ネット上の二重スリット実験トンデモ解説
最初に
このページは二重スリット実験の真相で説明した二重スリット実験に対して、科学的に明らかに誤ったトンデモ解説を紹介するものである。 正しい説明を動画で手っ取り早く見たい方はYouTubeへどうぞ。
尚、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎氏による光子の裁判も、科学的には間違っていないが、粒子性と波動性を混同した説明により疑似科学的誤解を産む一端を担っている。
誤った説明の例
誤った説明の多くは、理系一般を苦手とする人たちによるものである。 理解できないことに対する説明に自信を持つという、自己の過大評価が最大の誤りであろう。
Masahiro Hotta氏
量子力学の一般解説でほぼ必ず登場する二重スリット実験がありますよね。 1個1個の電子をばらばらと図のような2穴スリットを通すと、沢山の電子が衝突した後のスクリーンには波のような干渉縞が起きる実験です。
2016年12月4日午後4:48(Masahiro Hotta) - twitter
一方、どちらの穴を通ったかを測る測定器を置くと、同じように電子を投げても、干渉縞が消えてしまうという実験です。
2016年12月4日午後(Masahiro Hotta) - twitter
この実験は、量子論を扱う科学哲学の一般向けの書籍にも仏教学者の佐々木閑さんの「科学するブッダ 犀の角たち」にも出てきます。 この現象に対して、電子を観測すると波動関数が収縮して干渉縞が消えるという説明があるのですが、実はこれは正しくない説明なんですね。 世間に流布したよくある誤解。
2016年12月4日午後4:54(Masahiro Hotta) - twitter
佐々木閑さんは特に「意識は波動関数の収縮を起こさない」ことを主張するために、この二重スリット実験を解説されています。 しかし測定器が起こすデコヒーレンスが干渉縞を消しているだけで、測定器によってどちらかの穴を通るただ1つの波動関数に収縮しているわけではないのです。
2016年12月4日午後4:59(Masahiro Hotta) - twitter
測定器と電子の相互作用によって、系の波動関数は|Ψ>=|電子は上の穴を通過>|電子が上にいると測定器が記録>+|電子は下の穴を通過>|電子が下にいると測定器が記録>という純粋状態になるだけで、(電子+測定器)の全体としては、波動関数に収縮は起きていないのです。
2016年12月4日午後5:02(Masahiro Hotta) - twitter
この|Ψ>という状態で電子だけの状態に注目すると、上の穴を通った状態としたの穴を通った状態の古典的な混合状態になるので、スクリーン上の干渉縞が消えてしまうのです。 波動関数の収縮は起きていないのです。
2016年12月4日午後5:04(Masahiro Hotta) - twitter
より正確にはスクリーンと電子の相互作用も考えるべきでして、何回も実験した最後には(電子+測定器+スクリーン)の全体が純粋状態になってます。
2016年12月4日午後5:10(Masahiro Hotta) - twitter
つまり(電子+測定器+スクリーン)の全体系が|電子は上の穴を通過>|電子が上にいると測定器が記録>|スクリーン上部に電子が到着>+|電子は下の穴を通過>|電子が下にいると測定器が記録>|スクリーン下部に電子が到着>という純粋状態になっているわけですが。 結果は同じで干渉縞は消えます
2016年12月4日午後5:11(Masahiro Hotta) - twitter
波動関数の収縮は系に関する知識の増加に過ぎないので、意識をもつ主体がいて初めて起きます。 観測者が重ね合わせの中のただ1つの成分を経験することが波動関数の収縮なんです。 今の場合、デコヒーレンスで生じた混合状態の中からただ1つの成分だけが抜き出される過程こそが、波動関数の収縮。
2016年12月4日午後5:17(Masahiro Hotta) - twitter
世間に流布している多世界解釈の理解に対する誤解の指摘も含めて、この波動関数の収縮については下記記事を参照してみて下さい。
まず、量子力学分野の説明なのに、仏教学者の書籍を持ち出す意味がわからない。
「上の穴を通った状態としたの穴を通った状態の古典的な混合状態」のうちの複数の状態が消えずに並存する考え方は多世界解釈特有の考え方である。 そして、干渉性を喪失する過程と「ただ1つの成分だけが抜き出される過程」が別々の過程とする考え方は多世界解釈にもない。 多世界解釈ではデコヒーレンスによって干渉性を喪失すると別の世界を観測することができなくなるので、結果として干渉性を喪失する過程で「ただ1つの成分だけが抜き出される」。 もちろん、標準理論にも2つの過程を別々の過程と見做す考えはない。 量子測定の原理とその問題点 by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明教授によれば「射影仮説には,次の2つの役割がある」とされる。
- (A)異なる測定値に対応する状態ベクトルの間の干渉をなくす
- (B)干渉の無くなった2つの状態ベクトルのうちのどちらかを抜き出す
「古典的な混合状態」は古典的な確率の重ね合わせであるので、複数の結果が並存することはない。 古典的な確率の重ね合わせでは、測定するまで結果がわからない場合でも、既に結果は確定しているのである。 よって、「どちらかの穴を通るただ1つの波動関数に収縮しているわけではない」と言うことにはなり得ない。 「|電子は上の穴を通過>|電子が上にいると測定器が記録>|スクリーン上部に電子が到着>」や「|電子は下の穴を通過>|電子が下にいると測定器が記録>|スクリーン下部に電子が到着>」のそれぞれは純粋状態であっても、この2つの関係性は「古典的な混合状態」なのである。
しかるに、Masahiro Hotta氏は、「古典的な混合状態」は「意識をもつ主体」が「ただ1つの成分を経験すること」で「ただ1つの成分だけが抜き出される」と主張する。 これは従来の古典力学の常識を覆す珍説を新たな古典力学として定義しているが、その根拠は何も示されない。
物理的変化 | 標準理論 | 二重解の理論 | 多世界解釈 | Hotta解釈 |
---|---|---|---|---|
干渉性の喪失 | 測定時 | 測定時 | 測定時 | 測定時 |
結果の確定 | 測定時 | 常時 | 測定時 | 認識時 |
この珍説のおかしさはHotta解釈にて詳細に説明する。
以下も参考に。
論理破綻例
Dr.Quantumによる二重スリット実験とんでも解説が事実関係について大嘘をついているのに対して、 哲学的な何か、あと科学とか は自明な論理矛盾で誤った結論を導いている典型例である。 尚、同様の説明手順における科学的に正しい説明は二重スリット実験(疑似科学からの脱洗脳)に示す。
量子力学系のトンデモは「標準理論」肯定(しているつもり)派と否定派に二分されるが、いずれも、標準理論を激しく間違って理解している点は変わらない。 飲茶氏は「標準理論」肯定(しているつもり)派としては最大級のトンデモだろう。 ただ、殆どが自明な論理矛盾であるので、ちょっと思考力のある人なら簡単に間違いを見抜ける。 論理矛盾を見抜けずに飲茶氏の主張を真に受ける人はトンデモの素養があるだろう。
- 波の性質と粒子の性質が同時に現れてはならないとする証拠なき暗黙の仮定をコッソリと置いている。
- この実験に使えるセンサでは検出できないものもあるのに、センサが反応しないと何も存在しないと決めつけている(例えば、ニュートリノを検出するにはカミオカンデのような巨大な施設が必要=現代科学では万能センサは作れない)。
- この実験で必要とする波の性質を正しく理解していない(「ものすごく細くて小さい波」では空間上で交錯しないから干渉できない)。
- 何でも「未知の現象」で片付ければ良いと思ってるから、どんな珍説も無批判に受け入れる。
- 粒子同士、あるいは、粒子と「ナニか」の干渉は、空間上で交錯しなくても干渉が生じることを前提にしなければ有り得ない(空間上で交錯しないのであれば干渉できるわけがない)。
- 量子力学的な測定を日常的な観測と混同している。
- 確率解釈が波動性に該当する物理現象の存在を否定していると勘違いしている(該当する物理現象については議論の余地があるが、確率解釈は該当する物理現象の存在を肯定も否定もしない)。
- 「説明がまったくつかない」と言っておきながら、後に素知らぬ顔で説明のつく学説(二重解の理論)を紹介している。
- 説明のつく学説が存在するなら「説明がまったくつかない」は事実として明らかな誤りである。
- にもかかわらず、自らの誤りについては一切言及せず、あたかも何も誤りなどなかったかのように振舞っている。
- 誤りを認めていないのだから、当然、その原因(言うまでもなく、証拠なき暗黙の仮定が原因である)を考察することもしない。
- 多世界解釈について、ありがちな誤解をしている。
- そもそも、根本的に科学を誤解している(科学への無理解参照)。
- 哲学の説明も詭弁だらけ(決定論と自由意志参照)。
とくに、1番目の暗黙の仮定が誤った理解に繋がる最大の原因であろう。 ネット上で同様の勘違いをしている人たちにも同様の暗黙の仮定が見られる。 考察の出発点において、次の2つの仮定は全くの対等であるはずである。
- ある瞬間の量子は、波か粒子のいずれかの性質しか持たない
- ある瞬間の量子は、波と粒子の両方の性質を併せ持つ
しかし、「標準理論」肯定(しているつもり)派は、暗黙のうちに前者の仮定を置く。 そして、仮定だと明言されないが故に、検証が必要な未確定事実であることに一切言及がなく、不可侵な確定的前提として扱われてしまう。 通常は、ある仮定が現象と矛盾するならば、その仮定が間違っている可能性を考慮する必要がある。 にも関わらず、「標準理論」肯定(しているつもり)派は、前者の仮定が間違っている可能性を全く考慮しない。 それは、どんな仮定において、どんな論理に基づいて、どんな結論を導くかという論理的整理が全くできていないからである。 論理的思考力が皆無だから、自ら置いた暗黙の仮定を検証できないのである。
ド・ブロイという科学者だ。 彼は、なんと、「明らかに粒子だと考えられていた電子」を『波』だと捉えなおしてみたのである。 すでに、科学的見地から、「粒子」だとわかりきっている存在について、「波」だと考えてみようと言ったのだ。 それはあまりに常識ハズレのトンデモ科学の行為だ。 (電子が、粒子だという確実な実験的証拠はいくらでもあるのだから)
だが、ド・ブロイは、電子を波だと捉えなおすと、それまでの科学理論では、説明できなかった電子の不思議な挙動が、合理的に説明できてしまうことを発見してしまったのだ。 (そして、電子でも、干渉縞を作れてしまうことが発覚する……)
ド・ブロイの提唱した物質波は、「常識ハズレのトンデモ科学の行為」が結果的に「それまでの科学理論では、説明できなかった電子の不思議な挙動が、合理的に説明できてしま」ったわけではない。 唐突な仮定に基づいたボーアの原子モデルに対して、定常波ができる条件(軌道長が波長の整数倍)とボーアの原子モデルの量子条件が計算上で厳密に一致することから、電子が波だとする仮説を提唱したのである。 ド・ブロイは、ボーアの原子モデルを理論的に裏付ける方法を模索したのであり、「常識ハズレのトンデモ科学」を提唱したわけではない。
●実験B 電子1個を発射した場合
電子銃の出力を小さくして、「電子1個」を発射してみたらどうなるか?
結論を言うと、スクリーンには、ポツンと小さな点が現れる。
これは、電子1個を飛ばしたのだから、スクリーン上には、その1個が当たった場所が「点」として映るということで、当たり前の話である。 なんの不思議もない。
電子が、スクリーン上に「点」として映ることは、「電子が粒子」であるという確かな証拠である。
●実験C 電子1個を少しづつ発射した場合
では……。 電子銃から、「電子1個」の発射を何度も繰り返したらどうなるだろう?
つまり、最初の「電子1個」がスクリーンに当たって、「点」が映し出されたら、次の「電子1個」を発射するということを何度も繰り返す実験だ。(ようは、実験Bを連続してやるだけの話だ)
結論を言うと、スクリーンには、「電子1個」が発射されるたびに、ポツン、ポツンと、少しづつ小さな「点」が増えていく。
ここまでは、ぜんぜん不思議じゃない。 実験Cとは、実験Bの繰り返しなのだから、この結果は、当たり前である。
飲茶氏は、「『点』として映る」場所を無視することで「ここまでは、ぜんぜん不思議じゃない」「この結果は、当たり前」にしてしまっているのである。 もしも、「電子が粒子」であるならば、2つめの図のように「電子銃」とスリットを結んだ直線上にのみ「『点』として映る」はずである。 しかし、実際に実験をすると、「電子銃」とスリットを結んだ直線上に「『点』として映る」ことは稀であり、直線上から離れた場所に「『点』として映る」ことの方が多い。 そのことは、飲茶氏自身が描いた図にも明確に示されている。
よって、「『電子1個』が発射されるたびに、ポツン、ポツンと、少しづつ小さな『点』が増えていく」位置を無視しなければ、「ここまでは、ぜんぜん不思議じゃない」「この結果は、当たり前」などであるわけがない。
ケース1)電子がもし波だったら
電子が波だとすれば、実験Aはなんの不思議もなく説明できる。
問題は、実験Bだ。 だが、電子1個分の波が、「ものすごく細くて小さい波」であるとすれば、2つのスリットのうち、一方のスリットしか通り抜けなかったことを説明することは可能である。 また、「ものすごく細くて小さい波」だからこそ、スクリーン上に「点」として記録されたのだと説明することもできる。 したがって、電子が波であっても、実験Bは説明がつくのだ。
まず、「ものすごく細くて小さい波」が持続して伝搬する仮定に無理がある。 ハイゼンベルクは、論文「量子論的運動学および力学の直観的内容について」において、凝集した波は時間とともに広がってしまうことを明らかにしている。 波のその様な性質を無視したとしても、飲茶氏が描いた次の様な原理的実験装置では、両スリットを通った「ものすごく細くて小さい波」が互いに交錯することはないから、干渉縞が生じ得ない。
「ものすごく細くて小さい波」が広がらずに維持されるなら、ホイヘンスの原理が成立しないから、回折現象も生じ得ない。 仮に、「ものすごく細くて小さい波」の軌道が何らかの理由で曲がったとしても、左右のスリットを通った「ものすごく細くて小さい波」が交錯する確率は天文学的に低いから、干渉縞は生じ得ない。 だから、「実験Aはなんの不思議もなく説明できる」わけがない。
ケース2)電子がもし粒子だったら
電子が粒子だとすれば、実験Bはなんの不思議もなく説明できる。
問題は、実験Aだ。 だが、実験Aは、大量の電子を放出しているという前提があるのだから、大量の粒子が、「2つのスリット」を通り抜けているということになる。 したがって、スリットAを通り抜けた粒子の大群と、スリットBを通り抜けた粒子の大群がスクリーンの手前で、ぶつかり合っていることは容易に想像がつく。 そして、そのぶつかり合いの結果、なにか未知の現象が働いて、スクリーン上にシマ模様を作り出したのかもしれない。 「大量の粒子がぶつかり合ったとき、粒子たちは、シマ模様ができるように、お互いをはじき飛ばしたのだ」 という未知の仮説を持ってくれば、電子が粒子であっても、実験Aは説明がつくのだ。
飲茶氏が描いた次の様な原理的実験装置では、「スリットAを通り抜けた粒子の大群」と「スリットBを通り抜けた粒子の大群」の軌道が交錯することはないから、「ぶつかり合」うことはあり得ない。
「ぶつかり合」うことがないなら、「『大量の粒子がぶつかり合ったとき、粒子たちは、シマ模様ができるように、お互いをはじき飛ばしたのだ』という未知の仮説」で干渉縞を説明することはできない。 電子線バイプリズムを用いた装置であっても、二重スリット実験(疑似科学からの脱洗脳)で解説しているように、「『大量の粒子がぶつかり合ったとき、粒子たちは、シマ模様ができるように、お互いをはじき飛ばしたのだ』という未知の仮説」で干渉縞を説明することは困難である。
- 電子の間隔が広すぎて、クーロン力を考慮しても、「お互いをはじき飛ば」す確率は天文学的に低い
- 「お互いをはじき飛ばした」結果による軌道変化がランダムに起こるなら、干渉縞の確率分布となることが説明できない
実験Aや実験Bなら、電子を「波」だと解釈しても、「粒子」だと解釈しても、無理やりなんとか説明することができた。 だが、実験Cは、電子を「波」だと解釈しても、「粒子」だと解釈しても、決して説明できない。
「決して説明できない」のは、粒子性と波動性のどちらか一方しか現れることがないという隠れた仮定を置いているからである。 そして、この隠れた仮定を放棄すれば何の矛盾も生じないことは、飲茶氏自身が パイロット解釈 - 哲学的な何か、あと科学とか で認めていることである。 つまり、この隠れた仮定が科学的に妥当性を欠いているだけなのである。 しかし、飲茶氏は、最後まで自身の置いた隠れた仮定の誤りを認めない。
ちょっと、整理してみよう。
・電子が、「粒子」であるとすると……
→スリットはどちらか一方しか通らないのだから、2つのスリットで生じる干渉縞という現象の説明がまったくつかない。
・電子が、「波」であるとすると……
→波なので、2つのスリットを通り抜けたと言いたいが、2つのスリットにセンサを取り付けたときの実験結果(実験Bの追加実験)と矛盾する。
さぁ、実験Cの解釈は、袋小路に追い込まれた。
先ほども説明した通り、「実験Cの解釈は、袋小路に追い込まれ」るのは、粒子性と波動性のどちらか一方しか現れることがないという隠れた仮定を置いているからである。
- 電子が、「粒子」であるとすると……
- 電子が、「波」であるとすると……
論理的に思考するためには、その時点で何が分かっていて、かつ、何がわかっていないのかを整理しなければならない。 そして、判明している事実は確定的に論じつつも、わからないことはあらゆる可能性を模索することが論理的な思考である。 確定事項を蒸し返すのは非論理的思考であり、さらに、その蒸し返しに後付けの隠れた仮定を導入するのは愚の骨頂であろう。
この実験から判明していることは次の2つである。
- 測定前には波動性がある
- 測定後には粒子性がある
そして、測定前の粒子性の有無や測定後の波動性の有無については、この実験ではわからない。
測定前 | 測定後 | |
---|---|---|
波動性 | あり(確定事項なので別の可能性を論じる必要なし) | 不明(ある場合とない場合の両方を検討する必要あり) |
粒子性 | 不明(ある場合とない場合の両方を検討する必要あり) | あり(確定事項なので別の可能性を論じる必要なし) |
以上から、測定前については、波動性はあることが確定で、粒子性はある場合とない場合の両方を検討する必要がある。 測定後については、粒子性はあることが確定で、波動性はある場合とない場合の両方を検討する必要がある。
「電子が、『粒子』であるとすると……」では、測定前には波動性がないという仮定を置くから「スリットはどちらか一方しか通らない」のである。 実験から判明している事実と食い違う仮定で論じるなら、何のために実験をするのか。
測定前 | 測定後 | |
---|---|---|
波動性 | なし←実験から判明している事実と食い違う仮定 | なし |
粒子性 | あり | あり |
「2つのスリットにセンサを取り付けたときの実験結果(実験Bの追加実験)」(どちらか一方しか検出しない)から、この「センサ」の検出対象が、波動性ではなく粒子性であることが明らかである。 だから、これは、粒子が一方のスリットしか通らないことを示しているが、波動性については何も示していないのである。 であれば、「2つのスリットにセンサを取り付けたときの実験結果(実験Bの追加実験)」では、「2つのスリットを通り抜けた」ときの波動性は検証できない。 つまり、「波なので、2つのスリットを通り抜けた」ことは実験から判明している事実であり、かつ、その事実は「2つのスリットにセンサを取り付けたときの実験結果(実験Bの追加実験)」では否定できない。 検証不可能な方法で検証できたことにして、実験結果と矛盾する仮定を正当化するから「矛盾する」のである。 検証で否定できず、かつ、実験から判明している事実を素直に認めれば何処にも矛盾は生じない。
いずれの場合も、実験結果と矛盾する仮定を置けば、「説明がまったくつかない」「矛盾する」のは当たり前である。 しかし、真面目に何かを論じたいなら、実験結果と矛盾する仮定をアレコレ模索する前に、まず、実験から判明した事実に基づいて考察すべきだろう。 飲茶氏は、実験から判明した事実に基づいた考察をひとつも行っていないのだから、そこから何か意味のある結論を見出だすことは不可能である。
干渉縞が生じている事実をもって波が2つの経路を通った証拠としているのだから、何が2つのスリットを通ったかなど考えるまでもない。 「点」の集合体であることをもって粒子性の証拠としているのだから、1つの「点」に対応する粒子が何個あるかなど考えるまでもない。 既に決着済みの問題に対して、決着した時点では存在しない隠れた仮定を置いて蒸し返した結果、辻褄が合わないと騒ぐことには何の意味もない。 新たな仮定を置いて辻褄が合わなくなるなら、その仮定が正しくないと考えれば良いだけである。 ましてや、実験から判明している事実に反する仮定で辻褄が合わないなら、実験から判明している事実が正しいことを改めて示しただけに過ぎない。
科学者たちは、この実験Cをどのように解釈したのだろう?
もちろん、この実験Cについて、科学の世界における「標準的な解釈」というのは存在する。 それは「コペンハーゲン解釈」とも呼ばれている。 (コペンハーゲン大学の科学者(ボーアら)が提唱した解釈だから、そう呼ばれる)
そもそも。 実験Cは大きな「矛盾」をはらんでいる。
電子が「波」であっても「矛盾」するし、電子が「粒子」であっても「矛盾」する。
ともかく、こうした事実をふまえて素直に解釈すると、実験Cはこのように説明できる。
→電子は、スクリーンに到達して観測される前は「波」である。だから、波である電子は、2つのスリットを同時に通り抜けることができて、干渉模様を作ることができる。ただし、この「波」の正体は「粒子がどこで観測されるかの確率の波」である。そして、電子がスクリーンに到達して、観測されると、電子は「粒子」になる。
これを簡単に言うと、電子は、「観測される前は波であり、観測されると粒子になる」ということを意味する。
電子をこのように考えて説明するのが、「コペンハーゲン解釈」であり、ようするには「だるまさんが転んだ解釈」だと言ってもいい。
つまり、電子を観測していないとき、(だぁるまさんが~~~) 電子とは、 「自分はここにいるかもしれないという確率的な存在で、波のような存在」 である。
2重スリット実験(6) コペンハーゲン解釈 - 哲学的な何か、あと科学とか
まず、そもそも。
「電子は、見ているときは粒子だが、見ていないときは粒子ではない」
と量子力学は述べているが、
2重スリット実験(7) 完結編 - 哲学的な何か、あと科学とか
量子力学のコペンハーゲン解釈では、
観測していない電子は、『位置Aにあるかも』 『位置Bにあるかも』 といった複数の可能性として、同時に存在している
と考えているのだから、
確かに、標準理論の計算過程では「観測される前は波であり、観測されると粒子になる」という処理を行うが、それを二重スリット実験から導出することは不可能である。 隠れた仮定を置いて存在しない矛盾を作り出しているから「観測される前は波であり、観測されると粒子になる」という解釈が必要になるのである。 また、標準理論は計算過程の物理的現象がどうなっているかについては言及していないし、コペンハーゲン解釈は計算過程の物理的現象を考える必要はないとする解釈であって、「電子は、見ているときは粒子だが、見ていないときは粒子ではない」という解釈ではない。 いずれも、成立当時、何の証拠もなかった以上、確定的なことが言えるはずもない。 証拠のない珍説では物理学の主流学説にはなり得ない。
歴史的にも、二重スリット実験からコペンハーゲン解釈が生まれることはあり得ない。 二重スリット実験は1961年に初めて成功したのであり、コペンハーゲン解釈はそれよりも前の20世紀前半には確立している。 単位量でも波動性と粒子性の二重性を持つことは二重スリット実験以前から想定されていたことであり、1927年の第5回ソルベー会議で二重解の理論等が提唱されていることから、早くから単位量でも波動性と粒子性の二重性を持つことを前提として議論されていたことがわかる。
だが、「その常識的な世界観では説明のつかない実験結果(2重スリット実験)」が現実に存在するのだ。 だから、その「ヘンテコな実験結果」と、ツジツマを合わせるために、「ヘンテコな新しい考え方」を作り出すしかなかったのは、仕方がないだろう。
既に説明した通り、「『ヘンテコな新しい考え方』を作り出すしかなかった」のは、「『その常識的な世界観では説明のつかない実験結果(2重スリット実験)』が現実に存在する」からではなく、実験結果に反する隠れた仮定を置いたからである。
それがボームの提唱した「パイロット解釈」だ!
俗に「パイロット解釈」と呼ばれる二重解の理論は、1927年の第5回ソルベー会議でド・ブロイが提唱したものである。 後にボームが提唱したのは、その改良版の量子ポテンシャル理論である。
たとえば、粒子が観測される場所が、波の形になっているのだから、下図のように「波が出てから、粒子が飛ぶ」と考えるのはどうだろうか?
1)ミクロの粒子(電子)が、移動するまえに「波」を出す。
2)粒子は、その「波」に乗って、移動する。
ここで、この「波」は、「パイロットのように粒子を導く波」ということから、「パイロット波」とか「ガイドウェーブ」と名づけられ、このツジツマ合わせの説明を「パイロット解釈」と呼ぶ。
実は、こんなふうに考えても、2重スリット実験は説明できてしまうのだ
先ほど、飲茶氏は、実験結果に反する隠れた仮定を置いて「実験Cの解釈は、袋小路に追い込まれた」と主張していた。 一方で、「こんなふうに考え」ることは、飲茶氏による隠れた仮定を置かない場合の可能性の一つである。 つまり、「こんなふうに考えても、2重スリット実験は説明できてしまう」のであれば、飲茶氏による隠れた仮定を置かなければ何の問題もなく「2重スリット実験は説明できてしまう」ことを意味する。 ようするに、「決して説明できない」「実験Cの解釈は、袋小路に追い込まれた」のは、飲茶氏が置いた実験結果に反する隠れた仮定が致命的原因だったのである。 しかも、二重解の理論は1927年には存在しているので、実験結果に反する隠れた仮定を置かなければ「実験C」が何の問題もなく説明できることは、1961年の二重スリット実験の30年以上前からわかっていたことである。 ようするに、実験結果に反する隠れた仮定を置いたことが飲茶氏個人の思考に起因する過ちであることは明白なのだが、飲茶氏は自らの過ちには一切言及せずに闇に葬り去っている。
実際、このパイロット解釈は、発表当時、とても注目された。 科学者たちは、拍手喝采で、パイロット解釈を、迎え入れようとしたのだ。
二重解の理論にしろ、量子ポテンシャル理論にしろ、「科学者たちは、拍手喝采で、」「迎え入れようとした」という歴史的事実はない。 どちらも、ヴォルフガング・パウリがツッコミを入れたり、ジョン・スチュワート・ベルが絶賛するなどした程度で大方の物理学者は興味すら示していない。
しかし、このパイロット解釈には、致命的な問題あり、それによって、一気に捨てられることになる。
パイロット解釈では、「粒子が波に乗って移動する」という日常的でわかりやすい考え方だが、これを数式にしてきちんと書こうとすると、とてつもなく面倒な方程式になってしまうのだ。
パイロット解釈の方程式とは、簡単に言えば、「波が粒子に力を加えて、粒子の軌道を変えるような方程式」なのだが、この方程式がメチャクチャ複雑で面倒くさいのだ。 はっきりいって、人間が手作業で解けるような代物ではない。
しかも、方程式が複雑で難しいからといって、コペンハーゲン解釈の方程式(シュレディンガー方程式)より予測精度が高くなるわけではない。 パイロット解釈の方程式でも、やっぱり確率的にしか答えをだせないのだ。
結局のところ、どっちの方程式を使おうが、 「電子が観測される場所の確率は、こういう波の形になります」 ということが導き出されるだけである。
さてさて。 パイロット解釈の方程式に比べれば、コペンハーゲン解釈のシュレディンガー方程式は、まだ簡単である。 だから、仮に、「パイロット解釈が正しいと信じている科学者」がいたとしても、そいつに、「ミクロの物質の位置を予測する仕事」を与えたら、絶対、「コペンハーゲン解釈のシュレディンガー方程式」を使って計算するに決まっている。
「なんだよ、おまえは、つねづね、コペンハーゲン解釈なんか、穴だらけのDQN理論だって、さんざん、言っていたじゃねぇか! パイロット解釈の数式を使えよ、このやろー!」
「う、うるさいな! だって、シュレディンガー方程式を使った方が、 簡単なんだもん!!」
実際のところ、現場で活躍している多くの科学者からすれば、コペンハーゲン解釈だろうと、パイロット解釈だろうと、多世界解釈だろうと、観測によって証明できない以上は、どっちも同じレベルの仮説(ヨタ話)にすぎない。
で、どっちの仮説(ヨタ話)を採用しようが、予測できる結果は一緒なのだ。
「だったら、決まってるさ! 数式が簡単な方に使うに決まってる!!」
パイロット解釈が、標準解釈として採用されなかった理由は、なにより「使いにくかった」からである。
シンプルで綺麗な数式として表現できない理論なんかに、使い道などない。 こうして、パイロット解釈の研究は、下火になっていくのであった。
「なにより『使いにくかった』」は、「標準解釈として採用されなかった理由」にはなり得ない。 例えば、相対性理論の数式は「使いにくかった」ので、ニュートン力学で事足りる低速域ではニュートン力学の数式が用いられる。 しかし、そのことは相対性理論が物理学の標準理論であることを否定しない。 また、ノイマンの提唱した計算方法は「使いにくかった」ので、シュレーディンガーの計算方法で事足りる場合はシュレーディンガーの計算方法が用いられる。 しかし、そのことはノイマンの提唱した計算方法が量子力学の標準理論であることを否定しない。 このように、理論として何が正しいかと、計算方法としての使いやすさは全く別の問題である。
尚、2005年にR.E.Wyattによって先導方程式の計算を飛躍的に容易にする数値解析手法である量子トラジェクトリ法(quantum trajectory method)が開発されている。 もしも、「なにより『使いにくかった』」ことが「標準解釈として採用されなかった理由」であるならば、その問題が解決された以上、「標準解釈として採用」されなければおかしい。 しかし、実際には、二重解の理論も量子ポテンシャル理論も「標準解釈として採用」されていない。 このことは、「なにより『使いにくかった』」が「標準解釈として採用されなかった理由」ではないことの明確な証拠である。
また、「観測によって証明できない」ことは「どっちも同じレベルの仮説(ヨタ話)」ということにはならない。 たとえば、相対性理論と修正エーテル仮説は、どちらが正しいか「観測によって証明できない」としても、「どっちも同じレベルの仮説(ヨタ話)」ではない。 修正エーテル仮説が成立するためにはかなり無理やりなコジツケが必要になるため、相対性理論の方に優位性が認められるのである。 だから、相対性理論が「標準解釈として採用」されている。
尚、二重解の理論とその派生理論が標準理論とならない理由は、隠れた変数理論で説明しているとおり、ベルの不等式やコッヘン・シュペッカーの定理等により、既存の標準理論に対する優位性を示せないからである。
一般的に、『多世界(パラレルワールド)』解釈という語感から、「人間が観測するたびに、別の世界が生まれて、世界が増えていく」という理解をする人たち(または、そのように説明する人たち)がいるが、それはまったくの誤解である。
多世界解釈では、あくまで、宇宙全体が、「巨大な可能性の波(=ひとつのシュレディンガー方程式)」であると考えている。
(原子や分子などの物資が、「可能性の波(シュレディンガー方程式)」として記述できるなら、世界全体も同様に、大きな「可能性の波(シュレディンガー方程式)」として記述できると考えるのは、当然の帰結だ)
だから、「人間が観測したら、世界が分岐する」って発想がそもそも間違っている。
人間が観測する/しないに関わらず、「世界は、あらゆる可能性を含んで、いまここに存在している」のだ。
つまり、「最初から、分岐している」と言える。
「最初から、分岐している」なら、「最初から」空間的広がりを持たない粒子性しか示さず、かつ、「分岐している」のでは各世界の粒子間の干渉性も生じ得ないので、波動性を説明できない。 それならば、二重スリット実験における干渉縞は生じない。
永久に分岐することなく「世界は、あらゆる可能性を含んで、いまここに存在している」なら、いつまで経っても空間的広がりがなくならないので、粒子性を説明できない。 それならば、二重スリット実験の干渉縞は滑らかなグラデーションになるはずである。
しかし、現実の二重スリット実験では、これらのいずれとも違い、点の密度の差が干渉縞を形作っている。
よって、トリガーが何であるかに限らず、「世界が分岐する」ことがなければ多世界解釈で実験結果を説明することはできない。 実験結果と一致させるためには射影仮説と等価な仕組み(隠れた変数理論では隠れた変数、多世界解釈では世界の分岐)は必須なのである(量子測定の原理とその問題点 by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明教授、Modern Theory of Quantum Measurement and its Applications by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明教授参照)。
上記の話は、笑い話ではない。 ノイマン博士は、「ココロ」や「イシキ」といった現代物理学では語れないナニカが、可能性の決定を引き起こしている、と本気で主張したのだ。
これは典型的な通俗説であるが、フォン・ノイマンが意識解釈を強硬に主張したとする歴史的事実は確認できない。 物理学者が量子力学について激しい議論を交わしたことは有名だが、その中にノイマンが居たという話は全く聞かない。 アインシュタインやボーアらが激しい議論を交わしたとされる第5回ソルベー会議の参加者にもノイマンの名はない。 それもそのはず、数学者であっても物理学者ではないノイマンには、物理学的解釈に積極的に関わる動機がない。 その後の研究の足跡を見ても、量子力学的論争に関わるだけの時間的猶予があったとは言えない。
物理学講師の吉田伸夫氏は、ノイマンが自著にて「人間のような意識を持った観測者」が測定すると波動関数が収縮することに言及しているとしながらも、
実は、ノイマンは、あくまで数学的に状態変化の式を記しているだけ
シュレディンガーの猫 - 科学と技術の諸相
として、ノイマンが積極的に意識解釈を主張したとする考えを否定している。
「量子力学の解釈問題―実験が示唆する『多世界』の実在」の著者であるColin Bruce氏も、ノイマンが積極的に意識解釈を主張したとすることには、その著作の中で懐疑的な見解を示している。
ノイマンが「量子力学の数学的基礎」第6章で述べていることは非常にわかりにくいが、良く読めば意識解釈を肯定していないこと分かるだろう。 第6章の内容を簡単に箇条書きする次のようになる。
- 観測と主観的な知覚は結びついている
- 物心平行論は科学の基本的な要請である
- 物心平行論では、測定する側とされる側の境界は任意の場所に設定できる
- ノイマンが提唱した数学的手法では境界を任意の場所に設定できるから物心平行論を満足している
書籍を引用した詳細は量子力学の概要部分で解説する。 確かに、ノイマンは、人間のような意識を持った観測者が認識すると結果が確定することに言及している。 しかし、一方で、意識解釈に依存とすると「科学的世界観にとって基本的な要請」に適合しないことにも言及している。 ノイマンが提唱した方法が意識解釈に依存しないことを積極的に示しそうとしたことは疑う余地がない。 よって、ノイマンが意識解釈を提唱したとする主張は歴史的に明らかに誤った主張である。
何と言うかアレ
飲茶氏が「標準理論」肯定(しているつもり)派トンデモの横綱ならば、これから紹介するサイトは否定派トンデモの横綱である。
さて。 実験事実はわかったが、これについての解釈が問題となる。通常は、次のように解釈される。
「一つずつ電子が発射されても干渉縞が生じるのは、電子が二つのスリットを同時に通過したからだ」
しかし、これは、あまりにも不自然である。 「一つの粒子が二つのスリットを通る」なんてのは、ほとんど言語矛盾だ。 「半分ずつ通る」ならばまだわかるが、「半分ずつ通る」というわけではない。
( ※ 言語矛盾だけでなく、物理学的な矛盾もある。 「一つの粒子が二つのスリットを通る」というのは、「一つの粒子が同時に別の場所に存在する」ということであるから、相対論に矛盾する、とすら言える。 時間差ゼロで別の場所に移動しているのと同じことだからだ。)
これは問題だ。 そこで、次のような解釈が出た。(「コペンハーゲン解釈」と呼ばれる。)
「電子が発射されたあとでは、電子の存在確率が、波動関数で示される。 途中で二重スリットを通り抜ける時点でも、電子は波動関数で示されるので、存在確率が雲のように拡散しながら、二重スリットを通り抜ける。 その後、波動関数が感光板に達すると、観測される。 観測された時点で、波動関数が急激に収束して、電子は一点に決定される」
この発想では、電子がスリットを通り抜けるのではなくて、電子の存在確率のようなものがスリットを通り抜けるだけだ。 というわけで、「一つの粒子が二つの場所を通る」という言語矛盾は避けられる。 しかし、そのかわり、物理学としての矛盾が発生する。
標準理論に対する認識が肯定(しているつもり)派も否定派も大差がないという点は興味深い。
同じ認識で肯定と否定に分かれるのは不思議だが、この認識では否定的に捉えるのも当然と言えるだろう。
問題は、伝聞に疑問がある時に、間違った伝聞を聞いた可能性を考慮せずに、「標準理論が間違っている」と安易に断定することである。
その点は、相間な素人が本職の物理学者に対して
かような簡単なことも理解してない
本物の色物物理学者たち - 谷甲州黙認FC・青年人外協力隊
と言っているのと同じであろう。
尚、南堂氏が「玉突きモデル」「超球理論」と呼ぶ理論は、箸にも棒にも掛からない代物である。
- 科学の何たるかを理解していない
- 実験結果と一致しない
- 実験結果と矛盾しない数式が提示できる見込みがない
「玉突きモデル」「超球理論」の説明を読むと、南堂氏が科学は原理を説明するものだと思っていることが見て取れる。 しかし、この理解がそもそも誤っている。 科学とは、法則を導く手段であって、原理は法則を導いたり法則を応用する段階で必要になることもあるに過ぎない。 そして、量子力学において標準理論が支持されているのは、定量的理由からであって定性的理由ではないのだから、定性的な優位性をいくらアピールしても意味がない。 というか、標準理論に否定的な物理学者たちが、定性的な優位性をアピールした様々な理論(隠れた変数理論)をとっくの昔に提唱している。 それらの多くは二重解の理論のように定量的に実験結果と矛盾しない(標準理論と数学的に等価である)ことを示している。 だから、今更、定量的な数式を示さずに定性的な優位性をアピールするだけの空想理論を提示しても、それらの代替理論の足下にも及ばない。
また、「玉突きモデル」「超球理論」は、定性的にも実験結果と全く一致しない。 「玉突きモデル」「超球理論」では、粒子の運動は一定角度内に広がって伝搬することになっている。 しかし、そうすると、測定結果も空間的な広がりを持つことになり、1点に凝集した実際の実験結果と一致しない。 また、一定角度内に広がって伝搬すれば、運動量や運動エネルギーも距離に応じて減衰するはずであるが、それも実際の実験結果と一致しない。 さらに、「玉突きモデル」「超球理論」では、二重スリット実験では、力点が2つに増えるだけなので、干渉縞が説明できない。 このように「玉突きモデル」「超球理論」は、定性的にも実際の実験結果と全く一致しない。 いくつかの追加の仮定を置けば、定性的に実際の実験結果と一致させることが可能かもしれないが、その場合は非常に歪な理論となる。 それでは原理説明が奇怪なものとなるので、「玉突きモデル」「超球理論」を支持すべき理由がなくなってしまう。
南堂氏は数式の提示を拒否しているが、仮に、南堂氏自身が数式を提示していても、今説明した通り、それは実験結果と全く一致しないだろう。 仮に、「玉突きモデル」「超球理論」を定性的な辻褄が合うように修正しても、その理論の基づいて構築した数式が定量的に実験結果に一致する確率は天文学的に低い。 そこから、更に、定量的にも実験結果に一致するよう理論の修正をしたとしても、原理説明が益々奇怪なものとなるので、「玉突きモデル」「超球理論」を支持すべき理由がなくなってしまう。
「単位量の量子であっても波としての性質を示す」ということだけならば、「何もわかりません」と言っているだけ。 他人の仮説を中傷するだけで、自分は仮説を出せない。 無根拠な悪口だけあり、真実を呈示していない。
「単位量の量子であっても波としての性質を示す」ことが結論として導けると、何がわかるのか明確に示していることが「『何もわかりません』と言っているだけ」とは全く意味不明である。 「単位量の量子であっても波としての性質を示す」という真実を示しているのに、「真実を呈示していない」も全く意味不明である。 二重スリット実験の結果を矛盾なく説明できる理論を3つも紹介しているのに、「自分は仮説を出せない」も意味不明である。
既に説明した通り、二重スリット実験から「単位量の量子であっても波としての性質を示す」以外のことを導くなら、それは妄想であって仮説ではない。 実験結果を説明するために必要だからこそ仮説と呼べるのであり、説明に不要な妄想は仮説ではない。
このような根拠に対して正面から反論せずに、「無根拠」と言い張って無かったことにしてしまうとは、さすが大御所は仰ることが違う。 え、どうして大御所ご本人だと分かったかって?
さて。これと同様のことをやっているのが、NATROM氏だ。
彼はここで、次のことをやっている。
「個人のはてなブックマークについて、そのアカウントの持主の別のブログを推測して、同一人物であると推定してから、両者を攻撃する」
ここでは「はてなのアカウント」という個人情報と、「別のブログの持主」という個人情報を結びつけることで、個人情報を勝手に公開している。
ブックマークコメントを書いたblueboy氏はOpenブログの管理人である南堂久史氏であると思われる。
一般に「個人情報」とは住所や本名等の実在の人物を特定する情報であって複数のハンドル名を「同一人物であると推定」することではないとか、正体を暴かれたと文句を言う前に複数の人物を装って人数を偽装するなとか、ツッコミたいことは多々ある。 しかし、ここで重要なことは其処ではない。 重要なことは、「blueboy氏はOpenブログの管理人である南堂久史氏であると思われる」との指摘が極めて説得力を持つくらい、言動が極めてソックリなことである。
南堂さんも、否定派トンデモと言われて悔しいなら具体的に反論すれば良い。 ここでも指摘している通り、南堂さんの主張の最大の問題点は、批判する対象者の主張を理解せずに批判することである。 「いやいや、ちゃんと理解して批判しているぞ」と仰るなら、その証拠を示せば良い。 ご自分が紹介した内容が、間違った伝聞に基づくものではなく、間違いなく標準理論なのだとする証拠を示せば良いだけであろう。 それが本当であるなら実証は極めて簡単なことであり、高名な物理学者が書いた著書の内容を引用すれば良いだけである。
「二重スリット実験を批判」?
Dr.Quantumによる二重スリット実験とんでも解説を「二重スリット実験を批判してる」と言っている人がいる。 しかし、どこをどう読んで「二重スリット実験を批判してる」と認識したのか全く不明である。
分かりやすい二重スリット実験の説明のページでは、二重スリット実験(の正しい解説)とその物理学的意義(=単位量であっても量子が波の性質を示すという理論的予測の実証)を完全に肯定している。 確かに、Dr.Quantumの説明は批判したが、科学的に明らかに間違った説明を批判しているだけで、それは二重スリット実験の批判ではない。
このサイトを読んでいくと Dr. Quantum の批判をしているが、 ただ、カメラの有る無しが影響しているわけではない、と言ってる。 そういう性質があるだけ、ということらしい。
「そういう性質があるだけ」とは何が言いたいのか意味不明である。 干渉縞が消えるのは、干渉縞の成立条件の1つ以上が乱される場合に限る。 そして、その干渉縞の成立条件を乱すためには、何らかの物理的干渉が必要となる。 これは、「カメラの有る無し」とは全く無関係である。 カメラがあっても物理的干渉がなければ干渉縞は消えないし、カメラがなくても干渉縞の成立条件を乱す物理的干渉があれば干渉縞は消える。 そのことを正しく理解していれば「そういう性質があるだけ」との言い回しは出てこないだろう。
結果的に、
『他の実験等から「見ていないときは粒子ではない」可能性が高いとは言えるが、少なくとも、二重スリット実験からその結果を導くことは不可能である。』
とも言っている。
さんざん、文句を言ってきて、
『他の実験等から「見ていないときは粒子ではない」可能性が高いとは言える。』
って、なんだよ、
結局、二重スリット実験を批判してるわりには、
『「見ていないときは粒子ではない」可能性が高い』
って…(笑)
現状で隠れた変数理論は首の皮一枚がつながっている状態である。 しかし、それはベルの不等式とその検証実験やその他の理論等によって導かれる結論である。 二重スリット実験の結果は、隠れた変数理論でも全く何の問題もなく説明できる。 だから、二重スリット実験からは、どうやっても、隠れた変数理論に不利となる結論を導けない。 つまり、二重スリット実験が隠れた変数理論を否定するかのような言説は完全な嘘である。
つまり、
Dr. Quantum の二重スリット実験だけではわからないが、
物理学の不思議な現象は存在するってことだろ!
あの動画はそれがわかれば十分じゃないか?
ここで言われる「不思議な現象」とやらは、「二重スリット実験だけではわからない」のではなく、二重スリット実験ではわからないのである。 「不思議な現象」とやらを検証するうえで、二重スリット実験は何の役にも立たない。 二重スリット実験からは、どうやっても、「不思議な現象」とやらは導けないのである。
量子力学の実験結果には不可思議なことが存在する。 しかし、Dr.Quantumの説明では、二重スリット実験の意義だけでなく、量子力学の不可思議さの説明も間違っている。
- Dr.Quantumの説明は二重スリット実験を正しく説明していない
- Dr.Quantumの説明は量子力学(の主流学説)の説明としても正しくない(マイナー説に一致するものはあるかもしれない)
二重スリット実験の真相で紹介している金谷和至教授や吉田伸夫物理学講師による解説も良く読んでもらいたい。 それらの解説がDr.Quantumの説明と相容れないものであることは読めばわかることである。
時間も限られてるし、 単に不思議現象を紹介したかっただけなんでしょ。
演出だよ、演出!(笑)
それを二重スリット実験だけではわからないからと言って、 Dr. Quantum を批判ですか!(笑)
嘘を導入することは「演出」ではなく捏造である。 例えば、ヤングの実験でエーテルの風が存在しないことが示唆されたかのように説明した場合を考えよう。 ヤングの実験が行われたことは歴史的事実であるし、エーテルの風が存在しないこともマイケルソン・モーリーの実験から推測できる結論である。 しかし、ヤングの実験でエーテルの風の有無を論じることは不可能である。 だから、ヤングの実験でエーテルの風が存在しないことが示唆されたかのような説明は「演出」ではなく捏造である。 同様に、二重スリット実験で「不思議な現象」とやらを論じることは不可能である。 だから、二重スリット実験で「不思議な現象」とやらが示唆されたかのような説明も「演出」ではなく捏造である。
あのサイトは、 他人の実験・仮説に文句を言ってるだけで 正しい結論を導いているわけでもない。
当サイトでは、Dr.Quantumの「仮説」は間違いだと指摘しているが、「他人の実験」には一切文句を言っていない。 「他人の実験」結果を捏造しているのはDr.Quantumであり、当サイトではそれを指摘している。 また、「正しい結論」は二重スリット実験の真相で説明している。
物理学者でもない「狭い知識」で反論しても意味ないだろ。
私はあの現象を説明できる仮説も作れないので謙虚にしています(笑)
「二重スリット実験を批判してる」などと「物理学者でもない『狭い知識』で反論」しているようでは到底「謙虚にしています」とは言えない。
「観測しても、波長はずれるが広がった波のまま」?
Dr.Quantumによるデタラメな解説のコメント欄に意味不明のことが書いてあった。
『節操のないサイト』様を見てきましたが、そこでの説明にも誤りがあると思います。 そこでは、「スリットを通る量子を観測しても、波長がずれるだけで二本線にはならない」とされてるのですけども。 観測すると、広がった波→粒子へと収縮するので、二本線になると思います。 「観測しても、波長はずれるが広がった波のまま」という勘違いをされているのではないでしょうか。
「波長がずれるだけで二本線にはならない」「波長はずれるが広がった波のまま」とは一体どこに書いてあるのだろうか? 確かに、Dr.Quantumの「観測」に関する幾つかの間違いを指摘している。 しかし、「波長がずれる」と「二本線になる」は全く別の事項として分けて説明している。 また、「観測すると、広がった波→粒子へと収縮」するかどうかは諸説あるため、少なくともDr.Quantumによる二重スリット実験とんでも解説においては、観測時に「広がった波のまま」かどうかについては一切言及していない。 「観測すると、広がった波→粒子へと収縮」が発生しようがしまいが「二本線になる」かどうかには全く影響しないので、観測時に「広がった波のまま」かどうかについて言及する必要もない。 それなのに、どうして、全く別の話が合体されてしまうのだろう。
おそらく、この人は「広がった波→粒子へと収縮」した後は波としての性質を示さないと勘違いをされているのではないだろうか。 しかし、それでは宇宙が始まって以来一度も「観測」されていない電子や光子を用いなければ、二重スリット実験等の結果が説明できない。 だが、実際のところ、そのような未「観測」電子などほとんど存在しないだろう(ただし、未「観測」光子は容易に作り出せる)。 という矛盾を回避するには、「広がった波→粒子へと収縮」した後も波としての性質を示す必要があるのである。
測定機器が測定対象と物理的相互作用を起こしていない時に粒子性を示すかどうかは定かではないが、測定に関わらず量子が常に波動性を示すことは疑いの余地がない。 だから、たとえ、測定によって一時的に粒子状に凝集したとしても、ハイゼンベルクが論文「量子論的運動学および力学の直観的内容について」で指摘した通り、その後は凝集した波は時間とともに広がってしまうのである。 言うまでもなく、「自分が見られていることに気づいた」ことによって粒子状の凝集状態を持続し続けることなどあり得ない。
尚、スリット通過時点で「広がった波→粒子へと収縮」するかどうかと経路特定は別の問題である。 マクロの物質と相互作用を起こす測定方法を用いない限り、射影仮説は適用できず、その経路特定時点では「広がった波→粒子へと収縮」することはない。
ベストアンサー(笑)
間違っていると主張している人の意見は以下のようです。
●1つの電子が2つのスリットをすり抜けたとしても、それで波としての性質になるわけじゃない。
電子が互いに交差して、影響を与えないと波にならないので。1つの電子が2つのスリットをくぐり抜けたとしても、何の説明にもならないということ。
波という性質は、力と力が影響し合って交錯してできるものなので別に2重のスリットを1つの電子が通り抜けても意味がない。
何を言っているのか意味不明である。
- 「電子が互いに交差して、影響を与えないと波にならない」?
- 「波という性質は、力と力が影響し合って交錯してできるもの」?
この方の波についての物理学的理解が全く足りていない。 当然、この方は波動性と粒子性の二重性も正しく理解していない。 正しく言い換えると、次の通りとなる。
- 空間を広がる「波という性質」がないと、「互いに交差」(正しくは「交錯」)することがないので、干渉縞は生じない。
交錯することによって波ができるのではなく、波によって交錯が発生するのである。 そして、交錯が発生することによって、干渉縞を作る条件の1つを満足する。
この方は、物理が不得意なのに、どうして、物理学の質問に答えられると思ったのだろう。
話の通じない人
まずページの最後の方から。
http://taste.sakura.ne.jp/static/farm/science/double_slit_experiment_terrible1.html
「節操のないサイト」Dr.Quantumによる二重スリット実験トンデモ解説
これはかならず読んでほしい。
というのも、多くの方が動画の視聴のみで量子力学を知った気になってしまうけれど、
このサイトではその動画のどこが間違いであるかという解説をしてくれています。
他にも、科学的に間違っている知識を、
何が間違っているのか解説してくれているので、
めちゃありがたいサイトですね。
ふむふむ…
量子力学で超有名な実験を紹介します。
「二重スリット実験」
下で紹介するDr.Quantum(おじいさんの名前)の動画は、
説明があいまいで明らかな間違いがありますが、
視覚的に分かりやすいし、量子力学の面白さが分かります
5分程度で見れます。
※ただし、やはり間違いがある点には注意(後ほど解説します)
はぁ?
Dr.Quantumによる二重スリット実験トンデモ解説には、「Dr.Quantumの説明は結果に致命的な影響を及ぼす核心部分の事実が全て嘘」「そのような説明は、量子力学のどの理論(科学の必須条件を満足するものに限る)とも整合しないし、実験結果とも一致しない」「Dr.Quantumが説明した不可思議なことのほぼ全ては、量子力学の標準理論に適合しない」「量子力学の不可思議さを真面目に勉強したいのであれば、参考にはしない方が良い」「疑似科学の流布に加担することは、あまり好ましい行動ではない」と明言している。 それが本当に「このサイトではその動画のどこが間違いであるかという解説をしてくれています」「他にも、科学的に間違っている知識を、何が間違っているのか解説してくれているので、めちゃありがたい」のであれば、「Dr.Quantum(おじいさんの名前)の動画」は「間違いがある」のではなく何もかもが間違っていることが分かるはずである。 であれば、「Dr.Quantum(おじいさんの名前)の動画」は「視覚的に分かりやすいし、量子力学の面白さが分かります」などと言えるはずがない。
Dr.Quantumによる二重スリット実験トンデモ解説が間違っていると主張したうえで、このようなことを書いているなら、主張内容が正しいかどうかは別として内容に矛盾はない。 しかし、「Dr.Quantumによる二重スリット実験トンデモ解説」の説明が「めちゃありがたい」としておいて、このようなことを書くのでは、「Dr.Quantumによる二重スリット実験トンデモ解説」の説明を受け入れているのかいないのかサッパリわからない。 書いてあることがちゃんと読める人なら、この矛盾に気づくだろう。
私が一番最初に訪れたサイト様。
「哲学的な何か、あと科学とか」の、あと科学とか の量子力学メニュー。
↑
飲茶という方が書いています。
このブログから本も出してるみたい。SNSもやっているそう。
ブログには式がなく、ポップに話を進めてくれるので読みやすく面白い。
量子力学の面白さが伝わる内容になっている。
哲学メニューも面白い。
入門に最適ですね
※一部間違いが指摘されていますが、とにかく読みやすいので最初に読んでも問題ありません。間違いはそのあと考えれば大丈夫。
「哲学的な何か、あと科学とか」についてもDr.Quantumによる二重スリット実験トンデモ解説と同じサイトの当ページで「自明な論理矛盾で誤った結論を導いている典型例」「肯定(しているつもり)派としては最大級のトンデモ」「殆どが自明な論理矛盾であるので、ちょっと思考力のある人なら簡単に間違いを見抜ける」「このサイトの間違いを真に受ける人はトンデモの素養がある」と指摘している。 そして、根本的に科学を誤解しているし、哲学の説明も詭弁だらけである。 それが本当に「このサイトではその動画のどこが間違いであるかという解説をしてくれています」「他にも、科学的に間違っている知識を、何が間違っているのか解説してくれているので、めちゃありがたい」のであれば、「哲学的な何か、あと科学とか」の「間違い」は「一部」だけではなく何もかもが間違っていることが分かるはずである。 「哲学的な何か、あと科学とか」のような詭弁は有害なだけであって「入門に最適」なわけがない。 それは正しい理解を著しく妨げるのであり、「そのあと考えれば大丈夫」では全くない。 そのことは、「哲学的な何か、あと科学とか」の詭弁を真に受けているこの方自身が図らずも立証している。
「宇宙の謎を哲学的に深く考察しているサイト」
↑
私が2番目に訪れたサイト様。
一番読み込んでいるサイトです。深い。
特にシミュレーション仮説については、自分の好きなジャンルでもあり納得できるところまで深堀りされているのでオススメできると思います。
これについては当ページでは具体的な指摘はしていないのだが、両横綱ほど酷くはないものの、内容に間違いがあり、かつ、説明の仕方にも問題があり、入門には全く適さない。
「Open ブログ」の量子論のトンデモ
「量子論/量子力学 …その最前線」
↑
あまり読み込めませんでしたが紹介します。
南堂九史という方が書いています。
Openブログの物量が凄いですね。多ジャンルを攻めてます
ただ、この方の名前で検索するとトンデモ記事が多いと言われています。
私としては、量子力学に関しては難しすぎるので、いろいろ模索しつつも間違いがあっても仕方ないのかなぁと思います。
間違い自体は仕方がないですが、読む側はそれが間違っている可能性も考えながら読まなければいけないので、本当に量子力学は難しいなと思うわけです。(当ブログも同様です)
南堂氏の「Open ブログ」等についてもDr.Quantumによる二重スリット実験トンデモ解説と同じサイトの当ページで「否定派トンデモの横綱」と指摘している。 それが本当に「このサイトではその動画のどこが間違いであるかという解説をしてくれています」「他にも、科学的に間違っている知識を、何が間違っているのか解説してくれているので、めちゃありがたい」のであれば、「Open ブログ」等が単に「間違いがあ」るのではなく間違いだらけだと分かるはずである。
また、南堂氏の「Open ブログ」等の間違いは、「量子力学に関しては難しすぎる」からではなく、「伝聞に疑問がある時に、間違った伝聞を聞いた可能性を考慮せずに、『標準理論が間違っている』と安易に断定すること」だとこのページで指摘している。 そうした極めて不適切な姿勢は「仕方ない」で片付けられる問題ではない。
南堂氏の「Open ブログ」等は「トンデモ記事が多い」というよりはトンデモしかないと言った方が正しい。 ただし、適当に出鱈目なことを言っているだけなので、たまに正解を言い当てることもある。 言うまでもなく、二者択一でどちらかが正しい場合は当てずっぽうでも50%の確率で当たるのだから、たまに正解を言い当てる程度のことは誰にでもできることである。
「二重スリット実験を巡るアインシュタイン/ボーア論争」
これは真っ当なページであるが、素人相手の説明としては足りない部分が多く、素人が読んで意味がわかるような代物ではない。
おまけ
疑似科学を批判する疑似科学にもトンデモ事例を記載した。
- このページの参照元
科学 疑似科学を批判する疑似科学 コペンハーゲン解釈トンデモ解説 二重スリット実験の真相 二重スリット実験(疑似科学からの脱洗脳) Dr.Quantumによる二重スリット実験トンデモ解説 Hotta解釈 多世界解釈トンデモ解説 科学への無理解 波動関数トンデモ解説
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