう。