意識解釈
意識を特別視する理由
天才的数学者だったとされるフォン・ノイマンが量子力学の数学的基礎を確立しようとした時、数学的な手段での解決が難しい問題がひとつだけあった。
それを無理矢理解決するために用いたのが射影仮説である。
射影仮説は量子論の理論としての整合性を保つために絶対に必要なので、量子論の建設者達が、気持ち悪いとは思いながら、論理の必然として導入したもの
使われない公理by東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明教授
である。
ノイマンの手法では、測定していないときは時間経過に伴って連続かつ可逆的な変化をするが、測定の時だけ不連続かつ不可逆的な変化である射影仮説を導入する。 つまり、標準理論の数学的手法において、測定だけが例外的な現象となる。 科学的定理においては、例外がない方が好ましいのだが、明確に定義できるのであれば例外があっても差し支えはない。 射影仮説では、計算上の手順は示されていたが、物理的にどのような現象なのか明確に定義されていなかった。 そのことが、様々な解釈論争を生み出した。 挙げ句の果てには、ノイマンが意識解釈を提唱したと主張する者まで現れた。
素人考えでは、ミクロ(微視的)な物質がマクロ(巨視的)な物質に干渉した時に例外が起きると考えれば良いように思える。 しかし、その場合、ミクロとマクロの境界が問題となる。 この境界を特定する根拠はない。 そうすると、例外を定義できる現象が見当たらない。 そうした中で、人間の意識に着目した者がいた。 量子力学に限らず、科学的測定には、必ず、人間の認識が伴っている。 そして、一見、人間の意識以外には例外を定義できる現象が見当たらないように見える。 それ故に、知性ある存在が現象を認識することで例外が起きると考えた者がいた。
ちなみに,この問題を突き詰めて考えると,ゲーデルの問題や「意識」の問題に突き当たるであろう. WignerやPenroseなど,多くの偉大な物理学者が,こういう問題に言及する(言及せざるを得ない)のは,このような理由によると思われる. たとえば,「そもそも,どんな論理体系であれば,このような問題が発生しないですむだろうか?」と言う問いを発して深く考えてみれば,誰でもこのような問題を一度は考えざるを得なくなるであろう. あるいは,そこまでいかなくても,有名な「Wignerの友人のパラドックス」(Wignerにとっての状態ベクトルと友人にとっての状態ベクトルが異なる)を考えてみれば,自分の意識だけを,上述の「いつも定まった値をとるようなダイナミックスに従うもの」として特別扱いするしかないようにも思えてくる. デカルトに習って,「我思う故に我あり」とするしかないと. これはいかにも気に入らないが,一旦それを承認しさえすれば決して矛盾が生じないことに気づき,唸ってしまうてあろう.
量子測定の原理とその問題点 by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明教授
尚、清水明教授は「一度は考えざるを得なくなる」とは言っているが、意識解釈を支持するとは言ってない。 意識解釈について「一度は考えざるを得なくなる」ことが量子力学の不思議な性質だと言っているだけである。 当初から、意識を特別視する解釈を積極的に支持する物理学者は少なかったであろう。 ただ、他に解決策が見当たらない故に、消極的に支持する物理学者はそれなりにいたかも知れない。 しかし、今日では、そうした意識に頼った解釈が無用の長物であることが明らかになっている。 他に解決策が見つかった今日では、積極的か消極的かを問わず、支持する物理学者はほとんどいないだろう。
ノイマンの主張
ノイマンが意識解釈を提唱したと主張する者がいる。
物理学講師の吉田伸夫氏は、ノイマンが自著にて「人間のような意識を持った観測者」が測定すると波動関数が収縮することに言及しているとしながらも、
実は、ノイマンは、あくまで数学的に状態変化の式を記しているだけ
シュレディンガーの猫 - 科学と技術の諸相
として、ノイマンが積極的に意識解釈を主張したとする考えを否定している。
「量子力学の解釈問題―実験が示唆する『多世界』の実在」の著者であるColin Bruce氏も、ノイマンが積極的に意識解釈を主張したとすることには、その著作の中で懐疑的な見解を示している。
ノイマンが「量子力学の数学的基礎」第6章で述べていることは非常にわかりにくいが、良く読めば意識解釈を肯定していないこと分かるだろう。 第6章の内容を簡単に箇条書きする次のようになる。
- 観測と主観的な知覚は結びついている
- 物心並行論は科学の基本的な要請である
- 物心並行論では、測定する側とされる側の境界は任意の場所に設定できる
- ノイマンが提唱した数学的手法では境界を任意の場所に設定できるから物心並行論を満足している
第1に,観測すること,あるいは,それに結びついた主観的な知覚の過程は,物理的環境にとって新しいなにか(Wesenheit)であって,これに帰着させることができないということは,それ自体としては全く正しい.
しかし,われわれの問題にするのが水銀の器までか,温度計の目盛りまでか,網膜までか,あるいは脳までか,ということにかかわりなくいちどは,これこれが観測者によって知覚されたといわなければならないのである.
「量子力学の数学的基礎」(ISBN-10:4622025094,ISBN-13:978-4622025092,著:J.v.ノイマン,訳:井上健・広重轍・恒藤敏彦)P.333-334
確かに、ノイマンは測定と主観的な知覚の関係について言及しており、両者が切り離せないことを指摘したものと見て良いだろう。 しかし、これだけでは、ノイマンが意識解釈を提唱したことにはならない。 ノイマンの主張を知りたければ、次のようなことに留意する必要がある。
- 量子力学の数学的基礎に踏み込んだ動機との整合性
- 意識が特別だとは一言も言っていない
- 物心平行論を基本的大前提として論じている
ノイマンの動機
1927,8年頃にはHeisenbergの不確定性原理やBornの相補性の考えが根幹となって一応物理学者にとって満足すべき理論体系ができ上がった. しかし,それはまだ数学者を満足させる程まで論理的な厳密さをもって築き上げられた体系ではなかった. 特にDiracのデルタ函数を使う方法は,物理的な直観によって本質的に正しいことが分ってみても,数学的にはそのまま受け入れにくかった.
このような不満足な状態を是正するために,Neumannはそれまで物理学者には縁の遠かったHilbert空間の理論を基礎におくことによって,論理的に一貫し,数学者にも受け入れられる形に量子力学を再構築することに成功した.
「量子力学の数学的基礎」(ISBN-10:4622025094,ISBN-13:978-4622025092,著:J.v.ノイマン,訳:井上健・広重轍・恒藤敏彦)序
うえにふれたDiracの方法論は,その明晰さと優美さによって今日量子力学に関する大部分の文献にまさるものであるが,決して数学的厳密さの要求をみたしていない. --たとえ数学的厳密さの要求が理論物理学で普通に行われている程度にまで当然かつ正当にゆるめられるとしても,その事情は変わらない.
「量子力学の数学的基礎」(ISBN-10:4622025094,ISBN-13:978-4622025092,著:J.v.ノイマン,訳:井上健・広重轍・恒藤敏彦)p.2
このような考えの進め方はDiracとJordanによって量子的事象の明快な理論に仕上げられたのであるが,ここではこれ以上立ち入らないことにする. その理論ではδ(x),δ'(x)……のような“普通でない”しろもの--それは普通のありふれた数学の枠からはみだしている--が決定的な役割を果たしている.
「量子力学の数学的基礎」(ISBN-10:4622025094,ISBN-13:978-4622025092,著:J.v.ノイマン,訳:井上健・広重轍・恒藤敏彦)p.21
ノイマンはディラックらの功績を「その明晰さと優美さによって今日量子力学に関する大部分の文献にまさるもの」と敬意を評しつつも、「理論物理学で普通に行われている程度」が数学的に厳密さを欠いていることを指摘した。 とくに、δ関数を数学的フィクションと評している(関数:Functionと創作:Fictionを掛けた駄洒落)。 ようするに、ノイマンは、それまでの量子力学の理論が数学的厳密さを欠いていることがお気に召さなかったのである。 だから、数学的に厳密な理論に作り替えようとした。 つまり、ノイマンの興味は、純粋に数学的厳密さを追求することであって、物理学的な考察ではない。 よって、ノイマンには意識解釈を積極的に提唱する動機がない。
物理学者であるがゆえに数学的厳密さが蔑ろにされているとするノイマンの主張は、数学者であるがゆえに物理学的厳密さを蔑ろにすれば、ノイマン自身にも跳ね返ってくる。 ノイマン自身、そんなことは百も承知だろう。 だから、ノイマンが、自身の分を弁えずに、数学分野を逸脱した物理学考察を行ったとは考えにくい。
以上まとめると次のとおりである。
- ノイマンには意識解釈を積極的に提唱する動機がない
- 数学者が意識解釈を提唱することの愚かしさも十分理解できたはず
これらを踏まえれば、ノイマンには意識解釈を積極的に提唱するとは考えにくい。
意識は特別な存在ではない
確かに、主観的な知覚は測定と切り離すことはできない。 しかし、それは主観的な知覚だけに限ったことではない。 実験に関わったありとあらゆるものが測定と切り離せないのである。 意識は、実験に関わったありとあらゆるもののうちの1つに過ぎない。
意識が関わらない実験であれば、その結果を人間が知ることはできない。 というのも、その結果を人間が知った時点で意識が関わってしまうからである。 結果を人間が知ることができないのであれば、その結果を人間が検証することはできない。 よって、人間が検証可能な実験結果は、全て人間の意識が関わっている。
もちろん、意識が関わらない実験について考察することは可能である。 しかし、その結果を人間が確認することができない以上、その考察が正しいかどうかを人間が検証することはできない。 人間が検証可能であるためには、必ず、人間の意識が関わる必要がある。
以上の結果として、主観的な知覚と測定が切り離せないだけである。 ようするに、主観的な知覚と測定の関係は、次の条件が生み出した単なる結果に過ぎない。
- 意識以外の実験に関わった全てが測定と切り離せない
- 意識が関わったケースしか議論の対象に含めていない
決して、意識が特別な存在である、というわけではないのだ。
物心平行論が基本的大前提
第1に,観測すること,あるいは,それに結びついた主観的な知覚の過程は,物理的環境にとって新しいなにか(Wesenheit)であって,これに帰着させることができないということは,それ自体としては全く正しい. というのは,主観的な知覚はわれわれを制御のきかない(どんな制御の試みもすでにそれを前提としているから)個人の精神的な内的生活へと導くからである(さきの議論を参照). しかしながらつぎのいわゆる物心平行論(Prinzip vom psycho-physikalishen Parallelismus)は科学的世界観にとって基本的な要請である. すなわち,実際は物理外の過程である主観的な知覚過程を,あたかもそれが物理的世界において生じたかのように記述すること,すなわち,その過程の部分を客観的な環境の中の,通常の空間内における物理的過程に対応させることが可能でなければならないということである
「量子力学の数学的基礎」(ISBN-10:4622025094,ISBN-13:978-4622025092,著:J.v.ノイマン,訳:井上健・広重轍・恒藤敏彦)P.333
ここで、ノイマンが「物理的環境」「に帰着させることができない」「制御のきかない個人の精神的な内的生活へと導く」「主観的な知覚」と対比させて「科学的世界観にとって基本的な要請」である物心並行論の必要性を論じていることに注目してもらいたい。
さて、ノイマンは、100年に1人と言われる偉大な数学者として知られており、その論理的思考力も極めて高いであろうから、自身が科学者ではないことを十分に弁えているだろう。 であれば、ここで、「科学的世界観にとって基本的な要請」でないものを「科学的世界観にとって基本的な要請」と断言するとは考えにくい。 もちろん、「科学的世界観にとって基本的な要請」となる理由を論理的に丁寧に説明したうえであれば、新たな定義を持ち出す可能性はないとは言えない。 しかし、ノイマンは、ここではそうした説明を一切していない。 これでは、自身が科学者ではないことを弁えていない限り、新たな定義を持ち出したと考えることは難しい。 とすれば、「科学的世界観にとって基本的な要請」は、ノイマンが独自に定義した考えではなく、既に、科学者の間で共通認識とされている考えを引用した(つもりだ)と考えるべきだろう。 また、科学者ではないからといって、論理的思考力も極めて高いであろうノイマンが、「科学的世界観にとって基本的な要請」を180°真逆に取り違えるとは考えられない。 よって、ここでは、以上を踏まえて物心並行論とは何かを考える。
一般に、物心並行論とは、物理現象と精神は並行しており、精神が物理現象に影響を与えないとするものである。 つまり、これは、意識解釈とは真逆である。 ノイマンは、物心並行論を満足するには「物理外の過程である主観的な知覚過程を,あたかもそれが物理的世界において生じたかのように記述する」必要があることに言及している。 つまり、これは、「物理外の過程である主観的な知覚過程を,あたかもそれが物理的世界において生じたかのように記述」できなければ、物心並行論に反してしまう、すなわち、精神が物理現象に影響を与えてしまうと言っているのである。 すなわち、「主観的な知覚過程」を他の物理現象とは全く違う特別の現象と捉えると、意識解釈が必須になり物心並行論に反すると指摘しているのである。 そのような考察の結果、結論として、物心並行論の原理の内容は次のようになると説明されている。
この説明はわかりにくく、測定する側とされる側の境界をどこにでも設定できることが物心並行論の原理だと主張している理由は説明文からは読み取り難い。 しかし、常識で考えれば、意識解釈を前提とした場合、観察者の意識だけが特別な存在であり、測定する側とされる側の境界は意識とそれが認識する対象の間に固定されるはずであろう。 逆に、観察者の意識も他の物理現象と対等であるならば、当然、図の全ての箇所は対等となるはずである。 ノイマンの言う物心並行論が後者を指すものであることが明らかであるから、ノイマンは物心並行論が意識解釈を前提としないものであることを説明しているものと考えられる。
以上の通り、確かに、ノイマンは、一連の現象から意識を持った観測者の「主観的な知覚過程」が切り離せないことには言及している。 しかし、一方で、「主観的な知覚過程」を特別視すると、理論が意識解釈に依存とすることになり、「科学的世界観にとって基本的な要請」に適合しなくなることにも言及している。 ただし、ノイマンには、意識解釈を積極的に否定する意図があったかどうかは不明である。 しかし、持論に意識解釈が必須ではないこと、すなわち、持論が意識解釈に依存しないことを積極的に示しそうとしたことは疑う余地がない。 平たく言えば、ノイマンの主張は「意識が物理現象に影響を及ぼすとは考えにくいから、意識だけを特別扱いすべきではない、意識も物理的過程に組み込んで他の現象と対等に扱わないといけない」ということである。 よって、ノイマンが意識解釈を提唱したとする主張は歴史的に明らかに誤った主張である。
意識解釈の終焉
ノイマンの物心並行論は、量子測定理論ではさらにHeisenberg cutという考えに拡張される。
図1のように,被測定系Sのある物理量Qを測る場合,Sを測定器の一部(プローブ系Pと呼ぶことにする)と相互作用させ,Qの情報を,Pのある物理量Rに「コピー」してくる. ここで,「コピー」と言ったのは,Qの値とRの値が相関するようにする,という意味であり,そっくり写し取るなら理想的だが,そうでなくても,何か関連付けば良い. そして,測定器の中には,このRの値を測る部分が付いている.Rの値は,Qの値と相関しているので,このRの値からQの値を推定することができる. その推定の仕方は,測定器の構造により決まるが,Rの測定値から,その推定のルールにのっとって求めたQの推定値を,ディスプレイとか目盛りとかに表示するのが測定器の動作原理である.
このように分解して考えると,Rを測る過程は理想測定と見なせるので,射影仮説が使える.(逆に言えば,公理より,理想測定と見なせる過程が存在するので,Rの測定が理想測定になるようにPを選ぶ!) つまり,理想測定と見なせる境目までは,量子論に従う系の一部として扱い,そこから先を考えることは,射影仮説により遮断する. それが,一般の測定過程の分析の仕方の処方箋である. この境目(「Heisenberg cut」と呼ばれる)の位置には任意性があるが,先の方にずらす分には,まったく同じ結果を与えるので,要するに,充分に大きな系を量子論に従う系として扱っておけば,結果には任意性は出ないのである.
量子測定の原理とその問題点 by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明教授
どの系にこれらを適用するかが問題なのです。
どこに適用するかで大きな違い(R. J. Glauber, 1963)
- 被測定系Sに対して適用したのでは、実験と合わない場合がある
- Sと測定器Aの合成系に対して適用すれば、実験と合う整合した理論に なる
- そうすれば、測定器の誤差や測定の反作用も、きちんと計算できる
→R. J. Glauberが現代的な量子測定理論の扉を開いた(1963)
SとAの合成系をひとつの量子系として扱い「メーター変数」Rを測る
- SとAの相互作用により、合成系の状態が変わる→シュレディンガー方程式を合成系に適用
- RとQの間に相関がある状態になる
- その状態の、QではなくRを、別の測定器(または観測者)で測る
- 射影仮説を合成系の状態に適用(射影演算子はPˆQ(q)ではなくPˆR(r))
- 測定後の状態が定まる(測定の反作用が求まる)
- Rの測定値rから、Qの値qを推定する
- 有限の誤差が出る(測定誤差の大きさが求まる)
考えてみると、次のようになっているわけです:
A′は、別の測定器でもいいし、観測者の目でもいい。 このような構造を、von Neumann chainと呼びます。
量子論を使うときには、どこかに境目(Heisenberg cut)を設けて、
- その左側を量子系として、量子論の諸原理を適用する
- 右側は、左側に対する理想測定を行うデバイス
とするわけです。
von Neumannはこの性質を、psychophysical parallelismと呼びました。
結局、ある所にHeisenberg cutを設けることができる(その右側が左側に対する 理想測定を行うと見なせる)ならば、
- cutの位置を、それよりも右側に移動することはできる
- 左側に移動するのは、できるとは限らない
次の図のように、ミクロとマクロが明確に区別できると想定すると、その区別できる境目が全く見当たらない。
しかし、次の図のように、ミクロとマクロは明確に区別できないと想定すると、問題は解決する。
測定する側は、測定される側に一定の影響を与える。 これを避ける方法はない。 しかし、測定される側がマクロの物質で量子力学的性質が極めて弱い場合、測定する側から受ける影響は極めて小さい。 その場合は、測定する側と測定される側の境界にHeisenberg cutを設定できる。 Heisenberg cutより観測者に近い側が測定結果に与える影響は無視して差し支えない。 ようするに、Heisenberg cutより測定対象側だけで測定結果が決まると見なして差し支えない。 つまり、観測者の意識を特別視するまでもなく、測定対象(と測定器の一部)だけで結果が確定するのである。 シュレーディンガーの猫の思考実験についても、量子測定理論では次のように解釈される。
以上のことから,射影公準によれば,波束の収束は放射性物質とガイガーカウンター(の一部)の相互作用が終了する時刻にはすでに起こっており,この時刻で猫の運命は決まる. この観点からは,巨視的な猫の状態がどのように変化するのかは,測定終了後にどのような増幅過程が進行するのかという技術的な事柄にすぎない.
「量子という謎」(ISBN-10:4326700750,ISBN-13:978-4326700752,著:白井仁人・東克明・森田邦久・渡部鉄兵)P.15
量子デコヒーレンス等でも同様の説明は可能である。 ミクロからマクロへの連続的変化が否定されない限り、例外の定義に「知性ある存在の意識」が必要ない事実だけは揺るがない。
問題は、根拠を失った珍説の扱いである。 オッカムの剃刀で済めば話は早いのだが、それでは納得しない人もいる。 科学的に中立に考えれば、それは、初めから根拠のない珍説と同等かそれ以下でしかない。 しかし、人間は一度信じたことを、簡単には否定できない生き物である。 それ故か、今でも、こうした意識解釈は少数派の解釈として根強く生き続けている。
二重スリット実験の真相で説明した二重スリット実験もJ.Wheelerの遅延選択実験も量子消しゴム実験も、いずれも、意識解釈を裏付ける証拠はない。 むしろ、意識解釈に不利な実験結果もある。 しかし、意識解釈派は、更なる珍説を持ち出して意識解釈を擁護する。 その結果、意識解釈を明確に否定できる証拠を見つけるのは困難である。
このページへのご意見は節操のないBBSにどうぞ。
総合案内
科学一般
疑似科学等
- 疑似科学
- 数学や科学への無理解
- 疑似科学を批判する疑似科学
- STAP細胞論文捏造事件
- CCS地震原因説
- 地球温暖化懐疑論
- 疑似科学者列伝