「相対的貧困率」が貧困率ではない理由
最初に
その国の国民の豊かさを示す指標として、何が適切だろうか。
絶対的貧困率は、途上国の指標としては適切だが、新興国や先進国の指標としては適切ではない。 何故なら、新興国以上の経済力があれば、国の制度次第でいくらでも絶対的貧困率を下げることが可能だからである。 その証拠に、ロシアや中国の絶対的貧困率は非常に低い。 新興国以上の経済力があれば、社会保障制度で絶対的貧困を根絶することは可能である。 また、共産主義なら、働く意欲があれば最低限の職は保証されるため、絶対的貧困は回避しやすい。 ただし、共産主義は、絶対的貧困は回避しやすい一方で、経済発展には向かない。 結果、先進国よりはるかに貧しいのに、絶対的貧困率は先進国と同等かより優れているということが起こり得る。 そのような場合、絶対的貧困率で豊かさを測るのは不適当だろう。
一方で、「相対的貧困率」は、全く指標として機能しない。 何故なら、「相対的貧困率」は貧困率を示していないからである。 貧困率を示していない以上、「相対的貧困率」が何%だとか、OECD加盟国中何位だとか、先進国の中ではどうだとか、全く論じる意味がない。
「相対的貧困率」は貧困率ではない
「相対的貧困率」の定義を知れば、それが貧困率を示していないことは自明の理である。 定義によれば、「相対的貧困」は全国民の等価可処分所得の中央値の半分を基準とする。 例えば、次のような所得分布を考えてもらいたい。
A国とB国の特徴をまとめると次の通りとなる。
- 平均が大きく、かつ、標準偏差も大きいA国では「相対的貧困率」=9.13%
- 平均が小さく、かつ、標準偏差も小さいB国では「相対的貧困率」=7.30%
図で見れば、A国よりもB国の方が明らかに貧しい。 しかし、「相対的貧困率」はA国の方が大きい。 この例では豊かな国の方が「相対的貧困率」が大きくなっている。 様々なグラフを描いてみると分かるが、「相対的貧困率」が低い方が貧しいこともあれば、「相対的貧困率」が高い方が貧しいこともある。
中央値が最低値の半分に満たない場合、「相対的貧困率」は0%となる。 ここで、例えば、所得の分布が一定の分布パターン(ex:正規分布)であると仮定する。 その場合、中央値が最低値の半分以上では、中央値が大きいほど「相対的貧困率」は大きくなる。 中央値が大きいほど、国民は豊かになるはずである。 しかし、この場合は、中央値が大きいほど、すなわち、国民が豊かになるほど「相対的貧困率」は大きくなるのである。
このように、「相対的貧困率」は、実際の貧困率とは全く相関しない。 だから、貧困率を意味するかのような「相対的貧困率」の呼称を使うことは極めて不適切である。
簡単に言えば、「相対的貧困率」は「貧困」の基準がおかしいのである。 確かに、現在の先進国だけを見れば、「相対的貧困率」が「貧困率」を示しているかのように見える。 しかし、極端に貧しい国と、極端に豊かな国の例を挙げると、基準のおかしさがよく分かる。 たとえば、絶対的貧困率がちょうど50%の途上国であれば、「相対的貧困」の基準は絶対的貧困の基準の半分となる。 つまり、絶対的貧困率が一定以上の途上国では、「相対的貧困」の方が絶対的貧困より貧しくなるのである。 先進国では絶対的貧困の方が貧しいから、これは完全な逆転現象である。 結果、途上国では、絶対的貧困であっても「相対的貧困」に該当しない不可思議な層が発生する。 逆に、殆どの所得階層がお札を便所紙にするほど金に有り余った未来社会を考えよう。 現在の先進国と比べて等価可処分所得の中央値が10倍となる経済発展を遂げたなら、その国では現在の先進国の等価可処分所得の中央値の5倍が「相対的貧困」の基準になる。 その場合、現在の先進国の中央値の5倍近く豊かであっても、「相対的貧困」となる。 つまり、ものすごい金持ちなのに「相対的貧困」と認定されるのである。 これは、「相対的貧困率」が「貧困率」を示しているかのように見える結果が、単なる偶然に過ぎないことを示している。 つまり、現在の先進国の「相対的貧困」の基準が、偶々、後述する「健康で文化的な最低限度の生活」の限度とほぼ一致しているだけである。 しかし、国が変わったり、時代が変われば、「相対的貧困」の基準が「健康で文化的な最低限度の生活」の限度とは一致しなくなる。
絶対的貧困率は、各国の物価で補正した購買力平価ドルを用いること以外は、全世界で同じ基準で「貧困」を判断する。 だから、途上国同士でなら絶対的貧困率が高い方が貧しくなる。 しかし、「相対的貧困率」は「貧困」の基準が国によって違う。 だから、国同士で「相対的貧困率」を比較する意味は全くない。 国によって基準が違う以上、「相対的貧困率」が高い方が貧しいとは限らないのである。
こんなおかしな結果を生む理由は、全国民の等価可処分所得の中央値の半分を基準とするからである。 国の豊かさによって変わる基準で「貧困」を判断しようとするから、このような不合理な結果を産むのである。 途上国の人は先進国の人よりも貧しさに我慢しなければならないならないのか。 先進国の人が途上国の人より贅沢することは当然のことなのか。 常識で考えれば、先進国の人も途上国の人も、同じ基準で貧困を判断しないとおかしい。 貧困かどうかは絶対的基準で判断すべきものであって、「相対的貧困」という概念が根本的におかしいのである。
「相対的貧困率」は格差を示している
正規分布では、ピーク値≒中央値≒平均値となる。 厳密に言えば、0以下の裾野部分の足切りにより3つの値は必ずしも一致しないのだが、ここでは誤差として大胆に無視する。 さらに厳密に言えば、許容可能な範囲を超える誤差が生じるケースがあるのだが、そこまで考えるとキリがないし、大まかな傾向には大きな影響を与えないので無視する。 ここで、標準偏差が等しくて、かつ、中央値が違う場合を想定する。
グラフは確率密度を示しているので、0から中央値の半分までを積分すれば、すなわち、塗りつぶした部分の面積が「相対的貧困率」を示す。 図の通り、標準偏差が等しい場合は、中央値が大きいほど「相対的貧困率」は小さくなる。 つまり、Bに比べてAの方が「相対的貧困率」が大きい。 また、この場合、標準偏差が等しいので、AとBの所得格差は金額ベースでは等しい。 しかし、所得比で見れば、Bに比べてAの方が格差が大きい。 よって、この場合は、格差が大きい方が「相対的貧困率」が大きくなっている。
さらに、中央値が等しくて、かつ、標準偏差が違う場合を想定する。
図の通り、中央値が等しい場合は、標準偏差が小さいほど「相対的貧困率」は小さくなる。 つまり、Bに比べてAの方が「相対的貧困率」が大きい。 この場合は、金額ベースで見ても、所得比で見ても、明らかに、Bに比べてAの方が格差が大きい。 よって、この場合も、格差が大きい方が「相対的貧困率」が大きくなっている。
尚、2つの図のAがともに4.78%で、かつ、Bがともに0.62%となっているのは偶然ではない。 Aはともに(標準偏差÷中央値)が0.3、Bはともに(標準偏差÷中央値)が0.2となっている。 このように、正規分布では「相対的貧困率」は(標準偏差÷中央値)に対応した値となる。 正規分布以外でも、平均や標準偏差以外の分布パターンが変わらない前提であれば、「相対的貧困率」は(標準偏差÷中央値)に対応した値となる。
以上の通り、「相対的貧困率」は(標準偏差÷中央値)に対応した値を示しており、これはすなわち格差の度合いを示している。 しかし、格差が広がることは貧困率が上がることを意味しない。 一般に、経済が発展すれば格差は拡大するのであり、国民が豊かになればなるほど「相対的貧困率」は上がる傾向となる。 ただし、逆[格差が拡大すれば経済が発展する]は必ずしも真ではないので、経済発展とは無関係に格差が拡大すれば、その分、貧困者は増えるだろう。 一方で、経済発展に伴って格差が拡大すれば、逆に、貧困者は減る。 よって、「相対的貧困率」が高いほど国民が貧しいとは言えない。 すなわち、「相対的貧困率」が国民の貧富の程度を全く示していない。 次のグラフは横軸が絶対的貧困率で縦軸が「相対的貧困」となっている。
世界銀行の貧困率データ(2019年1月閲覧) Poverty rate - OECD(2019年1月閲覧)
「相対的貧困率」は、OECD加盟国のデータしかないため、データ数が少ない。 とくに、絶対的貧困率の高い途上国のデータがない。 絶対的貧困率5%以上の国の「相対的貧困率」はインドと南アフリカ共和国のデータしかない。 さらに、絶対的貧困率25%以上の国の「相対的貧困率」のデータはない。 途上国では絶対的貧困率が50%を超える国は沢山あるが、それらの国と「相対的貧困率」を比較することはできない。
「相対的貧困率」の代わりに格差を示すジニ指数(0に近いほど公平)を用いてみる。 次のグラフは横軸が絶対的貧困率で縦軸がジニ指数となっている。
世界銀行の貧困率データ(2019年1月閲覧)
「相対的貧困率」とジニ指数は、大まかな傾向は似通っているようだが、一部で明らかに違う部分がある。 例えば、ロシアは、日本や中国より「相対的貧困」が小さい一方で、ジニ指数は日本や中国より大きい。 これは、「相対的貧困率」が所得階層の上半分を評価対象としない一方で、ジニ指数が全ての所得階層を評価対象とすることによる違いと考えられる。 これは、ロシアでは、特権階級が暴利を貪っている可能性を示唆していると言えよう。 ただし、中国がそうでないことを示唆しているわけではない。 後で示す弱い貧困率も考慮すれば、中国は貧困層が多いために相対的に特権階級が暴利が見えにくくなっているだけかもしれない。
既に説明した通り、経済格差には、経済発展に伴って発生するものと、経済発展とは無関係に発生するものがある。 さらに言えば、その他に、社会保障制度の不十分さによる格差もあるが、これは真の貧困率から読み取れるので、特別な格差の指標は必要ない。 そして、経済発展とは無関係に発生する経済格差は、国民を豊かにするためには百害あって一利なしである。 有害な格差を検証する指標としては、「相対的貧困率」は適切ではなく、ジニ指数を用いるべきであろう。 絶対的貧困率が高い一方で、ジニ指数が低いなら、単に、その国の経済力が弱いだけである。 しかし、絶対的貧困率もジニ指数も双方ともに高いなら、その国の経済構造に是正すべき点があることを示している。
まとめると、「相対的貧困率」は、経済発展によって生じる格差と社会保障制度の不十分さによる格差等は示しているが、経済発展を阻害する格差は示さない。 経済発展を阻害する格差を論じるならジニ指数で事足りるし、社会保障制度の不十分さも真の貧困率で事足りる。 当然のことながら、経済発展によって生じる格差は歓迎すべきことであって、問題にすべきことではない。 そして、既に述べた通り、「相対的貧困率」は貧困率を示していないので、真の貧困率を論じる目的でも使えない。 以上を考慮すれば、「相対的貧困率」の指標としての意味はないに等しい。
「相対的貧困率」とは何か?
そもそも、「相対的貧困率」とは、何を目指して指標化しようとしたものか。
絶対的貧困の基準は、最低限の衣食住が賄える金額として、2011年の購買力平価(PPP)に基づき1日1.9ドルと設定されている。 2011年段階の消費者物価PPPドルなら、1PPP$は約130円なので、1.9PPP$なら247円くらいだろう。 1ヶ月に直すと約7400円である。 日本では家賃も払えない金額になるが、これはPPP$の物価の換算方法(標準的な消費を基準に換算しているが、それは貧困層の消費とは違う)と日本の物価構造(不動産が極端に高い)が主な原因と考えられる。 では、住居費用以外に1ヶ月約7400円以上使える人は貧困でないと言えるのか。 そもそも、何をもって貧困とするか。 日本における客観的な貧困の基準を最低生活費とすることには多くの人が同意するものと思う。 日本では、憲法で「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保証され、その「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を満足するために生活保護法が制定されている。
日本国憲法第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
生活保護法第一条 この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。
生活保護制度では、収入が最低生活費に満たない場合に、その差額が支給される。 つまり、最低生活費が「健康で文化的な最低限度の生活」の基準となるわけであり、その「健康で文化的な最低限度の生活」ができない人は貧困とみなせるのである。 ここでは、住宅扶助、教育扶助、医療扶助、介護扶助、出産扶助、生業扶助、葬祭扶助等を含まない、生活扶助のみを考慮する。 生活保護制度における生活扶助基準額の算出方法(平成30年10月) - 厚生労働省によれば、最低生活費は人によって違い、複雑な計算が必要である。 「生活保護制度」に関するQ&A - 厚生労働省の例に挙がっている事例を参照すると、一人当たり4万〜8万円程度である。 これは、先ほどの絶対的貧困の基準の10倍前後となる。 結果、絶対的貧困のみを貧困と見なしてしまうと、最低生活費の10分の1くらいしか収入がなくても貧困ではないことになってしまう。 最低生活費に満たない場合も貧困と考えるなら、絶対的貧困とは別の基準が必要になる。 すなわち、絶対的貧困は強い貧困で、最低生活費に満たない場合は弱い貧困と考えることができる。
- 強い貧困
- 経済的理由で、最低限の栄養、衣類、住まいのニーズが満たされなくなる状態
- 弱い貧困
- 経済的理由で、健康で文化的な最低限度の生活を営めない状態
その弱い貧困を定義する基準として、「相対的貧困率」という概念を持ち出したのではないか。 しかし、既に説明した通り、貧困の基準は国の豊かさによって変わらない絶対的基準でないとおかしい。 これを書いている現在において「相対的貧困」の基準と最低生活費は概ね一致している。 しかし、それは今だけ偶々一致しているだけであり、時代が変われば適切でなくなることは容易に予想できる。 そもそも、「相対的貧困率」では国と国との間の比較に使えない。 国どおしで豊かさを比較するなら絶対的基準は必須であろう。 だから、弱い貧困について論じたいなら、どの程度をもって弱い貧困と考えるのか、その妥当な基準を定義すべきである。
「相対的貧困率」の基準額を中央値の半分としたのは「経済的理由で平均的な人と同じことができない状況は貧困だ」という考えが根底にあると思われる。 しかし、そういう考えなら中央値に満たない人は全て貧困になるはずであり、基準額を半分にする理由がない。 中央値を基準額として採用すれば「相対的貧困率」は常に50%になるが、定数化を避けることは基準額を半分にする理由にはならない。 何故なら、経済的理由で平均的な人と同じことができないことを「相対的貧困」と定義するなら、「相対的貧困率」は常に50%になるのが正解であるからだ。 正解を示しているはずの数値を歪めるために基準額を変える方がおかしい。 そもそも、基準額を半分にしたところで貧困率を表さない意味不明の数値になるのだから、むしろ、定義通りの定数値となる方が適切だろう。
もっと根本的なことを言えば、経済的理由で平均的な人と同じことができない状況を貧困と言って良いのか。 平均的な人と同じことを求めるのは、それができないと集団から受け入れられないからであろう。 しかし、それならば、差別意識をなくすことを考えるべきではないのか。 国が豊かになっても、それによって平均が上がる以上、平均的な人と同じことができない人の割合は減らない。 だから、排他的な風潮を変えなければ、貧困に対する差別はなくならない。 一方で、多様性が受け入れられるなら、何をするかは本人の意志で取捨選択すれば良いのであって、平均的な人と同じことをする必要はない。 そうなれば、平均的な人と同じことができなくても差別を受けることはなくなる。 それならば、経済的理由で平均的な人と同じことができない状況を貧困と考える必要はなくなり、純粋に「健康で文化的な最低限度の生活」が何であるか定義できれば、それに必要な金額を積み上げることで貧困の基準額を算定できる。
例えば、「今時、ほとんどの家にクーラーがついている」という理由で経済的理由でクーラーが買えない人を貧困と考えるのはおかしい。 しかし、極度に不快な暑さや熱中症を回避することが「健康で文化的な最低限度の生活」の必須条件と定義するなら、それは一つの考え方であろう。 そして、地域や環境やその人の性質等を考慮して、必須条件を満足するためにクーラーが必要かどうか検討すれば良い。 そうやって具体的な定義に対して必要な金額を積み上げれば貧困の基準額を算定できる。
面白いことに、世界銀行の貧困率データでは任意の基準額での貧困率を求めることができる。 ここで、仮に、絶対的貧困の基準の10倍(生活扶助の額にほぼ一致)を弱い貧困の基準としてみる。 そうすると、2010年頃の日本の「相対的貧困率」と弱い貧困率がだいたい同じくらいになる。 そして、ここで、「相対的貧困率」と弱い貧困率をグラフで比較してみる。 次のグラフは横軸が弱い貧困率で縦軸が「相対的貧困率」となっている。
世界銀行の貧困率データ(2019年1月閲覧) Poverty rate - OECD(2019年1月閲覧)
サンプルが少ないのでハッキリとしたことは言えないが、一見、「相対的貧困率」と弱い貧困率には正の相関性があるように見える。 しかし、弱い貧困率の100%の変化に対して、「相対的貧困率」は10%程度の変化であり、かつ、「相対的貧困率」のバラツキが10%以上ある。 これでは、「相対的貧困率」から弱い貧困率を推定することは不可能と言って良いだろう。 とくに、逆転現象が多く発生している点には注目してもらいたい。 例えば、ロシアは、弱い貧困率は日本よりかなり大きい一方で、「相対的貧困率」は日本よりやや小さい。 他にも、日本より弱い貧困率が大きい一方で「相対的貧困率」が小さい国は多数ある。 逆に、日本より弱い貧困率が小さい一方で「相対的貧困率」が大きい国もある。 「相対的貧困率」が貧困率を示しているなら、このような極端な逆転現象はありえない。 以上のことから「相対的貧困率」が弱い貧困率の指標として使い物にならないことは明らかであろう。
適切な貧困評価
次のグラフは横軸が絶対的貧困率(強い貧困率)で縦軸が弱い貧困率となっている。
世界銀行の貧困率データ(2019年1月閲覧)
絶対的貧困率と「相対的貧困率」のグラフの方が分布のばらつきが圧倒的に大きいことから見ても、「相対的貧困率」が弱い貧困率の指標として適切でないことが読み取れる。 これを見ると、途上国の評価には弱い貧困率では不十分で、かつ、先進国の評価には強い貧困率では不十分なことが明らかだろう。 強い貧困率と弱い貧困率の両方があって初めて世界の動向が分析できる。 経済体制が健全な国は、ほぼ赤い点線上に配置され、左下に行くほど豊かになり、右上に行くほど貧しくなる。 経済体制が健全でない共産主義国等は赤い点線より左上の方に外れる。
グラフから、中国やロシアは、絶対的貧困率がかなり低いにも関わらず、先進国に比べてかなり貧しいことが分かる。 一方で、日本は世界的にもかなり豊かな方であろう。 しかし、先進国の中で比較した場合、日本はもう少し弱い貧困率を下げる努力が必要であるとは言える。
さらに、弱い貧困率とジニ指数を比較してみる。
世界銀行の貧困率データ(2019年1月閲覧)
下の赤い線に近いほど、経済成長を伴わない格差が少ないと考えられる。 逆に、上の赤い線に近いほど、経済成長を伴わない格差が多いと考えられる。 このグラフからも、日本は格差をもう少し是正すべきで、それにより弱い貧困率を下げることが可能であるとは言える。 一方で、是正すべき格差がもっと酷い国も沢山ある。
更なる分析
世界銀行の貧困率データで貧困の基準を、弱い貧困の半額の9.8 PPP$に設定してみる。 ここで設定した貧困の基準は、住居費や非恒常的な費用を除いた最低生活費の約半額である。 だから、生活保護制度が適切に機能していれば、9.8 PPP$基準貧困率はほぼ0%になってしかるべきである。 しかし、日本の9.8 PPP$基準貧困率は3.74%にもなる。 これは、生活保護の対象となるべき人が生活保護制度の恩恵を受けられていない可能性を示唆している。 これに対しては「収入が少ないのに資産を持っている人が3.74%近くいるのでは?」という指摘もあろう。 そこで、平均月収千ドル以上の国のみを抽出したグラフを以下に示す。
世界銀行の貧困率データ(2019年2月閲覧)
スペインやイタリアは別格として、日本は先進国中でかなり悪い数値である。 2002年のデータになるが、日本とイタリアとスペインの社会扶助(日本における生活保護制度に相当)の給付月額をPPP$に換算すると次の表になる。
単身者 | 夫婦と子ども2人 | ひとり親と子ども2人 | |
---|---|---|---|
日本 | 535 | 1169 | 920 |
イタリア | 446 | 705 | 710 |
スペイン | 444 | 754 | 666 |
OECD諸国における失業時の生活保障関連「給付」一覧 - レファレンス平成16年4月号P.60 Purchasing power parities (PPP) - OECD Exchange rates - OECD
これによれば、イタリアとスペインの社会扶助の月額は日本よりかなり少ない。 イタリアに関しては「社会扶助は試行段階で、39の自治体のみが関与」とも書かれている。 日本と比べて社会扶助の月額が少ないなら、9.8 PPP$基準貧困率が日本よりも悪くて当然であろう。
社会保障制度に消極的なアメリカよりも日本の9.8 PPP$基準貧困率が高いのは不思議である。 平均月収が高い国のみを抽出しているため、収入が少ないのに資産を持っている人の割合が一部の国にだけ突出して多いとも考えにくい。 以上を踏まえると、やはり、生活保護の対象となるべき人が生活保護制度の恩恵を受けられていないのではなかろうか。 日本の弱い貧困率が先進国中で高めなのは、それが原因であろうと思われる。 相対的貧困率の高さも同様の理由だろう。
明確な間違い
山田さんの可処分所得を2倍の1,200万円にします。そして、貧困線以下だった高橋のおばあちゃんの可処分所得を半分の40万円にします。
この例のように人口が15人くらいの国があれば、「山田さんの可処分所得を2倍」「貧困線以下だった高橋のおばあちゃんの可処分所得を半分」でそれ以外は変化なしということが起きる確率はそれなりにある。 しかし、人口が現実的な数字になれば、そのような変化は天文学的に極めて低い確率となる。 現実に起こりえない極めて特殊な事例を持ち出して、何らかの結論を導くことは適切ではない。
世の中を暮らし向きにゆとりのあるグループ(裕)、普通のグループ(普)、苦しいグループ(苦)に分けてみましょう。 相対的貧困率は、グループ間の等価可処分所得の格差ではありません。 人口のうち、裕グループ、普グループの割合を示してもいません。 これらの変化は相対的貧困率に直接影響を与えません。 この率の示しているのは、苦グループの人口の割合です。
「暮らし向きにゆとりのあるグループ(裕)」「普通のグループ(普)」「苦しいグループ(苦)」が何を意味しているのか明確ではない。 ここでは、「苦しいグループ(苦)」が等価可処分所得が中央値の半分以下のグループと仮定する。 「グループ間の等価可処分所得の格差」だけの変化は、「山田さんの可処分所得を2倍」「貧困線以下だった高橋のおばあちゃんの可処分所得を半分」と同様、人口が現実的な数字となれば天文学的に極めて低い確率でしか起き得ない変化である。 また、「裕グループ」+「普グループ」の「割合」が一定である場合、「これらの変化は相対的貧困率に直接影響を与えません」は正しい。 しかし、そのような変化も、同様に、人口が現実的な数字となれば天文学的に極めて低い確率でしか起き得ない変化である。 既に述べたように、現実に起こりえない極めて特殊な事例を持ち出して、何らかの結論を導くことは適切ではない。 現実に起こりうる変化を想定すれば、「裕グループ」の「割合」が変化すれば「苦グループの人口の割合」も変化するし、「普グループの割合」が変化すれば「苦グループの人口の割合」も変化する。 よって、現実に起こりうる変化を想定すれば、「人口のうち、裕グループ、普グループの割合」が変われば、当然、「相対的貧困率」も変化する。
彼が言っていることを一般論化すると、分布パターンを変えれば「相対的貧困率」が同じで格差が違うケースも作り出せるということに過ぎない。 しかし、一般論化した話として論じる場合は、常識的に、標準偏差の変化を除いて分布パターンが変わらない場合を前提において論じるべきである。 というのも、中央値や標準偏差は変化しやすいパラメータであるのに対して、それらに比べて分布パターンは変化しにくいからである。 「相対的貧困率」が格差を示さなくなるほど分布パターンが変わる可能性は、特殊な経済体制まで含めればゼロではないが、特権階級のない自由主義経済ではまずないと言って良い。 逆に言えば、「相対的貧困率」は特殊な経済体制における格差を論じるには適さないと言える。 その原因を端的に述べれば、「相対的貧困率」は所得階層の上半分を全く見ていないからである。 だから、特権階級が暴利を貪っている状況であっても、それは「相対的貧困率」には現れにくい。 一方で、ジニ指数は、全階層を計算対象としているため、特権階級が暴利を貪っている状況が数値に現れやすい。 そのことは両者の示す格差の種類の違いを意味しているのであって、「相対的貧困率」が格差を示していないということではない。
したがって、相対的貧困率というのは、単純な格差の指標と言うよりも、その社会で普通の暮らしをしている世帯の半分に足りない等価可処分所得しか得ていない人の人数の割合です。 要するに、フローの所得だけでは世間並の暮らしに追いつけない、かなり差をつけられているわけです。 これはやはり世間的にいえば貧乏ということでしょう。 そいういう意味で、相対的に貧困な人の割合なのです。
これは「相対的貧困率」の定義を言い換えているだけであり、「その社会で普通の暮らしをしている世帯の半分に足りない等価可処分所得しか得ていない」「フローの所得だけでは世間並の暮らしに追いつけない、かなり差をつけられている」ことを「世間的にいえば貧乏」「相対的に貧困」と見なす理由が何も書かれていない。 何か尤もらしいことを言ったかのように聞こえるのは、文章中にない聞き手の印象に依存して結論を導いているからである。 そして、既に説明した通り、そのような印象は先進国の現状が生み出した偶然の産物に過ぎない。 国が変わったり、時代が変われば、そのような印象は完全に崩れるのである。
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