必要な出典と過剰な出典要求

出典至上主義そのものは決して間違っていない 

池田信夫氏はWikipediaが『信頼できる情報源』に依存することを批判しているが、これは見当違いである。 池田信夫氏はマスコミの情報の信憑性の問題をWikipediaの問題にすり替えている。 以下、詳細は間違ったWikipedia批判に記載する。

独自研究擁護主義に毒された日本語版Wikipedia 

JANJANの市民記者なる松山大智氏が、Wikipediaについて、ルールの濫用を指摘している。 その指摘が凄くもっともであるので、ここで紹介する。

ただし、その前に、松山大智氏は、一点だけ重大な勘違いをしているので、それを先に指摘しておく。

つい数年前までは、出典自体より真実が優先されていた。そのため、執筆者が独自の視点で常識的であれば、文章には問題があっても、その記述自体は生かそうとしていた。 しかし、出典絶対主義兼独自研究排除という方向性ができた。そのため、家庭料理や方言など、実際に評論家が文章にするわけではない記事はすべて「独自研究」の扱いである。 たとえ独自研究であっても、事実であり、万人が認めるものなら、百科事典にふさわしくないとは言えないはずである。

「出典絶対主義」に堕したWikipediaに資料価値はあるか

松山大智氏は、Wikipediaが出典を重視する理由について、大きな誤解をしている。

松山大智氏は、「真実」と軽々しく口にするが、その真実とは一体何か。 何が真実かを誰がどうやって判断するのか。 Wikipediaの執筆者が嘘を書くかもしれない。 どうやって、それが真実だと証明するのか。

その分野の専門家の肩書きで発表したり、行政機関の肩書きで発表するなら、その肩書きを真実の裏付けとできる。 しかし、Wikipediaの執筆者の多くは、全く無名の素人である。 信頼できる情報源を示すことは、匿名の執筆者にとって、その記事が真実であることを示す唯一の手段であろう。 真偽が定かでない記事が真実であることを示すためには、出典は必要な手段なのである。

尚、この松山大智氏の主張を「百科事典に独自の視点を持ち込むのはいいこと」と曲解して批判する人も居るが、それは的外れである。 松山大智氏の主張は、出典がないことを口実に真実が排除されることへの批判であって、デタラメな独自研究を載せろと言っているわけではない。 彼の主張を読めば分かる通り、百科事典としての記述は全て真実であるべきとする彼の理念には一切のブレはない。 彼は、現在のWikipediaの定義で「独自研究」に該当しても、「常識的」「事実」「万人が認めるもの」であれば容認すべきと言っているだけである(松山氏の文章中の「独自の視点で」は「独自の視点でも」の誤記と推定)。 彼は、ありとあらゆる「独自研究」を容認しろと言っているわけでも、積極的に「独自研究」を導入しろと言っているわけでもない。 ただ、真実を排除する口実として出典主義を悪用するなと言っているだけである。 彼の主張の問題点は「常識的」「事実」「万人が認めるもの」を見極める具体的手段を提示していないこと(=方法論)一点だけであって、おかしな理念を主張しているわけではない。

まず、出典の明記があるが、最近では常識でわかること、複数の状況から容易に演繹的に答えが導かれるものであっても、一部の編集者や管理者は投稿者に一方的に罵声を浴びせ、「要出典」「独自研究」タグをべたべた貼って、記事をつぶしている。

Wikipediaの「要出典」、「独自研究」はやり過ぎ

Wikipedia:独自研究は載せないによれば、「あなた自身が分析・合成・解釈・評価などを」しない、「特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる場合」は「一次資料」の使用も認めている。 それ故、本当に「常識でわかること、複数の状況から容易に演繹的に答えが導かれるもの」を潰しているのであれば、それはWikipediaのルールを形式的に杓子定規に当てはめただけの濫用であろう。

そのような状況について、井戸端欄やメーリングリストで相当数の非難が投稿されている。 管理者の強権や、出典のあるべき姿についての疑問や意見がいくつも投稿している人がいた。 しかしその人が関った記事の多くは「この人は信用できない」といわんばかりに否定的に処理され、各方向から非難されて八方塞になったが故にミスをした。 そのミスが致命傷になり、つるしあげ的に長期ブロックになった。

その人も一つ一つにきちんと詰めた議論をしようとしているのに「議論を疲弊させる」と、管理者や常連はその人の挙げた問題を議論しようとせず、それ以上に傾聴すらしようとしない。 もちろんWikipedia内ではいじめは厳禁だが、実際はつるしあげなどは珍しくないことがはっきりする状況である。

Wikipediaの「要出典」、「独自研究」はやり過ぎ

これは私がWikipediaを辞めたわけで私が体験したことそのもののように見える。 しかし、多少、事実関係の差異はあるので、私のことではないようだ。 私は「出典のあるべき姿」について「いくつも投稿」していないから、そもそもの話の出発点も違う。 ということは、日本語版Wikipediaでは、そのようなことが常態化しているのであろうか。 だとすると、日本語版Wikipediaには未来はない。

Wikipediaの基本理念 

独自研究 (original research) とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを指すウィキペディア用語です。 ここに含まれるのは、未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。


独自研究排除の方針の本来の動機は、個人的な持論を持った人々がウィキペディアを使って人々の注意を引こうとするのを阻止することでした。 しかし、独自研究の排除は「トンデモ理論禁止」にとどまるものではありません。 この方針は編集者の個人的観点や政治的意見、また発表済みの情報の個人的分析や解釈、そして自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します。

つまり、ウィキペディアで公開されるいかなる事実、理念、意見、解釈、定義、評論、考察、推測、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。 詳細は次節「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」を参照してください。

独自研究と認定される編集は、以下のようなものです。

  • 新しい未発表の理論や解決法を加筆する。
  • オリジナルのアイデアを加筆する。
  • 新しい用語を定義する。
  • 既存の用語に新たな定義を与える
  • 他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判の良い資料を提示することなく加筆する。
  • 編集者が好む立場を支持するような形で、既存の事実、理念、意見、解釈、定義、評論、考察、推測、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判の良い資料を明記せずに加筆する。
  • 新しい造語を、その造語が何らかの評判の良い資料に由来することを示さずに、導入したり使ったりする。

Wikipedia:独自研究は載せない

ここでは、何を「独自研究」と定義しているか良く読んでおいてもらいたい。

理論に関しては、以下のことに留意してください。

  • 主要な概念を記す。
  • 個々の理論を明確に区別し、かつ、極少数の人々にしか支持されていない理論には言及する必要がないことに留意しつつ、既知の一般的な概念を記し、全体的な合意を特定する。

確立していない造語や、権威ではない個人やそのような個人からなる小集団に由来する概念は、記事削除の対象になるか、編集で除去されるべきです(その理由は、必ずしも誤りだからではなく、検証が不可能だからです)。

Wikipedia:独自研究は載せない

「既知の一般的な概念」を記すように書かれていることを良く読んでおいてもらいたい。

もしAが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます。 しかしこれは、ジミー・ウェールズの言葉を借りれば「新たな叙述あるいは歴史解釈」を生む「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな合成」の典型であり、独自研究に相当します。 「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。

例えば、次のような記述は「特定の立場を推進するような、公表された情報の未公表の組み合わせ」となります(なお、登場する名称は架空のものです)。

Wikipedia:独自研究は載せない

この文章を読むと、A+B=Cである場合に、AとBの双方に信頼できる情報源があっても、あたかも、Cを記述してはならないと書いてあるように読める。 しかし、具体例を見ると、A+B+α=Cの事例しか挙がっていない。 例えば、「ゴンリという食材にはゴンリナーゼという成分が含まれている」(A)と「ゴンリナーゼには、がん細胞を殺す作用がある」(B)の2つの事実だけでは、「ゴンリを食べることはがんになるリスクを減少させる」(C)という結論は導けない。 少なくとも、次のような事実(全てまとめてαとする)がなければ、Cという結論は導けない。

  • 「ゴンリを食べること」によって、「ゴンリナーゼという成分」が変化することなく、がん細胞に到達する
  • 「ゴンリという食材」に「ゴンリナーゼという成分が含まれている」量は、「がん細胞を殺す作用」が効果を発揮するのに十分である
  • 「ゴンリを食べること」には「ゴンリナーゼという成分」の「がん細胞を殺す作用」を上回る逆の作用がない

つまり、この事例におけるCという結論には、A+B以外の情報αが含まれているのである。 本来、ここで説明すべきことは、目立たないように独自研究αをコッソリ追加することの問題点であろう。 しかし、この文章では、そうした説明がきちんとできていない。

ウィキペディアでは、出典(参考文献)に基づいて記述することを大切なルールとしています(Wikipedia:検証可能性をご覧ください)。 しかし、これは論拠を示すということであって、他の人が書いた文章を丸写ししろと言っているのではありません。 他の人が書いた文章を丸写しすることは盗作であり、著作権侵害という法律違反になります。 また、引用であっても著作権法で認められる引用の要件に該当しない場合は著作権侵害になるので注意して下さい。

Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと

Wikipediaでは「出典(参考文献)に基づいて記述すること」は「他の人が書いた文章を丸写し」する行為を意味しないと明言している。 そして、「他の人が書いた文章を丸写し」する行為は「盗作であり、著作権侵害という法律違反」として禁止している。

他人の著作権を侵害するやり方で素材を絶対に使わないでください。 それは、法的な責任問題を作り出したり、このプロジェクトを深刻に傷つけることになります。 もし、疑いがあるならば、自分自身でそれを書いてください。

著作権法は、アイデアもしくは情報自身ではなく、アイデアの独創的な表現に当てられることを覚えておいてください。 それゆえ、百科事典の記事や他の著作を読んで、それをあなた自身の言葉で再構成し、ウィキペディアに提出することは完全に合法です。 (どの程度の再構成が一般的状況の下で必要かという議論に関しては盗作および公正使用を見てください。)

Wikipedia:著作権

「百科事典の記事や他の著作」を「あなた自身の言葉で再構成し、ウィキペディアに提出すること」がWikipediaの編集方針に反するのであれば、それが「完全に合法」であるかどうかを論じる意味はない。 言い換えると「完全に合法」であるかどうかを論じるのは、それがWikipediaの編集方針に反しない行為だからである。 つまり、「あなた自身の言葉で再構成し、ウィキペディアに提出すること」は「独自研究」に該当しないのである。

なお、ウィキペディアから排除されたからといって、それが「品質の劣る」ものであるとは必ずしも限りません。 ピューリッツァー賞クラスのジャーナリズムやノーベル賞ものの研究でさえも、それがウィキペディアで最初に発表されることになるのであれば、掲載を拒否せざるを得ないのです。 もしあなたがウィキペディアという知の集大成に加えるべきだと考える情報をお持ちでしたら、まずそれを査読制度のある雑誌か評判の良い報道メディアで発表し、その後中立的な観点の流儀にのっとり、あなたの業績を証拠として示すのが最良の道です。

Wikipedia:独自研究は載せない


自己公表された情報源とは、いかなる形式の独立した事実の確認を受けてはいないか、著者と公表作業との間に誰も立ち会っていないような公表物を指します。 この中には、個人のウェブサイト、また自費出版によって出版された本が含まれます。 誰でも、ウェブサイトを作ったり本が出版されるように金を支払い、そしてある分野の専門家であると主張できます。 こうした理由から、自己公表された本や個人のウェブサイト、ブログの大部分は情報源として受け入れられません。

自身の専門分野内について記述している著名な専門研究者や、自己公表物を制作している著名な職業ジャーナリストの場合は、この例外になるかもしれません。 いくつかの事例では、こうした人々の作品が以前に信用できる第三者的立場の出版社から公表されていて、偽名や仮名ではなく自身の名前で公表しているかぎり、情報源として受け入れられるかもしれません

Wikipedia:信頼できる情報源

Wikipediaでは「信頼できる情報源」は「査読制度のある雑誌か評判の良い報道メディア」等に限定され、原則、「自己公表された情報源」は「信頼できる情報源」とは認められない。 しかし、「著名な専門研究者」や「職業ジャーナリスト」の「自己公表された情報源」は例外になる「かもしれません」とされている。 ところが、「著名」「専門研究者」等の定義があいまいで、「かもしれません」も非常に曖昧なため、「自己公表された情報源」を認めるかどうかの基準を各自が独自に設定してしまう。

また、「報道メディア」も曖昧な表現であるし、何をもって「評判の良い」と判断するのかも不明確である。 テレビやラジオの電波に載せた報道には、放送法が適用され、同法第3条第1項各号には「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」等と記載されるなど政治的中立性や真実性等の義務が課されているが、その政治的中立性や真実性等を自ら立証する義務までは課されていない。 同法第9条には「訂正又は取消しの放送」の義務も明記されているが、それは、「その放送により権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人から、放送のあつた日から三箇月以内に請求があつたとき」に「その放送をした事項が真実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したとき」に限られる。 つまり、「権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人」から請求がなかったり、真実性が明確でない場合は、「訂正又は取消しの放送」をしなくて良いのである。 同法第3条により「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と規定されているので、法的手続きを経て虚偽である証明をしない限り、「訂正又は取消しの放送」をさせることはできない。 放送倫理・番組向上機構は、公的機関(BPO)なる組織も存在するが、その構成メンバーは弁護士、法律家、社会学者、タレント、作家等であり、審議する個別の報道内容に合わせて、その分野の専門家を集めるようなことはしない。 「STAP細胞報道に対する申立て」勧告のように、主たる報道内容である論文捏造疑惑の真実性・公共性・公益性については全く否定せずに、捏造に用いた手段の真実性の欠如を根拠に、報道の人権侵害を認定するトンデモ判断がくだされることもある。 以上の通り、テレビやラジオの電波に載せた報道は、専門家による事前チェックの仕組みもなければ、専門家による事後チェックの仕組みもない。

新聞に至っては、新聞を自称することや報道内容を規制する法律がない。 だから、どのような媒体であろうとも、印刷物として発行されていれば、新聞と名乗ることが可能である。 4大新聞ですら、いずれも、政治的な姿勢が明確に決まっており、事実の解釈や論調には特定の政治的主張のためのアジテーションが見受けられる。 これら4大新聞においても、いずれも、客観的事実の集合ですら、結論に合わせて恣意的に取捨選択されている場合がある。 だから、特定の主義主張を流布するための自称新聞など推して知るべしだろう。

結果、「報道メディア」を自称する媒体で公表された内容を全て調べれば、明らかに真実に反する内容も多数見つけることが可能である。 そして、「評判の良い」「報道メディア」の基準が何も示されていないため、そうした明らかに真実に反する内容を恣意的に選別して、「信頼できる情報源」だと主張することも可能である。 結果、何をもって「信頼できる情報源」とするかの判断は、声の大きいものが勝つ仕組みになっているのである。

言葉を濁すとは、意見や主張を記事中に書くときにその意見の論者を明確にせずに一般的なことであるかのように表現にすることを、ここでは指します。 論争の余地がない主張や意見であれば、そのような表現で記述して構いません。 しかし、記述する意見が主流とは言えない偏った意見に該当すると思ったら、主張する論者(意見の持ち主)を文中に明記した上でその意見を書いてください。

言葉を濁す表現により、意見の論者を不透明にさせて、その意見が一般的であるかのように権威づけてしまうおそれがあります。 中立的な観点に沿って記事を作っていくために、意見の論者を示さないで良いかは上記の基準に沿って慎重に判断してください。 明確に論争の余地がない主張や意見であると根拠を持って示せないのであれば、その意見を述べている主体の名前や姿をはっきりさせることが望ましいやり方です。 また、中立的な観点とは別に、言葉を濁した文章では、記述内容が希薄なものとなって読者にとって有用な文章とならなかったり、記述内容が複雑で難解なものとなって読者が混乱するような文章になるおそれもあります。

Wikipedia:言葉を濁さない

ガイドラインに反する言葉を濁した表現を平気で書く人もいる。 そして、それを指摘されても、平気で屁理屈を並べる。 それに対しても、誰も注意しない。

日本語版Wikipediaの実態 

日本語版Wikipediaには、独自研究に該当しない記事を書いても、出典を強要する人が少なくない。 私も、そうした、過剰な出典強要に度々あってきた。 ある日、小難しい専門用語で書かれていて分かり難かった部分を易しく言い替えたりするなど、「既知の一般的な概念」を「あなた自身の言葉で再構成し、ウィキペディアに提出」した。 少なくとも、執筆した本人は、そのつもりである。

そうすると、例によって、過剰な出典を強要されたのである。 私は、すかさず、何処が独自研究に該当するのかと尋ねたが、それに対する具体的な返答はない。 彼は、ただ「独自研究だから出典を示せ」とオウム返しするだけである。 あまりにしつこいので、「Wikipediaの基本相互作用に載っているじゃないか」と言い返してみた。 もちろん、これは「指摘した独自研究とは基本相互作用のことではない」という返答を期待しての発言である。 その後、どの部分が独自研究なのかの説明が全く足りていないからそのようなやりとりになるのだと指摘する予定であった。 しかし、予想に反して、彼は「自己参照はルール違反だ」と騒ぎ出した。 何と、彼が求めていたのは、基本相互作用に関する出典だったのである。

基本相互作用は、出典がなければ独自研究になるのだろうか。 だとすると、Wikipediaの基本相互作用の記述は独自研究になってしまう。 Wikipediaには、基本相互作用のページだけでなく、強い相互作用、電磁相互作用、弱い相互作用、重力相互作用のいずれにも出典がないのだ。 だとすると、Wikipediaは、そんな基本的な項目でさえ、独自研究が掲載されているのか。 本当に独自研究であるなら、何故、誰も、基本的な物理法則に関する独自研究を修正もせずに放置するのか。 尚、強い相互作用、電磁相互作用、弱い相互作用には2017年5月に要出典が貼られているが、それ以前には貼られていなかった。

もちろん、Wikipediaの基本相互作用の記述が独自研究であるわけはない。 基本相互作用が「既知の一般的な概念」であることは誰の目にも明らかだろう。 そこらに売ってる解説書にも、大抵は掲載されているような、物理学の基本知識である。 ネット上で検索しても3分で大学教諭の解説ページを見つけられるくらい、有名すぎる基本知識である。 そして、「相対性理論は間違っている」系のトンデモさんは良く居るが、「基本相互作用は間違っている」系のトンデモさんなど聞いたこともない。 Wikipediaにこれらの出典が掲載されていないのは、出典が見つけられないからではなく、掃いて捨てるほどそこらに出典がありすぎるからである。 全ての解説書等を挙げていては膨大となるし、かと言って、絞り込むならどれを選ぶべきかの選別も難しい。 そもそも、あまりに著名な内容であるため、わざわざ出典を明示しなくても、真偽の検証が極めて容易である。 だから、誰も出典をつけたがらないのである。 少なくとも、4つの基本相互作用と、その概要くらいなら、わざわざ出典を必要とするようなことではない。 つまり、彼は、「既知の一般的な概念」に対して出典を示せと言っていたのである。 「自己参照はルール違反だ」という答えは、出典不要の記述に対する過剰な出典要求であったことを彼自身が認めたに等しい。 彼は、そのことに気づいているのかいないのか知らないが、鬼の首を取ったかのように、故意のルール違反だと糾弾してきた。

Wikipediaのルールをよく知っていれば、具体的なルールの書かれたページを示して、出典不要だと言い返すことは容易だろう。 しかし、Wikipediaの初心者は、過剰な出典を強要されたら、自分で対抗するのは難しい。 ルールを逆手に取られたら、ルールを熟知している方が圧倒的に有利である。 そして、そのような過剰な出典の強要が行なわれていても、誰も、やり過ぎだとは注意しないのである。 何故、そうなるのかは、後でまとめて記述する。

そうした過剰な出典を強要する人に限って、自分は独自研究を提示しつつも、決して、その出典は提示しない。 しつこく要求して、しぶしぶ提示されるのは、その人の提示した独自研究とは違う物の出典や、記事の分野とは違う論文である。 また、ここまで紹介したリンク先には、「物理学の記事を書くのに、物理学以外の分野の論文を出典としてはならない」とする決まり事は見当たらない。 これを逆手に取れば、分野外の論文を出典とすることも可能である。 実際に、それをやっても分野外だと批判されないのである。 さらに、ちゃんとした文献でも、どの部分をどのように引用するかで全く意味が変わって来る。 しかし、出典があるかないかしかチェックされないことが多いので、出典元の趣旨を180度ねじ曲げていても批判されることはない。 さらに、他人に要求する出典は認定基準を上げて、自分の出す出典は認定基準を下げることも良く行われている。 つまり、せっかくの出典主義も、実態としては、形骸化しているばかりか、逆に、独自研究を守るという本末転倒に陥っているのである。

ここで、Wikipediaの丸写し禁止ルールを思い出して欲しい。 Wikipediaでは、全ての記述は「自分の文章」で書かなければならない。 つまり、Wikipediaで問われている検証可能性は、「自分の文章でまとめ」た文章の検証可能性である。 出典の趣旨をねじ曲げて独自研究にすり替えたとしても、「自分の文章でまとめ」ただけとする言い訳が通れば独自研究扱いされない。 逆に、「既知の一般的な概念」に対しても、「自分の文章」部分に言い掛かりをつけてしまえば、独自研究扱いして排除することができる。 そうした「自分の文章」が、出典や「既知の一般的な概念」にない趣旨を追加したり、その内容を捻じ曲げていないか、自ら検証する人はいない。 趣旨の変更に言及せずに出典ありと認定するか、あるいは、「文章を丸写し」ではないことをもって独自研究認定するかのいずれかである。 そうした主張をする人とは、どうやっても全く会話が成立しない。 彼らは、趣旨がどう変わっているかを具体的に指摘しても指摘内容を闇に葬り、独自研究と認定した理由の具体的な説明を求めても「文章を丸写し」ではないからダメだの一点張りで押し通す。 だから、ルールを逆手に取れば、独自研究を守る目的で検証可能性を悪用することができるのである。 そして、日本語版Wikipediaでは、実際にそれがまかり通っている。

以上のように、過剰な出典を要求する人は、記事の内容を恣意的にコントロールする目的でルールを濫用する。 つまり、本来は「独自研究」を防ぐためのルールであるのに、自分の「独自研究」を守るためにルールが濫用されているのである。 それに対しても、誰も注意しない。 ガイドラインに反した言葉を濁した表現を平気で書く人も居る。 そして、それを指摘されても、平気で屁理屈を並べる。 それに対しても、誰も注意しない。 結局、私は、日本語版Wikipediaの内容の改善を諦めたが、その経緯は私がWikipediaを辞めたわけに詳細に記載する。

補足 

当時の私の量子力学に関する知識は「【図解】量子論がみるみるわかる本」(ISBN4-569-63370-6, 監修:佐藤勝彦)から得たものである。 内容の一部記憶違い、書籍の内容の間違い等により、当時、Wikipediaの本文やノートに書いたことには、些細な誤りがあった。 しかし、大きな間違いはなく、現在、量子力学のページに書いてあることと大差はない。

当時、二重スリット実験は、粒子が2つの経路を通ったと考える必要もなく、粒子が2つの経路を通ったとしても説明がつかないと書いたが、それは「既知の一般的な概念」を知っていれば自明の理である。 しかし、それすらも独自研究扱いされた。 もっと具体的なことは二重解の理論やその派生理論を紹介した文献に記載されている。 もちろん、この事実は、このような物理学者の出典を要しないほど自明の理である。

また、当時、干渉性の喪失を含まないHugh Everettの相対的状態方程式は実験事実と整合しないことをノートページに書いたが、それは量子力学の「既知の一般的な概念」を知っていれば自明の理である。 しかし、それすらも独自研究扱いされた。 それと同様のことは「新版量子論の基礎」(ISBN-10:4781910629,ISBN-13:978-4781910628,著:清水明)という教科書を書いた清水明教授もModern Theory of Quantum Measurement and its Applications by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明教授で説明されている。 もちろん、この事実も、このような物理学者の出典を要しないほど自明の理である。

「既知の一般的な概念」から自明の理でないことを物理学者が支持していると主張するなら、そう主張する方が出典を明示すべきではないだろうか。 しかし、そうした出典が示されたことは一度たりともなかった。


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