間違ったWikipedia批判
池田信夫氏の批判
池田信夫氏のWikipedia批判「ウィキペディアは無法者の楽園か」であるが、これは、日本政府と欧米のマスコミの問題をWikipediaの問題にすり替えている。
池田信夫氏は、「『信頼できる情報源』が信頼できない」とき、「それが真理であるかどうか」をどうやって問うつもりか。 論理の不備なら看破できても、事実関係については資料がなければ一般人に真偽の判断は難しい。 だから、マスコミよりも信頼できる文献(欧米人が読めるものに限る)がなければ、マスコミが真実を報じていると信じるのは仕方がない。 彼らに信用させたかったら、米国立公文書館で閲覧できる"UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S.Army Forces"等の資料を提示すべきなのである。 資料を示さずに「信憑性に疑問がある」や「証拠はない」と私見を述べれば、次のような反応が返ってくるのは当然のことであろう。
- 「慰安婦は20万人」という過大評価を修正すると、すぐリバート(破棄)され
- 元兵士の「証言」の信憑性に疑問があると注記をつけると、それさえ削除される
- 強制連行の証拠はないと書くと「歴史修正主義者」というレッテルが貼られる
本来、「『信頼できる情報源』が信頼できない」ことがあってはならないのであって、その『信頼できる情報源』を引用した二次情報が信頼できなくなるのは、あってはならないことが起きたせいである。 あってはならないことに対応できていないことを、短絡的にWikipediaの不備のように言うのは、ジャーナリストの言葉としては暴論だろう。 もちろん、あってはならないことに対応するための危機管理という考え方もあるが、「『信頼できる情報源』が信頼できない」ことを想定した危機管理は不可能である。 池田信夫氏は、「『信頼できる情報源』が信頼できない」ときに、Wikipediaにその情報を正す役目を期待しているようだが、誰でも編集できるメディアにそのような役割が果たせるわけがない。 ジャーナリストとして、慰安婦問題について「『信頼できる情報源』が信頼できない」ことが許せないなら、その『信頼できる情報源』に対して訂正を求めるのが筋だろう。 誰でも編集できるWikipediaの文言を修正するという楽な手段を選んでおいて、思い通りの結果が得られなかったからとWikipediaの編集方針を批判するのはお門違いである。 Wikipediaの編集方針を批判するしか能がないなら、ジャーナリスト失格である。
ついでに言うと、英語版と日本語版を区別せずに「ウィキペディアは、科学技術などの客観的な事実についての項目はおおむね正確で役に立つ」と言っているのは、事実誤認である。 「英国の科学誌『ネイチャー』の調査で、科学的な記述の間違いの確率は『ブリタニカ』とあまり変わりないという結果が発表されたこともある」のは、英語版Wikipediaであって(その評価に対して異論を唱える人もいる)、日本語版は該当しない。 日本語版の科学分野の記事は独自研究が多く、量子力学分野は酷いし、擬似療法の宣伝ページも多い。 日本語版に限って言えば、科学分野の記事は信用しない方が良い。 ジャーナリストなら、その程度のことは調べてから物を言うべきだろう。
補足
関係ない話だが、池田信夫氏はブログで汎用京速計算機を批判していた。 このサイトでも国費の無駄遣いスパコン「京」を再検証しているが、敢えて、池田信夫氏のブログはスルーした。 確かに、汎用京速計算機について、池田信夫氏の主張は結論として正しい。 しかし、ジャーナリストとしてどうなのか?と思う部分があり、彼の主張を引用することは当方の主張の信憑性を低下させかねないと考えて、敢えて、スルーさせてもらった。