相対性理論トンデモ解説
最初に
このページは相対性理論に対して、科学的に明らかに誤ったトンデモ解説を紹介するものである。
トンデモ事例
疑似科学の無批判受入事例
この方の凄い所は、情報をいろいろ集めながら、その真偽を検証したり、その中身を理解することなく、物を言っている所だろう。
基本パラダイムを疑うことがないのか、それとも、日本科学コミュニティの閉鎖性ゆえに、思っていても「言えないのか」その辺の事情は部外者の私にはわかりませんが、 日本サイトでは皆無のため、多くの日本人は知らないでしょうが、欧米では「科学者」の中に「相対性理論」に対する疑念、更には否定論さえ出てきています。 海外サイト(英語サイト)をネットサーフィンする中で目に付いたものをこれまでも紹介してきましたが、 また、一つ、具体的なところは書かれてはいませんけど、痛切な批判を目にしましたので引用紹介しておきたいと思います。
これは"THE NATIONAL PRESS CLUB"と言うウェブサイトに掲載された、まさにこれを書いている2017年3月一日のピッカピカの最新記事です。
ほぼ全面引用しておきます(下手な和訳を併記しておきます)。
擬似科学信奉者が、「科学者」を自称する人物によって「ウェブサイトに掲載された」だけの「具体的なところは書かれてはいません」「否定論」を盲目的に信奉するのは、擬似科学の「基本パラダイム」を疑うことがないからなのか、あるいは、擬似科学「コミュニティ」の「閉鎖性ゆえ」なのかは定かではない。
これは別のところで指摘されていたのですが、確かに、EinsteinはSRの論文を発表したときは科学アカデミア界にはいなかったので(発表から5年後の1910年に招かれた)、 M.M.実験論文は読んではいなかったのは事実であろうが、 彼はLorentzの講演(講義?)を学生時代に聞いて、その中で当然、M.M.実験についての話を聞いていたのは間違いないと思うからです。 ですからその講演での断片的な話から着想を得たということは十分考えられ、Einsteinの主張というのは 単に、M.M.実験論文を読んでいなくて詳細を知らなかったというだけだろうと思うのです。 前に指摘しましたが、英語版の1905年のSRの論文の中には、一言、この実験結果を示唆する文章が入っていますので 全く実験の存在自体知らなかったというのは大嘘であることは明白です。 誰も触れていませんが・・・。
ここでは、物理学界の定説に過ぎない事項を、あたかも、疑似科学信奉者が初めて指摘した事実であるかにように説明されている。 アインシュタインがいくら「知らない」とすっとぼけていても、彼が他人の研究成果に基づいて特殊相対性理論を導いたことは物理学界では広く知られた事実であり、秘密でもタブーでも何でもない。 そして、そのことが特殊相対性理論の価値を何ら低下させるものではないこと、および、「M.M.実験」の証拠能力に何ら関係ないことも指摘されている。 「誰も触れていません」などと言うことはなく、主流物理学者も普通に指摘していることである。
未だに、このM.M.実験をSRのpostulateⅡの証拠のように学生に教えている科学者というのは、 綿々と伝えられてきたその一論文編集者の見解にすぎないものを学生時代に教えられ信じ込んでいるだけでしょうね。
これは、「一論文編集者の見解にすぎないもの」ではなく、多くの実験結果等に基づいて多数の物理学者が議論した結果である。
私は、SRに疑念を抱いた当初、このMaxwell equationって座標系はなんだろうと気になり調べたりしていたのですが、 偶々、現在、教科書に掲載されて教えられているMaxwell equationというのは、実はMaxwellのオリジナルのものではなく、 Maxwellの死後にベクトルポテンシャルを毛嫌いしたHeavisideが、1880年代に米国のGibbsが、 1840年代にハミルトンが一人で創設したややわかりにくいクオターニアンに対抗して構想提案したベクトル解析法の確立に協力し、 その適用第一号としてオリジナル式を書き換えたものであることを知り、 全くそんなことを知らなかったゆえの驚きから詳細について、Maxwellの方程式(1)~ Maxwellの方程式(6)で述べまMaxwellの最初の論文をざっと読みましたが、 間違いなく、空間に"medium"(=ether)を想定して導出されたものであることがわかりました。
「Maxwell equation」が「空間に"medium"(=ether)を想定」しているかどうかは、特殊相対性理論の妥当性とは全く関係がない。 その「Maxwell equation」が数々の実験事実と整合し、かつ、ガリレイ変換と相容れないことが重要なのである。 そして、ガリレイ変換と相容れないことの問題点を正しく認識していれば、特殊相対性理論を導く過程に何らおかしな所がないことは自明である。
SRに魅了された(そのEinsteinの主張ゆえだろうと思いますが)科学者の間でたちまちのうちに「エーテルなど存在しないのだ」という話になってしまい、「エーテル」がタブー視され、 かつマックスウェルのオリジナル方程式がHeavisideにより、数学的処理で電磁ポテンシャル(静電ポテンシャルとベクトルポテンシャル)を除外した式に書き換えられ、より簡単な線形方程式化されて工学的に計算しやすくなったことで支持が拡大し、
疑似科学信奉者は、安易に、歴史的事実を無視し、自身の妄想で上書きしてしまう。 アインシュタインの提唱した特殊相対性理論は、決して、主流物理学者から無批判で受け入れられたわけではない。 最初から絶賛した物理学者もいれば、批判的な物理学者もいた。 多くの物理学者の検証を受けた結果、最も単純で、かつ、実験事実を矛盾なく説明できることが分かったから受け入れられたにすぎない。
また、「Maxwell equation」についても、「書き換えられ」て「工学的に計算しやすくなった」としても、それが実験事実と整合しなければ受け入れられる余地はない。 そして、実験事実と整合するならば、それがどのような仮定に基づいて作られたかは大した問題ではない。
尚、以上は、元々のオリジナルの"Maxwell's equations"を導出した"Maxwell's Theory"の根幹に思いをはせることなく、勝手に一つの運動系における方程式だと思い込んで、 以前から『Maxwellの方程式』が『相対性原理』には則っていないという問題になっていたとし、 極めて不自然な形でLorentz変換を持ち込んでつじつま合わせ説明がなされてきていることへのアンチテーゼでもあります。
それに、もう一つ、これはネット上でも指摘されているANTI-RELATIVITYの方達が指摘されていますけど、 「ガリレイの相対性原理」は「物体(理論的には質点系)の運動に関するもの」であり、「全ての物理現象は相対的である」というのは、 金輪際実証証明などされたことがないEinsteinが信じ込んだだけの"Einstein's Principle of Relativity"("Special Relativity"のpostulateⅠ)でしかないことは、 physicist、Einstein's supporter(relativitsやbelievers)が曖昧に誤魔化しているために一般には誤解されている節も伺えますが、 本質的にはきちんと留意すべきことであり、Maxwell's equationsがそれに従わねばならない絶対的根拠などないわけです。
「元々のオリジナルの"Maxwell's equations"を導出した"Maxwell's Theory"の根幹」と「『Maxwellの方程式』が『相対性原理』には則っていないという問題」は関連性はあっても全く別の問題である。
「全ての物理現象は相対的である」と「Einsteinが信じ込んだ」とは、具体的根拠に基づかずに、この方が勝手に信じ込んだだけであろう。 「Maxwell's equations」に関する議論の本質は、それがガリレイ変換に従わない場合に、絶対静止系等の特別な系が必要になることである。 それは「Maxwell's equations」がどのように導かれたとしても関係なく存在する問題である。 そして、実験によって絶対静止系が検出できないことがガリレイ変換に従わないことと相容れないことを示し、それが物理学者の間で問題にされたことである。
ただ、前には、このマイケルソン=モーリーの実験論文をじっくりとは読んでおらず、今一度、じっくりと読み直してみました。 その結果、前に書いたものは少し早とちりの誤解があったこと(マイケルソンを完全引きずり説派だと勘違いしていたこと→前回の記事は見え消ししました)を知りました。
だからこそ、私は、殊更、前述のように、 M.M.実験の結果は"NULL"ではなく"NON-NULL"だった!! この実験結果を"NULL"だとして導出された"Lorentz Ether Theory"も "Special Relativity"も共に間違っている! と声を大にして主張してきているわけです。
数々の追試を無視して、マイケルソンとモーリーの最初の実験だけを絶対視する理由が不明である。 技術向上等により、追試の方が遥かに測定精度は高い。 事実、マイケルソンとモーリーの実験で検出したとされるエーテルの風は8km/s以内とされるが、今日の実験結果では30m/s以内と、200倍以上も精度が上がっている。 それら追試の結果を無視して、誤差を多分に含むであろうマイケルソンとモーリーの実験結果のみを殊更に取り上げて「M.M.実験の結果は"NULL"ではなく"NON-NULL"だった!!」と主張するのは非科学的である。
ちなみに、『部分引きずり説』とは、エーテル引きずり仮説のうち、光行差を説明できない点に対してのみ辻褄を合わせるための修正を加えたものである。 しかし、「透明媒質」とそれ以外でエーテルに与える差がないことは1935年のGustaf Wilhelm Hammarによる実験で実証されているので、『部分引きずり説』は実験事実と整合しない。
実験結果による彼の検討結果での主張なるものは
①地球とエーテルの相対速度は恐らく地球の軌道速度の1/6以下であり、確実には1/4以下
②(この結果が実験理論予測値よりかなり小さくなったのは、その)前提になるもとして、「ただ地球の軌道運動のみが考慮された」からであり、 太陽系の運動と結びつくなら、その結果は修正すべきであろう。そのとき、観測時の結果として生ずる速度が小さいことは可能
③Lorentzが提案した「静止エーテル説」と「完全引きずり説」の折衷案(みたいなもの)は間違いであった というだけことです。私が注目しているのは②です。
マイケルソンとモーリーの最初の実験が行われたのは、特殊相対性理論の発表より前であり、その当時は、エーテル仮説が間違っているとは誰も考えなかった。 だから、マイケルソンやモーリーが、不正確な実験結果に対して、エーテルの風が観測されなかったと解釈せずに、エーテルの風が予測値よりも小さかったと解釈するのは無理からぬことである。 しかし、マイケルソンやモーリーが初期にそのように解釈したという事実を殊更に取り上げても、精度を上げた数々の追試結果がその解釈と一致しない以上、それは、科学的には、計測誤差の誤解釈という意味しか持ち得ない。
今日では、「太陽系の運動」は「地球の軌道運動」よりも遥かに高速であることが分かっている。 よって、「その結果」を「修正」すると「地球とエーテルの相対速度」は「地球の軌道運動」よりも大きくなる。 結果、「地球とエーテルの相対速度は恐らく地球の軌道速度の1/6以下」にはなり得ない。
ま、いずれにしろ、大半の教科書・本・科学者解説において、この「マイケルソン=モーリー実験の結果は"NULL"だった⇒光速は一定だった」と述べているだけで、 この実験論文については、せいぜい装置の図をコピーして試験方法を示していればまだいい方で 、全然内容の詳細検討等など解説されているのを目にしたことがありませんでした。
「大半の教科書・本・科学者解説」では、複数の追試の結果も踏まえて書いているのであり、マイケルソンとモーリーの最初の実験結果だけに基づいているわけではない。 マイケルソンとモーリーの最初の実験は、エーテルの風が予測値に達しているかどうかを検証するには十分な精度を持っていたが、エーテルの風が無風かどうかを検証するには精度が足りなかった。 その不正確な実験結果が発表された当時から、本当に想定よりも小さいエーテルの風が観測されたのか、実験誤差による見かけの現象であるのかは徹底的に議論されてきた。 今日では、200倍以上に精度を高めた数々の追試の結果により、マイケルソンとモーリーの実験で観測されたエーテルの風は測定誤差であることが分かっている。
①Dayton C. Millerという方の20,000件もの追加Michelson-Molley experimentでの"Non-Null"結果(東西と南北でわずかに時間差あり)
・MIllerの実験結果をなぜ握りつぶしたのか?
これを読むと次のような疑問が湧く。
- 疑似科学信奉者は、何故、歴史を改変したがるのだろうか?
- 疑似科学信奉者は、何故、都合の悪い事実を握りつぶしたがるのだろうか?
「Dayton C. Miller」の実験結果が握り潰されたという事実は存在しない。 この実験結果をどう解釈すべきか、マイケルソンやローレンツらが議論した結果が公表されている。 エーテルの風を検出したとされる実験結果は、実験毎の風速値のバラツキが大きい。 「Dayton C. Miller」の実験ですら、毎回、値が違っている。 これは、風速値の真値を検出したと考えると不自然であり、計測誤差である可能性が高い。
また、「Dayton C. Miller」ほどの大きな風速値を検出した追試はほとんどない。 とくに、精度を高めた最近の実験での風速値はほぼ0に近い。 疑似科学信奉者は、精度の低い昔の一部の研究者の実験結果を殊更に取り上げる一方で、精度を高めた最近の大多数の実験結果を無視する。
(既に指摘していますが、決してGPSを開発した米国陸軍がRelativityで計算して補正したわけでもないのに、相対性理論学者が勝手に「証拠」だと主張しているにすぎませんが)
GPSの補正が相対性理論の根拠となるかどうかは、次の事項が成立するかどうかによって決まる。
- GPSは時刻を補正しないと精度が出ない
- その補正値は相対性理論の予測値と一致する
- 相対性理論以外でそうした補正が必要なことを説明できない
だから、「GPSを開発した米国陸軍」が「Relativityで計算して補正した」かどうかは本件とは全く関係がない。
ところが、現実には彼らが「証拠」だと主張する色々な現象に対する「解釈説明」には両者を使い分けしているんです。 ま、それだけなら「より簡単な方で」という反論・弁解があるでしょうが、絶対、「おかしい」のはGPSの説明なんですね
説明において、なんと両方の理論の数値を減算していることです。 これは、明白に、両者は別々の理論であると考えていることを言わずもがなで証明していることになります。
詳細は後で説明するが、「両方の理論の数値を減算している」は、次の2つを混同した勘違いの産物である。
- 計算ツールとしてどの理論の式を利用するか
- 理論として何を適用するか
うち、一方の効果は特殊相対性理論による計算が可能なので、特殊相対性理論を使用して計算している。 しかし、適用する理論は一般相対性理論のみである。 この方は、一般相対性理論の2種類の効果を別々に計算したことに対して「別々の理論」を2つ適用したと勘違いしたのだ。 おそらく、次の和訳文の解釈を誤ったと思われる。
地上にいる一人の観測者は、人工衛星群が、それらに対する相対的な動きの状態にあるのを見ることになるので、特殊相対性理論は、それらの時計群がより遅く時を刻むと見るべきだと、予測している(特殊相対性理論の講義Special Relativity lectureを見よ)。 特殊相対性理論は、人工衛星に乗っている原子時計が、地上の時計群より、それらの相対的な動きの、時間遅延効果のために、より遅く時を刻む割合というものがあるので、1日につき7マイクロ秒遅れるだろうと予測している。
さらに、人工衛星群は地球の上の軌道高度にあり、そこでは、地球の質量に由来する時空の曲率は、地球表面での曲率より、小さい。 一般相対性理論は、質量のある物体に、より近い時計が、より遠くの位置に離れている時計に対して、より遅く時を刻むようにみえるだろうと予測している (ブラックホールの講義Black Holes lectureを見よ)。 そのようなことなので、地球の表面から見たとき、人工衛星にある時計群は、地上にある同じ時計群に対して、より速く時を刻むように現れる。 一般相対性理論を使った計算は、それぞれのGPS衛星の中にある時計群が、地上に置かれている時計群より、一日に45マイクロ秒だけ先に進むだろうと、予測している。
一般相対性理論は、運動加速度と重力加速度は区別できないという等価原理に基づいている。 言い換えると、一般相対性理論は、運動加速度だけが有効という理論でも、重力加速度だけが有効という理論でもない。 一般相対性理論は、運動加速度も重力加速度もどちらも有効という立場なのである。 だから、一般相対性理論では次の2つの効果はどちらも発生する。
- 地表と衛星軌道の慣性力(加速度)の差による時間差
- 地表で受ける万有引力と衛星軌道で受ける万有引力の差による時間差
和訳文の「相対的な動きの状態」は前者の効果を導くために用いられている。 そして、これは特殊相対性理論で計算が可能である。 だから、「特殊相対性理論は、それらの時計群がより遅く時を刻むと見るべきだと、予測している」という説明になっているのだろう。
和訳文の「地球の質量に由来する時空の曲率」は後者の効果を導くために用いられている。 そして、これは特殊相対性理論では計算できない。 だから、「一般相対性理論を使った計算は、それぞれのGPS衛星の中にある時計群が、地上に置かれている時計群より、一日に45マイクロ秒だけ先に進むだろうと、予測している」という説明になっている。
サイエンスライターの竹内薫氏も同様な解説をされている。
地上からみると、GPS衛星は重力の弱い場所で地面に対して動いている。 アインシュタインの相対性理論では、「相手の時計は遅れる」から、GPS衛星の時計は一日に約7マイクロ秒だけ遅れる。 だが、同じ相対性理論によれば、「重力が強いと時計は遅れる」ので、地球の時計のほうがGPSの時計と比べて一日に約45マイクロ秒だけ遅れる。 つまり、相対性理論の効果により、GPS衛星の時計は、(7−45=−38)マイクロ秒だけ遅れる。 サイエンスライターの憂鬱(現代物理学事始め) - 竹内薫オフィシャルサイト
ようするに、これは、一般相対性理論が想定している2種類の効果を、別々の式で計算していることを示している。 特殊相対性理論と一般相対性理論を重複して適用しているという意味ではない。 もちろん、この和訳文が誤解を生む表現であることは疑う余地がない。 一般相対性理論の前にある「a calculation using」が特殊相対性理論の前にはないことから、原文における記述ミスであろうと予想される。 しかし、一般相対性理論を理解している人であれば、そうした不正確さも補正して読むことが可能である。 一方で、補正に必要な知識が不足している素人が読むと、特殊相対性理論と一般相対性理論を重複して適用しているという誤解を生みかねない。 つまり、素人向けに説明をする上で表現上の配慮が足りないことは事実である。 専門家が書いた文章で、そうした配慮が足りていない文章は別に珍しくもない。
海外サイトでは多くのANTI-RELATIVITYの方々が、Einsteinが1905年に発表した「特殊相対性理論(Special Relativity)」とその前年の1904年にLorentzが発表した"Lorentz Ether Theory"は「数学的に同等」と主張されています。
何故、疑似科学信奉者は既知の事項をあたかも自分が発見した新事実のように言いたがるのか。 常識的に考えて、同じ数式が使われているものが「数学的に同等」でない方がおかしい。
「エーテルによる短縮」という考え方はMichelson-Morley実験を受けてその2年後に、FitzGeraldという方が先に述べた(論文にはしていない)考えをLorentzが参考にしたものですが、 大抵の方は最初からLorentzが考え出したと誤って思われていると思うくらいのレベルでしかなく、FitzGeraldなんて人の名前もご存知でないしょうね。 私もご多聞に漏れず海外サイトを漁り出すまで知りませんでした
何故、疑似科学信奉者は既知の事項をあたかも自分が発見した新事実のように言いたがるのか。 「エーテルによる短縮」という考え方に、ローレンツ、フィッツジラルド、ポアンカレ等の複数の科学者が関わっていることは、物理学の常識である。 それを「海外サイトを漁り出すまで知りません」で疑似科学サイトで初めて知ったからと言って、疑似科学を間に受けるのは異常である。
このことについては、前に「特殊相対性理論」への疑念(全面改定版5)で引用したように(出展は不明ですが)、その理論を理解できなかった誰かが
と述べたのをEinsteinは知り、1930年頃までにはそれを認めたという話もあるようです。
何故、疑似科学信奉者は出典も明らかでないような話を検証もせずに鵜呑みにするのか。
それどころか、これも既に全く別の方のサイトからの引用としてニコラ・テスラ~なぜ不当な扱い?(3)で引用しましたが、"Walter Isaacson, Einstein: His Life & Universe, New York: Simon & Schuster, 2007, p. 318"というところに、なんとずばり、
1920年、Leiden大学における、「相対性理論のエーテルと理論」についての講演で、Einsteinは、波のような性質を持つからエーテルは存在し、伝達媒質として必要であると公然と述べた。 彼はLorentzにこの点を明らかにすることさえ書いた。(※1)
と書かれているそうです。 ネット上で、「Einsteinはエーテルなど認めていない」と反論力説されている方がいましたけど、こういう事実を知らないまま、1905年当時のEinsteinの言説で頭が化石化してしまっている"Eisteinians"ですね(笑)。
Walter Isaacsonは作家でジャーナリストであり、物理学の専門家ではない。 Simon & SchusterもCBS系の出版業者であって学術専門の出版社ではない。 ようするに、素人が一般雑誌で勘違いした内容を書いただけにすぎない。
ジャーナリストなので、さすがに、完全な捏造ではないのだろう。 しかし、前後の文脈を無視して、発言の一部を切り出しても、それは真実とは程遠い。 講演の内容が、相対性理論が生まれる背景、すなわち、エーテル仮説の説明も含んでいるなら、その仮説が生まれる妥当性として、当然、「波のような性質を持つからエーテルは存在し、伝達媒質として必要である」という説明は途中経過としてはあるだろう。 しかし、それは、当然、アインシュタイン自身が特殊相対性理論を否定した根拠にはならない。
一つは、Mary Thurstonという方がQuantum Mechanics: A Not-Too-Technical Introduction, Marty Thurston (from: Isaacson, Walter. (2007). Einstein: His Life and Universe. Simon and Schuster, NY)というところに記載しているものの引用のです。
・対話1:当時新興の「量子力学」に対するEinsteinと友人のPhilipp Frankとの間の会話
Einstein:“A new fashion has arisen in physics, which declares that certain things cannot be observed and therefore should not be ascribed reality”.
Frank: “But the fashion you speak of was invented by you in 1905!”
Einstein: “A good joke should not be repeated too often.””
Einstein: 「物理学に新しいファッションが起きて来た、それは、あるものは観測できなくて、それゆえに現実を語るべきではないことを宣言している」
Frank: 「しかし、あなたが話すファッションは1905年にあなたによって発明された!」
Einstein:「よいジョークはめったに繰り返すべきではない」
和訳が下手なので余計にわかりにくいかもしれませんが、Einsteinは新興だった「量子力学」のことを「新しい『ファッション』」と皮肉な言い方で批判しています。 その「ファッション」ですが、
「直接観測できないものを元に(現実に即した)物理学を語ってはいけない」(※2)
という哲学のものだと言う事でしょう。 で、私は友人Frankのそれに対してなした驚き(「!」がついています)の応答を重視しています。彼は"was invented by you in 1905(1905年にあなたによって発明された)"と言っています。 この発言から、(※2)というのは、「19世紀までの科学界における哲学ではなく、Einstein自身が最初に始めたもの」ということを如実に示していると思います。 具体的には、Einstein自身が1905年に「特殊相対性理論(Special Relativity)」を発表した際、「(直接検出されていない)エーテル」など不要-エーテル否定-であるとして、実質的には、前年1904年にその「エーテル」をベースにして権威Lorentzが発表した"Lorentz Ether Theory"に対する自分の"Special Relativity"の優位性を主張したことです。 まさにそのときEinsteinは(※2)というスタンスであったすなわち(※2)という「哲学」を打ち出したということでした。 Frankの驚きはそれをきちんと把握していた上でのものだということです。
これ以上は元記事には引用されていませんのでその後どういう会話がなされたのかは不明ですが、少なくともFrankの発言には「!」がついていますので、「揶揄的なジョーク発言」でなく真に驚いた-友人としてEinsteinが1905年に打ち出した(※1)を少なからず支持していたはず-ことは明白でしょう。 ですから、"good joke"というのはFrankの発言を指して言っているのではないことは明らかです。 また、明確にFrank発言自体への否定的反論をしていません。 したがって、Frankの指摘自体にEinstenは反論しようがなかった、すなわち認めたということになります。
この会話の出典も、先ほどと同じく、作家でジャーナリストのWalter Isaacsonの著作である。 Frankの発言の意図(とWalter Isaacsonが解釈したであろうもの)をもって、アインシュタイン側の意図を推測するのは意味不明である。
量子力学の標準理論をfashionと定義しているなら、それは特殊相対性理論とは違うものであり、「invented by you in 1905」という認識は正しくない。 量子力学の標準理論と特殊相対性理論の違いが理解できていれば、そのことは間違いようがない。
- 量子力学の標準理論
- 観測していない時の可観測量は式に記述されない
- 特殊相対性理論
- 観測していない時の可観測量も式に記述される
アインシュタインは、観測していない時の可観測量への言及を禁止したことに対して、fashionだとしているのである。 この性質は特殊相対性理論には見られないものである。 よって、アインシュタインが言うjokeは、エーテル仮説を否定する理由と量子力学の標準理論を否定する理由の混同であると考えるのが妥当である。 アインシュタインは、そのjokeが面白いと思ったから「good joke」と言ったのだろう。
Frankが、「invented by you in 1905」と本気で言ったのか、jokeで言ったのかは、引用された文章からでは推しはかりようがない。 しかし、アインシュタインの意図は、彼の他の言動と一貫性を持たせるよう解釈すれば良い。 アインシュタインの他の言動と一貫性の欠く解釈を無理やり持ち込んで、アインシュタイン自身が特殊相対性理論を否定した証拠のように言うのは無理がありすぎだろう。
それを裏付けるもっと公式的な対話が記録として残っています。 それは「不確定性原理」で有名なHeisenbergとの対談で、Thomas Knierimという方が引用されているものだそうです(引用元が空白ページで読めませんので引用元記載は省略します)。
・対話2:「量子力学」を推進していた有名なHeisenbergとの対話
(“Der Teil und des Ganze” by W. Heisenbergからの翻訳とのことです)
Heisenberg: “One cannot observe the electron orbits inside the atom.[…] but since it is reasonable to consider only those quantities in a theory that can be measured, it seemed natural to me to introduce them only as entities, as representatives of electron orbits, so to speak.”
Einstein: “But you don’t seriously believe that only observable quantities should be considered in a Physical theory?”
”I thought this was the very idea that your Relativity Theory is based on?” Heisenberg asked in surprised.
”Perhaps I used this kind of reasoning”, replied Einstein, “but it is nonsence nevertheless.[…] In reality the opposite is true: only the theory decides what can be observed.”
Heisenberg: 「人は原子の中の電子軌道を観察できない[中略]しかし、測定できた理論におけるそれらの量のみを考えることは合理的なので、いわば、それらを電子軌道を表すと同様の実態のものとして導入することは私にとっては自然に見える」
Einstein:「しかし、あなたは観測可能な量だけが物理学で考えられるべきであると真面目に信じていないでしょう?」
「私は、これはまさに、あなたの相対性理論が基づいている考えだと考えていた」とHeisenbergは驚いて答えた。
「恐らく、私はこの種の論理を使った」とEinsteinは応じ、「しかし、それにもかかわらずそれはナンセンスである[中略]実際は、反対が真実である:理論だけが何が観測されることができるかを決めている」
どうですか?Heisenbergも前述の友人Frankと同じ驚き-Einsteinがこともあろうに1905年当時の「科学をなすスタンスないしは『哲学』を変えた」ということ-をしています。 しかしEinsteinは彼らの「驚き」を「誤解」だという反論はしていないのです。 むしろ当時の自己の哲学は指摘された通りであったことを認めた上で、この場合はなんとそれを「ナンセンス」とまで言い放っているのです。 件の方は、この発言から、上記(※4)だと主張されています。
「引用元が空白ページで読めません」のに「公式的な対話が記録として残っています」は全く意味が不明である。
英文のHeisenbergの発言のクエスチョンマークが和文でどこに消えたのかというツッコミはひとまず置いておく。 この方は、アインシュタインが「your Relativity Theory」を「this kind of reasoning」としてnonsenceだと言ったように決めつけている。 しかし、構文だけからその解釈を導くことは不可能である。 そして、前後の文脈が省略されているため、文脈からの判断も不可能である。
構文、および、文脈から読み取れる内容と彼の他の言動と一貫性を持たせるよう解釈すれば、彼がnonsenceと言ったのは特殊相対性理論を指していないことが明確である。 trueであるoppositeとは「only the theory decides what can be observed」のことなのだから、それに反する理論をnonsenceと言っているのだろう。 そして、特殊相対性理論は「only the theory decides what can be observed」に合致する理論であるから、nonsenceと反対の理論である。
特殊相対性理論とHeisenbergの理論(量子力学の標準理論と同じ)の違いが理解できていれば、この会話で何をnonsenceと言っているかの解釈を間違う余地はない。 アインシュタインは、可観測量を確定的に示すことを禁止した標準理論を「only the theory decides what can be observed」ではないとしてnonsenceと言っているのである。 この文脈でアインシュタインが可観測量を確定的に示している特殊相対性理論をnonsenceと言うわけがないことは誰の目にも明らかだろう。
この対話については、Heisenberg自身も書いているようです(これも引用元は消えていました)。
例によって「引用元は消えていました」である。 それから、Heisenbergの発言の意図をもって、アインシュタイン側の意図を推測するのは意味不明である。
両者の対話から、「the type of philosophy that he」が何を指すか両者の見解が違っていて、対話がすれ違っているという結論を導くことは間違いとは言い切れない。 Heisenbergは、「the type of philosophy that he」を観測していないときの可観測量も直接観測していないのだから観測結果から推測してはいけないと解釈したのかもしれない。 しかし、エーテルを否定する理由としてはそこまで言及できないし、そこまで言及してしまうと特殊相対性理論は成立しない。 なぜなら、特殊相対性理論は観測していない時の可観測量も式として記述しているからである。 アインシュタインは、観測結果から推測できない理論の導入を否定しただけであって、観測していないときの可観測量の推定を否定したわけではない。 言うまでもなく、観測結果から推測できない理論の導入を否定し、かつ、観測していないときの可観測量の推定を否定しない「哲学」では、特殊相対性理論は全く否定されない。 その点で両者の「the type of philosophy that he」の認識が食い違っているという解釈は成り立たなくはない。
しかし、アインシュタイン自身が特殊相対性理論までをも否定する「哲学」を持っていたとする解釈は、アインシュタインの他の言動との一貫性の欠き、無理がありすぎだろう。
あるとこからのリンクを辿り、Running away from Einstein という驚くべきタイトルを付けた記事を読みました。 これは、PHYS.ORGというサイトでAstronmy&Space>Astronmy>March, 16のものです。 ごく普通の科学情報サイトのようです。 March, 17には死にゆく赤色巨星の画像もあります。
冒頭に、
Einstein’s theory of gravity may have to be rewritten, after researchers at the University of St. Andrews found gigantic ring of galaxies darting away from us much faster than predicted. (St. Andrews大学の研究者たちは、予想よりずっと早く我々からかけ去る巨大銀河リングを発見した後を追って、Einsteinの重力理論は書き直さなければならないかもしれない。)
とあります。
"Running away from Einstein"(アインシュタインから逃げ出している) - 現代科学へのいちゃもん
疑似科学信奉者は、何故か、大したことでなくても、鬼の首を取ったように言う。 「Einsteinの重力理論は書き直さなければならないかもしれない」が、取り立てて珍しいことでも何でもなく、多数の物理学者が言っていることである。 しかし、そのことは、「Einsteinの重力理論」が物理学的大発見であることを否定するものでもないし、その理論内容を否定するものでもない。 ただ、一部修正が必要と言っているだけにすぎない。 「Einsteinの重力理論」が一定程度信頼できることを示す証拠は多々あれど、根本から覆す証拠は何一つないのである。
尚、ここでは出典の検証をする意味はないので省略する。
以下、関係者等の口述が簡単に引用されていますので、
"Running away from Einstein"(アインシュタインから逃げ出している) - 現代科学へのいちゃもん
何故、疑似科学信奉者は「関係者等の口述」レベルの話を検証もせずに鵜呑みにするのか。
「アインシュタインの重力理論(Einstein's theory of gravity)」というのは、まさに「一般相対性理論(Genreal Relaticity[GRT])です。 前項「アインシュタイン, "Einsteinians"、そして・・・」で言及しま、早くから「現代物理学の『基本パラダイム』」となり"Holy Theory"された「特殊相対性理論(SRT)」と異なり、 GRTは戦前は物理学界では不評をかこっていたようで、戦後、一般相対性理論のアインシュタイン方程式を解いてブラッホールを予想した天文学者に触発されてウイナーという人がこれをmain stream化すべく学校まで作って活動し、 その「重力理論」がニュートン力学の修正だと考えられたのでしょうが、ビッグバン宇宙論とともみ宇宙物理学のメイン理論になってきたのですけど、
"Running away from Einstein"(アインシュタインから逃げ出している) - 現代科学へのいちゃもん
毎度のことながら、疑似科学信奉者は歴史を捏造したがる。
- 「"Holy Theory"された『特殊相対性理論(SRT)』」
- 「GRTは戦前は物理学界では不評をかこっていた」
- 「ウイナーという人がこれをmain stream化すべく学校まで作って活動し〜宇宙物理学のメイン理論になってきたのですけど」
特殊相対性理論が"Holy Theory"された歴史的事実はなく、様々な批判に耐えて生き残ってきたことは既に説明したとおりである、 一般相対性理論も同様である。
「ウイナーという人」は、一体、誰か? 物理学界で全く無名の人物であるなら、「宇宙物理学のメイン理論」に関われるはずがないのだから、問題外である。 ブラックホール理論に関係ありそうな人物であるならば、John Archibald Wheelerのことだろうか。 John Archibald Wheelerは理論物理学の大家であり、理論研究で相当忙しかったであろうから、学校設立に関与することはできても「学校まで作って活動」している余裕などあろうはずもない。 そもそも、「学校まで作って活動」しても素人に毛が生えた人たちを啓蒙できる程度であり、そのような活動で「宇宙物理学のメイン理論」にすることは不可能である。
観測のたびに不一致となり、これまではダークマター、ダークエネルギーばどという魅力的なhypothesisを入れることで「つぎはぎ」のつじつま合わせをしてきました。 しかるに、どんどん、理論予想から外れる=矛盾する観測結果が出てきていて、そのままではにっちもさっちもいかなりつつあることが一般下々には隠されていても、こうやってネット上でどんどん暴露されてきています。
"Running away from Einstein"(アインシュタインから逃げ出している) - 現代科学へのいちゃもん
「理論予想から外れる=矛盾する観測結果」「『つぎはぎ』のつじつま合わせ」という理解が、この方の科学に対する無知・無理解をよく表している。 というか、マイケルソンとモーリーの最初の実験論文に対するご自分の主張すら忘れてしまったのか。 同じ理屈を適用すれば、マイケルソンとモーリーの最初の実験論文も「矛盾する観測結果」に対する「『つぎはぎ』のつじつま合わせ」ではないのか。
尚、「ダークマター、ダークエネルギーばどという魅力的なhypothesis」は相対性理論に対する「『つぎはぎ』のつじつま合わせ」ではない。 ダークマターの想定が必要となったのは、銀河の回転曲線問題という遠心力と万有引力の釣り合いが取れない問題である。 これは、従来のニュートン力学でも、ダークマターを仮定しないと、説明がつかない。 ダークマターを必要としない修正ニュートン力学もあるが、これも相対性理論と整合する改良版がある。 以上のことから、ダークマターと相対性理論は直接的に関係する問題とは言えない。
誰が言い出したのか、誰に聞いたのか知りませんが、ネットって知ったかぶりの事実と反していることを平気で垂れ流す人たちがいますね。 多分にそれを真実だと思い違いしているのでしょうが。
実に見事なブーメランである。
私は真面目に再現実験検証もやらないで、理論に合わないから間違いだ、単なる実験ミスだ、錯覚だと否定の大合唱をする、 『科学者の真にあるべき』姿を忘れている学者達及び尻馬に乗ってネットで罵倒している連中には 恥を知れ! と言いたいです。
真っ当な科学者から「否定の大合唱」をされるのは「理論に合わないから」ではない。 科学のプロセスを踏んでいないからである。
今日では定説と認められた仮説を含め、科学的仮説と認められたものは、全て、科学のプロセスを踏んでいる。 それらは例外なく、科学的仮説と認められる程度には証拠を示しているのだ。 必ずしも、100%正しいことを証明する必要はないが、正しい可能性が一定程度あることは証明しなければならない。 そのハードルを乗り越えたものだけが科学的仮説として扱われるのである。 だからこそ、それら科学的仮説を否定するためには「再現実験検証」等の否定的証拠が必要になるのである。
科学的仮説と認められる程度の証拠を何一つ示さないくせに、「再現実験検証もやらないで〜」と文句を言うのは逆ギレに他ならない。 そのような逆ギレをする前に、まず、科学的仮説と認められる程度の証拠を一つ以上示せばよい。 証拠も示さずに逆ギレする人にこそ「恥を知れ!」と言うべきだろう。
「批判だけならだれでもできる」という批判があるようですが、それは全く不見識で、一方的な上から目線のおかしな主張だと思います。 言論の自由はあるのですからおかしいと思うことをおかしいと書くのは個人の自由のはずです。 素人はだまっとれといいたいのでしょうが、学者は王様ではありませんからそんな身勝手な主張は許されません。 そして、それで飯を食っている専門家じゃないのですから対抗理論提示など当然ながら必要性はないわけです。
独自観点からの反相対性理論を本やネットで展開されている日高守さんが「科学ではなく告発です」とおっしゃっていますが、まさにそれでいいのです。
これは「言論の自由」と言論の評価を混同している。 「おかしいと思うことをおかしいと書くのは個人の自由」である。 というより、全く思ってすらいないことを書くのも「個人の自由」である。 もちろん、「それで飯を食っている専門家じゃない」人に「対抗理論提示」の責任も義務などない。 よく「説明責任」という言葉が使われることがあるが、これは一見すると「言論の自由」が免責の口実にならない社会的責任を追求しているように見える。 しかし、実際には、言葉通りの意味が主目的ではなく、評価にするために必要な説明が欠けていることを指摘しているだけであることが多い。
それに対して、「批判だけならだれでもできる」という批判は、「批判だけ」に対する評価である。 これは「素人はだまっとれ」とは全く違う。 そして、「批判だけならだれでもできる」という評価を書くのも「個人の自由」である。 もっとも、「素人はだまっとれ」と言う場合も、相手を黙らせる権限を行使しようとしているわけではないが多い。 反論に値しない「批判だけ」であることを指摘しているだけであり、言葉通りの意味ではない。
「言論の自由」の観点では「科学ではなく告発です」と書くのも「個人の自由」である。 一方で、言論の評価の観点では「科学ではなく告発です」の科学的価値はゼロである。 だから、「批判だけならだれでもできる」は的を射た批判である。 それら自由と評価を混同して「全く不見識」と評価する方が「全く不見識」であろう。
反対者は理論自体に異を唱えているのですから、いくらその理論で正当性を説明しても答えになっていない無意味・無駄なものですし、 いくら実証証明されていると主張されてもその証拠と称しているものの中味に疑問を抱いているのですからこれまた無意味なのです。
「中味に疑問」を呈するだけの根拠を何一つ示せないのでは、「理論自体に異を唱えている」ことこそが「無意味・無駄」である。
もう確立してしまっていると考えられている多くの現代科学の教科書定説に対する異端説や反対論があり、それら教科書定説に反するものは悉く無視または主張者に対する中傷罵倒の嵐状態ですけど、 なぜそのような異端説とか反対論が常に出てきてくすぶり続けているのでしょうか?
私は自分自身に照らして考えるに、これは全て『現代科学の曖昧さ』が要因ではないでしょうか? そう考えてググって見ましたら・・・
その分野の専門知識を有する人から「反対論」が「常に出てきてくすぶり続けている」学説は、定説として確立していないだけであって、『現代科学の曖昧さ』でも何でもない。 「現代科学の教科書」に採用される理論にも次のようにピンからキリまであり、「現代科学の教科書」に採用されていることは「定説」であることを意味しない。
- 他よりも頭一つ抜けている程度の仮説
- それなりに優位性があるが、有力とまでは言えない仮説
- かなり有力な仮説であるが定説には至らない仮説
- ほとんどの専門家が支持する定説
定説として確立していないからこそ、「反対論」が「常に出てきてくすぶり続けている」余地があるのである。 尚、真っ当な「反対論」であれば「異端説」にはなり得ない。 真っ当ではないから「異端説」なのである。 だから、「異端説」が「常に出てきてくすぶり続けている」なんてことは何の根拠にもならない。
なんで軽蔑しているかといいますと、この御仁は「擬似科学批判」で名を売っているからです。 そんな非生産的なもの、科学者としてどこに価値があるのでしょうか? そのベースは何かと言うと単に「教科書定説」と違う、「教科書定説」で説明できないというだけのものなんですね。
「単に『教科書定説』と違う、『教科書定説』で説明できないというだけ」で仮説を批判するなら、その人物は三流である。 しかし、そのことは「擬似科学批判」が「非生産的なもの」であることを意味しない。 その人物の「擬似科学批判」の方法が「非生産的なもの」なのであって、真っ当な「擬似科学批判」であれば十分に生産的な活動である。
古典物理学ともう何か古臭いものというような蔑称みたいな分類をされているニュートン力学は少なくとも実用の範囲で完全に工学的応用がなされています。 しかしながら、それを拡張した現代物理はどうでしょうか?
「ニュートン力学」を含む「古典物理学」を真っ当な科学者が「何か古臭いものというような蔑称みたいな分類」をしていることはない。 特定条件下の近似として成立することは認められており、「実用の範囲で完全に工学的応用がなされています」はそのことを示しているだけである。 そして、「古典物理学」には、一定の条件が成立しない場合には正確性を欠くという立派な隙があることは言うまでもない。
また、現代科学の定説であるビッグバン宇宙論はどうでしょうか? 完全にどこにもすきのない理論になっているでしょうか?
「ビッグバン宇宙論」は、定説として確立するにはまだ一歩足りず、かなり有力な仮説でしかない。 理論の発展過程において未確立の仮説に隙があるのは当然のことである。 そのことをもって『現代科学の曖昧さ』を主張するのは勘違いも甚だしい。
アマチュアの私から見れば「すきだらけ」です。 極めて『曖昧さ』ばかりなのです。 現代科学の定説と言うのはこういうのが極めて多いのです。
「アマチュアの私から見れば『すきだらけ』」であろうとも、それは科学的には何の意味も持たない。 専門知識に欠ける「アマチュアの私」はとんでもない勘違いをする可能性が高い。 だから、これは、「現代科学の定説」の持つ性質ではなく、「アマチュアの私」の持つ性質なのである。
ま、「ど素人が納得できなくても専門家・権威が納得して賛成している」のであるから、納得できないと言うのは頭が悪いか勉強が足らんだけというのでしょう。 ネット見ればそれは一目瞭然ですね。 そのものずばりの表現で異端説・反対論者を攻撃していますから。
しかし、そんなことで真の科学の進歩などあるのでしょうか? 科学者というのは常に現在までの知識・定説に疑問を持ちながら予断のない目で実証実験観察を行い、解析し検討していくことが本質ではないでしょうか?
私は真の科学には「曖昧さ」などあってはならないと思います。 ですから「説明できなくてもいいのだ」などという態度は絶対におかしいと思うのです。 「説明できない」というのは「曖昧さ」そのものです。
先に説明した科学に対する無理解以前に、主張が支離滅裂すぎる。 次の2つは相反するものであり、両立することはあり得ない。
- 「頭が悪いか勉強が足らんだけ」の「異端説・反対論者」を攻撃して「真の科学の進歩などあるのでしょうか?」
- 「真の科学には『曖昧さ』などあってはならない」
この方が「曖昧さ」に言及する場合の個々のケースから判断して、この方の主張に矛盾がないようにまとめると次のようになる。
- 箸にも棒にもかからない珍説の「曖昧さ」を許容しろ!(大きな「曖昧さ」は許容しろ!)
- 他よりも頭一つ抜けている程度以上の仮説の「曖昧さ」は許すな!(小さな「曖昧さ」は許すな!)
前者の条件を認めると、荒唐無稽な寝言まで科学的な仮説として扱えと言うようなものである。 一定程度以上の根拠のないものも仮説として扱うのでは、到底、科学とは呼べない。
後者の条件を認めると、少しでも「曖昧さ」が残る限り、仮説間の優劣を付けることができない。 つまり、「曖昧さ」が極めて少ない仮説も、「曖昧さ」が極めて多い仮説も、全く対等ということになる。 それでは、科学的な仮説と認められた以降の「真の科学の進歩」が著しく阻害される。
荒唐無稽な寝言を排除し、かつ、仮説間の優劣を判断できるようにするなら、次の条件こそ妥当であろう。
- 検討する余地すら認められない「曖昧さ」は許容しない(大きな「曖昧さ」は認めない)
- 他よりも頭一つ抜けている程度の仮説になれるなら「曖昧さ」は許容される(小さな「曖昧さ」は許容する)
そして、実際の科学はそのようになっている。
なんと「現代科学の曖昧さは科学者の良心」とのたまっている方がいて目が点になりました。 で、それを言ったのが私が軽蔑している学者でしたので何をかいわんやという怒りが湧いてきました。
前述のように、その曖昧さを美徳のように主張するなんていうのはもってのほかです。 学者の地位を献上して欲しいです。
おそらく、「現代科学の曖昧さは科学者の良心」「曖昧さを美徳のように主張する」はこの方の勘違いであろう。 「私が軽蔑している学者」が「科学者の良心」「美徳」としていることは、「現代科学の曖昧さ」ではなく、ある程度以下の「曖昧さ」を許容することであろう。 ある程度以下の「曖昧さ」を許容することは、「真の科学の進歩」に必要なことであるから、それを「科学者の良心」と主張することは十分に考えられる。 しかし、どう考えても、「現代科学の曖昧さは科学者の良心」と主張することがあり得ない以前に、「現代科学の曖昧さ」を認めることがあり得ない。 もちろん、「私が軽蔑している学者」がそのような誤解を与える表現を使った可能性はあろう。 いずれにせよ、「私が軽蔑している学者」の主張内容を正確に理解していないから、「目が点になり」「怒りが湧いて」くるのである。
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