[社会問題]
例えば、次のようなことを考えてみよう。道端に大金が落ちていた。しかも、まわりには誰もいない。さて、あなたはどうするか。迷わず警察に届ける人、迷わず懐に入れる人、迷ってしまう人、様々であろう。世の中には善人もいるし、悪人もいる。例え、善人だけの社会を作ったとしても、そのうち、また、悪人は生まれてくる。
だから、不正が起きうる機会があれば、必ず、不正が起きる。常に善悪両方が存在することを想定し、それでも不正が起きない制度を確立することが必要である。不正が起きうる制度を放置しておいて、個人の倫理観に期待するのは監督不行届である。実際に不正を行うかどうかは個人の責任であるが、不正が起きうる機会の存在自体は個人の責任ではない。よく、個人の倫理観を正すべきだという意見を新聞投書などで見かけるが、これでは不正防止策にはならない。確信犯には、善人になれと言うだけ無駄。確信犯ではなかったとしても、説教は、時に、誘惑の前には無力である。
公務員などの不正があった場合、個人の責任を問う主張だけが声高に聞こえてくる。話題が組織の改善となると途端に声が小さくなるのだ。日本人は、明確に悪と識別された人を成敗することにしか興味を示さない。制度や体質という目に見えない物、個人が善悪に色分けされていない問題については、非常に無頓着である。しかし、個々の人間の責任を追及しても、その場だけの話に終わってしまう。結局、いずれ、また、同じことが繰り返されるのだ。本当に社会にとって重要なことは何か。それを考えていない発言は、個人的発散をしているだけの自己満足に過ぎない。
最終更新時間:2005年08月30日 19時26分18秒
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