コペンハーゲン解釈トンデモ解説

最初に 

このページはコペンハーゲン解釈に対して、科学的に明らかに誤ったトンデモ解説を紹介するものである。

トンデモ事例 

Masahiro Hotta氏 

コペンハーゲン解釈に「観測問題」はそもそも存在しなかったのです。 それが現在の理解です。 観測問題は黒歴史として葬り去られ、今では数学的にも整備された量子測定理論が、世界的な研究潮流の1つになっています。

2019年11月22日午前7:42(Masahiro Hotta) - twitter

確かに、量子測定理論を導入すれば「コペンハーゲン解釈に『観測問題』はそもそも存在しなかった」と言っても過言ではない。 しかし、それはHeisenberg cutの功績であって、Hotta解釈の功績ではない。 Hotta解釈では、量子力学から「観測問題」を追い出しているが、それは単に古典力学に皺寄せしたに過ぎない。

シュレ猫のような対象系の異なる歴史の状態の重ね合わせは、普通のコペンハーゲン解釈にも自然に現れています。

2019年11月22日午前7:42(Masahiro Hotta) - twitter

「量子測定理論」ではHeisenberg cutにより巨視的な「シュレ猫のような対象系の異なる歴史の状態の重ね合わせ」は存在しない。 だからこそ、「コペンハーゲン解釈に『観測問題』はそもそも存在しなかった」と言えるのである。 Masahiro Hotta氏は「量子測定理論」を正しく理解していないように思われる。 確かに、Hotta解釈では「シュレ猫のような対象系の異なる歴史の状態の重ね合わせ」が存在する。 しかし、それはHotta解釈独自の考え方であり、コペンハーゲン解釈ではない。

以下も参考に。

重ねあわせ 

「コペンハーゲン解釈はシュレーディンガーの猫の生死等の『重ね合わせ』の概念を用いる解釈」とする説明は正しくない。 コペンハーゲン解釈において、『重ね合わせ』は、数式に用いるだけであって、その正体については言及しない。 『重ね合わせ』に相当する現象が現実に起きているのかどうかは、不問としている。

波動関数の正体 

「波動関数は存在しない」とする説明も正しくない。 「波動関数を粒子の誘導場(Führungsfeld)と解釈」することは、何らの“実在”性を否定することにはならない。

Bornによる一番初めのφ関数の確率解釈を要約すれば次のように言うことができる. すなわち,|φ|2dτは体積要素dτの内部にその粒子を見出すことの確率密度の尺度を与えるが,その際粒子は各瞬間にあるきまった位置とあるきまった運動量の両者をもっている一つの質点として古典的な意味で考えられている. つまり, Schrödingerの見解とは対照的に,φは物理系を表すものでもなければ,またその物理的属性を表わすものでもなく,もっぱら後者についてのわれわれの知識を表わすにすぎない.


こうした数々の成功にもかかわらず,Bornの最初の解釈は,電子の回折のような回折現象の説明に適用された場合には惨憺たる失敗に終わることが明らかになった. たとえば,2重スリットの実験では,Bornの最初の解釈の意味するところによれば,両方のスリットを開いたままでスリットの背後の記録用のスクリーン上で感光して黒くなるところは,一方のスリットだけを開いたときに別々に得られる2種類の個々の黒点の重ね合せになるはずだということになる. 実験による事実としては,両方のスリットを開いたままにした時の回折パターン中には全く黒くならない領域が存在し,しかもその同じ領域は一方のスリットだけが開いている場合には黒く濃くなっている,ということになる. この実験事実はまさしくBornの最初の言い方による確率解釈への反証になっている. しかも,この2重スリットの実験は輻射の強度を減少していって,装置全体を一時に通過する粒子(電子,光子等)が1個だけという強度の強さででも実行可能である. そうである以上,数学的な解析から,明らかにそれぞれの粒子に付随しているφ-波は自分自身と干渉しており,この数学的な干渉はスクリーン上でのそれらの粒子の物理的分布によって現実化されている,ということになる. したがって,このφ関数なるものは,もしもそれが古典的意味での粒子に関して言われるものであるとするならば,物理的に実在するあるものでなければならず,単にわれわれの知識の一つの表現に過ぎないものではないはずである. しかし,そうだとすれば先に挙げた五つの困難によってあらゆる解決への試みは打ちくだかれる.

事実、HeisenbergはBornのアイディアをすぐさま受け入れたものの,これらのφ-波がSchrödinger方程式に従って時間と共に発展しかつ空間中を伝搬していくという事実を考えれば,それらを単に一つの数学的仮構とみなすよりはむしろそれらに何らかの種類の物理的実在性を付与することが必要であると考えた. 後年になってHeisenbergの記したところによれば,当時の彼はこういった確率の波を,“Atistorelesの哲学におけるδύναμις[可能性]の概念-後のラテン語の訳語によればpotentiaの概念-の定量的定式化”として理解していたという. Heisenbergはつづけていう“それは,事象は決して専断的なやり方で決定されるのではなく,ある事象が生起する確率ないしは‘傾向’がある種の実在性をもつという考え方である. 物質という厳然たる実在性とアイディアないしはイメージという知的な実在性の中央に実在のある種の中間的な層を考えるというこの考え方は,Atistoreles哲学において決定的な役割を演じる. 現代の量子論においてこの概念は新しい形態をとる:それは定量的には確率として定式化され,数学的に表現可能な自然法則に従うのである.”

「量子力学の哲学 上」(ISBN-10:4314004029,ISBN-13:978-4314004022,著:マックスヤンマー,訳:井上健)P.54-55

そもそも、波動関数は実在するのか?という問いには意味がない。 そもそも、「関数が実在する」という言葉の意味が不明確で、何を問いたいのか明確でない。 問いとして意味があることは、波動関数が何を記述しているかであり、記述対象の現象が実際に起きているかどうかである。 例えば、「波動関数は複素関数だから実在しない」という言い回しがあるが、それは全く意味のない言い回しである。 問うべきことは、何を記述しようとして複素形式を採用したのかである。

波動関数は、実験結果と辻褄の合うように立てた数式である。 よって、波動関数の記述対象の現象は現実に存在する。 では、波動関数が示唆するような空間に広がった波が現実に存在するのかと言えば、その答えは分からないとしか言えない。 コペンハーゲン解釈では、波動関数に記述対象の正体は考えないだけであり、波動関数の記述対象の正体の存在を否定しているわけではない。 正体があるのかないのか、あるとすればどんな姿か、について言及しないのであって、何が正しいかの結論を述べることはできない。

何と言うかアレ 

量子力学の各種実験結果は、粒子が空間的に一点に存在することを示している(厳密には位置だけでなく運動量についても言及しないといけないが、理解し易いように敢えて位置に絞って説明する)。 同時に、空間的に広がりを持つ(あるいは、かつて広がりを持っていた)ことも示している。 そして、いつどのようにして広がりを失ったかについては分からない。 何故なら、比較対象として観測前の状態を得ることが原理的に不可能だからである。 そこで、観測前に波動関数に従った空間的広がりがあったことと、観測時点では一点に収束していること、収束の確率が確率解釈に依存することの3つの実験事実を合意事項として採用する解釈として、コペンハーゲン解釈が生まれた。 尚、確率解釈は、波動関数から粒子の存在確率が求められることを示しているだけで、決して、波動関数が実在する波であることを否定しているわけではない。

Wikipedia:コペンハーゲン解釈(2008年12月22日(月)07:47の版)


もう一つの間違いサイト(ページ)は、Wikipedia の「コペンハーゲン解釈」の項だ。

そもそも、初心者が間違えても、Wikipediaあたりがまともな解説をしていれば、あまり問題はないはずだ。 しかるに、Wikipedia自体が、現時点(2009-01-12)では嘘八百を書いている。次のように。

「コペンハーゲン解釈では、量子は空間的に広がりを持つ」

バカ言ってはいけない。

◆ 量子論のトンデモ - Openブログ

当時のWikipediaのコペンハーゲン解釈の版を見れば誰が馬鹿言ってるのかは明らかだろう。

  • 主語の書き替え(「量子力学の各種実験結果」→「量子」)
  • 記載事項の無視
    • 「粒子が空間的に一点に存在することを示している」
    • 「同時に」
    • 「あるいは、かつて」
    • 「広がりを失った」

Wikipediaには波動性と粒子性の二重性が書かれている。 それを彼は、粒子性のない波動性についての記述にすり替えている。

「コペンハーゲン解釈では、量子は空間的に広がりを持つ」ということはない。 逆に、「空間的に広がりをまったくもたない」のだ。 それが「局在する」という意味であり、「粒子である」という意味だ。

そして、「粒子である」からこそ、「少しずつ稀薄に存在する」(物が稀薄なのではなく、存在性が稀薄である)という意味の原理が採用される。 それが「重ね合わせ」の原理だ。

・局在するものが、稀薄に存在する。(粒子の重ね合わせ)

・稀薄に遍在するものが、まさしく存在する。(波である)

この二つは、正反対のことだ。 なのに、Wikipedia は、この双方を混同している。 量子の局在説を取るコペンハーゲン解釈を、量子の遍在説を取るかのごとく記述している。

こういうふうに、Wikipedia でさえ、事実とは正反対のデタラメを書いているのだ。

( ※ 「空間的に広がりをもつ」という言葉に主語を付けるとしたら、「量子」や「粒子」ではなくて、「存在性の分布」である。 比喩的に言おう。 人間は一箇所に局在するが、人間の存在性の分布は広い領域に渡る。 このように、存在性は、広い領域に渡ることが可能だ。 しかし、だからといって、一人の人間が「空間的に広がりをもつ」わけではない。 …… Wikipedia は、ここを勘違いしている。 つまり、「一個の量子」と「存在性の分布」とを、勘違いしている。 それというのも「重ね合わせとは何か」を、ちゃんと理解できていないからだ。 おおかたの物理学者の理解なんて、この程度のものである。)

◆量子論のトンデモ - Openブログ

量子を「空間的に広がりをまったくもたない」「量子の局在説を取る」(=波動性のない)「粒子である」としているのは、コペンハーゲン解釈ではなく、彼の独自解釈である。 コペンハーゲン解釈は波動性と粒子性の二重性を否定していない。

「おおかたの物理学者の理解なんて、この程度のもの」は、お決まりの彼の決め台詞の一種である。 これは、相間な素人が本職の物理学者に対して かような簡単なことも理解してない 本物の色物物理学者たち - 谷甲州黙認FC・青年人外協力隊 と言うのと変わらない。 どうして「おおかたの物理学者」の方が間違っていると断定できるのか不思議でならない。

そもそも、コペンハーゲン解釈とは「おおかたの物理学者の理解」のことを指しているはずである。 よって、「おおかたの物理学者の理解」通りならWikipediaは間違っていない。 「おおかたの物理学者」が「ちゃんと理解できていない」彼独自の解釈が、「おおかたの物理学者」から○○解釈なんて名前をつけて呼んでもらえるはずがなかろう。

要するに、Wikipediaみたいに、単に「空間的に広がりをもつ」という述語表現を取るだけではダメなのだ。 「何が」という主語表現が必要である。 そして、その主語は、「量子は」というだけでは曖昧すぎて用をなさない。 粒子であるか否かを明示する必要がある。 そして、「粒子では矛盾するから、粒子ではない」と明言する必要がある。

◆コペンハーゲン解釈の破綻 - Openブログ

一点に存在する性質が粒子性で、空間的に広がりを持つ性質が波動性であることは、一般には、常識である。 それゆえに、空間的存在範囲に言及するならば、それが、粒子であるかどうかは言わずとも常識である。 ただし、「粒子として空間的に広がりを持つ」などという頓珍漢なことを言わない限り。 そして、「粒子では矛盾するから、粒子ではない」と言うなら、初めから頓珍漢なことを言っている自覚があるはずである。 それなのに、どうして、最初の段階で粒子と波の性質を取り違えていることに気付かないのか不思議である。

コペンハーゲン解釈とは、何か?

これについては、次の説明がなされることもある。

「観測によって波動関数が収束するという解釈」

しかし、これは本質的なことではない。 副次的なことだ。 なぜか? その前の「収束していない状態」というのが何かが、説明されていないからだ。


だから、「コペンハーゲン解釈とは何か?」という質問には、次のように答えることができる。

「状態が決定される前を『重ね合わせ』という概念で示す解釈」

ここでは、「重ね合わせ」という概念が本質的だ。 だから、次のようにも言える。

「コペンハーゲン解釈とは、『重ね合わせ』という概念を用いる解釈だ」


ところが、コペンハーゲン解釈では、「特定の1匹の猫についても言える」と考える。 そして、こう言う。

「その猫は、半分生きて、半分死んでいる」

つまり、「二つの状態の重ね合わせにある」と。 ──これがコペンハーゲン解釈だ。

◆コペンハーゲン解釈とは - Openブログ

コペンハーゲン解釈は「収束していない状態」について何も説明しない。 式は提示されるが、それがマクロ現実的に持つ意味は説明されない。 よって、コペンハーゲン解釈は「その猫は、半分生きて、半分死んでいる」とは結論付けない。 コペンハーゲン解釈では、計算上は「その猫は、半分生きて、半分死んでいる」と計算をするが、実際にどうなっているかは問わない。 実験で確認できないことについて確定的なことを言わないのがコペンハーゲン解釈なのである。

つまり、「観測」という用語の意味が、あまりにも主観的すぎて、客観性をもたない。 これでは客観性があるという科学の位置を占めることができない。 (そもそも「意識」すら関係するから、眠っていた人は「観測はしていなかったから事象は決まらない」と主張するかもしれない。 こうなると根源的に狂ってしまう。)

結局、コペンハーゲン解釈においては、「観測」というものが客観的に決まらない。 「観測」といものが主観的に多義多様になる。 こうなると、これはもはや「科学」ではない。 むしろ一種の「印象」にすぎない。 そして、印象によって物事を語るのは、「科学」というよりは「文学」なのである。

◆コペンハーゲン解釈の破綻 - Openブログ

量子力学的な「観測」とはマクロ系との干渉を指すのであって、知性ある存在の意識が現象を認識することではない。 コペンハーゲン解釈では、マクロ系との干渉とは定義されていないかも知れないが、知性ある存在の意識が現象を認識することだとは定義されていない。 よって、量子力学でもコペンハーゲン解釈でも「観測者ごとに、個別の事情がある」ことは測定結果に影響を与えない。

「観測」という用語の意味を主観的に解釈しているのは彼である。 「観測」という言葉の「印象」よって物事を語っているのは彼である。 つまり、「科学的な理論ではない」のは彼の解釈である。

では、なぜ、コペンハーゲン解釈は、この両者を混同しているか? それは、コペンハーゲン解釈には、そもそも「波 → 粒子」という転換がある、という発想がないからだ。

コペンハーゲン解釈では、「量子は常に粒子」という発想がある。


コペンハーゲン解釈が駄目なわけの核心は、次の点にある。

「波動関数が収縮する、と考える」

◆コペンハーゲン解釈の破綻 - Openブログ

コペンハーゲン解釈では量子は常に波…と言う人間はいくらでもいるだろう。 また、コペンハーゲン解釈では測定に伴って波が粒子に変わると言う人間も少なくはない。 しかし、「コペンハーゲン解釈では、『量子は常に粒子』という発想がある」と言う人間は珍しい。 「量子は常に粒子」なら「波動関数が収縮する」とは何ぞやと問いつめたい。 彼はコペンハーゲン解釈と二重解の理論を取り違えているのではないだろうか。 言うまでもなく、二重解の理論はコペンハーゲン解釈への反証理論である。

量子力学の各種実験結果は、粒子が空間的に一点に存在することを示している(厳密には位置だけでなく運動量についても言及しないといけないが、理解し易いように敢えて位置に絞って説明する)。 同時に、空間的に広がりを持つ(あるいは、かつて広がりを持っていた)ことも示している。 そして、いつどのようにして広がりを失ったかについては分からない。

Wikipedia:コペンハーゲン解釈(2008年12月22日(月)07:47の版)


Wikipedia の「コペンハーゲン解釈」には、次の記述がある。(現時点で)

(粒子は)空間的に広がりを持つ(あるいは、かつて広がりを持っていた)ことも示している。 そして、いつどのようにして広がりを失ったかについては分からない。

これは、間違いではないが、記述としては不十分である。 なぜなら、最も肝心な次の一点が記述されていないからだ。

「量子は粒子として空間的に広がりを持つ」

しかしながら、この言葉の意味するところは、はなはだ曖昧である。

・ 粒子として無数に存在する。(粒子数が無限になる)

・ 粒子は1個だが、それぞれが稀薄化する。(幽霊? 不自然。)

・ 粒子が仮想的に微小化する。(微分的な断片化。モデルが不明。)

このうち、初めの二つは駄目だ。

1番目は、「エネルギーが無限になる」という矛盾が生じるので、駄目。

2番目は、「存在の稀薄化」が非科学。

3番目は、理屈としては成立するが、モデルが不明。 ……ここで、「仮想的に微小化されたものは、波だ」と解釈すれば、問題はなくなる。 ただし、そうすると、物事の発想が根本から崩壊する。 なぜならもはや「量子は粒子だ」という最初の前提が成立しなくなるからだ。

そこで、最初の前提から考え直して、新たに構築したモデルが、「超球理論」である。

◆コペンハーゲン解釈の破綻 - Openブログ

自分が披露した珍説を否定してみせて別の珍説こそが真実だと自画自賛するのでは、見事な自作自演である。 「粒子として空間的に広がりを持つ」では、粒子性と波動性の認識が一般的な常識とは真逆である。 一体、何処からそんな変な解釈が出てきたのだろうか。 ところで、「粒子として空間的に広がりを持つ」のならば、先程の「空間的に広がりをまったくもたない」は何が広がりを持たないのだろうか。 彼の言いたいことがサッパリ理解できない。

尚、南堂氏が「玉突きモデル」「超球理論」と呼ぶ理論は、箸にも棒にも掛からない代物である。

  • 科学の何たるかを理解していない
  • 実験結果と一致しない
  • 実験結果と矛盾しない数式が提示できる見込みがない

「玉突きモデル」「超球理論」の説明を読むと、南堂氏が科学は原理を説明するものだと思っていることが見て取れる。 しかし、この理解がそもそも誤っている。 科学とは、法則を導く手段であって、原理は法則を導いたり法則を応用する段階で必要になることもあるに過ぎない。 そして、量子力学において標準理論が支持されているのは、定量的理由からであって定性的理由ではないのだから、定性的な優位性をいくらアピールしても意味がない。 というか、標準理論に否定的な物理学者たちが、定性的な優位性をアピールした様々な理論(隠れた変数理論)をとっくの昔に提唱している。 それらの多くは二重解の理論のように定量的に実験結果と矛盾しない(標準理論と数学的に等価である)ことを示している。 だから、今更、定量的な数式を示さずに定性的な優位性をアピールするだけの空想理論を提示しても、それらの代替理論の足下にも及ばない。

また、「玉突きモデル」「超球理論」は、定性的にも実験結果と全く一致しない。 「玉突きモデル」「超球理論」では、粒子の運動は一定角度内に広がって伝搬することになっている。 しかし、そうすると、測定結果も空間的な広がりを持つことになり、1点に凝集した実際の実験結果と一致しない。 また、一定角度内に広がって伝搬すれば、運動量や運動エネルギーも距離に応じて減衰するはずであるが、それも実際の実験結果と一致しない。 さらに、「玉突きモデル」「超球理論」では、二重スリット実験では、力点が2つに増えるだけなので、干渉縞が説明できない。 このように「玉突きモデル」「超球理論」は、定性的にも実際の実験結果と全く一致しない。 いくつかの追加の仮定を置けば、定性的に実際の実験結果と一致させることが可能かもしれないが、その場合は非常に歪な理論となる。 それでは原理説明が奇怪なものとなるので、「玉突きモデル」「超球理論」を支持すべき理由がなくなってしまう。

南堂氏は数式の提示を拒否しているが、仮に、南堂氏自身が数式を提示していても、今説明した通り、それは実験結果と全く一致しないだろう。 仮に、「玉突きモデル」「超球理論」を定性的な辻褄が合うように修正しても、その理論の基づいて構築した数式が定量的に実験結果に一致する確率は天文学的に低い。 そこから、更に、定量的にも実験結果に一致するよう理論の修正をしたとしても、原理説明が益々奇怪なものとなるので、「玉突きモデル」「超球理論」を支持すべき理由がなくなってしまう。

期待の新星 

アマチュア量子力学の世界において、飲茶さん、南堂さんに匹敵する擬似科学信奉者に育ってくれそうな人材を発掘した。 この方の凄い所は、情報をいろいろ集めながら、その真偽を検証したり、その中身を理解することなく、物を言っている所だろう。

で、この「確率」でしか見いだせないという考え方に、決定論の立場にたつアインシュタインやボームは反発したようです。 「隠れた変数」があるはずだと。 しかし、最後の反論で出したEPRパラドックスは結局、アスペの実験で否定されてしまいましたけどね (ネット見てると否定されたというのに納得されていない方もいらっしゃるようですが)

私自身は、今のところはコペンハーゲン解釈というのが一番素直な解釈だと考えています。 勿論、

・なぜ波束の収束が起きるのか、それがいつ起きるのか

・Ψという波動関数自体は一体全体何者なのか

について言及をさけているということへの不満はあります。 しかしながら、そこには証明もされない余計な仮定はとりあえず入っていません。

パイロット波理論は「なぜ粒子を考えるのか」についての明確な根拠が示されていません。 私に言わせれば「粒子」という「もの」に拘っているだけとしか思えず、それゆえ支持できないのです。 前の項でも言いましたが、「決定論」であらねばならない根拠はなく、単にアインシュタインらの思想的なものにすぎず、私には到底支持できる考え方ではないのです。 「隠された『変数』」などというあまりにも「数学的」発想も私には受け付けられません。

多世界解釈はその存在を知った最初は面白いとそれを専門に研究されている学者さんの啓蒙書を読んだのですが、 私が馬鹿なのか、どうもよく理解できず、大変失礼ながら、何か「空想」に科学的な衣をつけたものって感じがしてます。 量子コンピュータが証拠のようにされているのですが、何か、よくある「その理論だけで説明して他は考えなずにこれが証拠だとしている」例の一つのような気がしてならないのです。

ですから、説に優劣はつけられないという意見には同意できないんです。 実証されない脳内だけの仮定がどれだけ少ないかを判断基準にしてますから。

量子(6) - 現代科学へのいちゃもん

以上の文章から次の事項が読み取れる。

  • 「EPRパラドックス」の何が「アスペの実験で否定され」たか理解していない
  • 「なぜ粒子を考えるのか」と「余計な仮定」の区別がついていない
  • 「コペンハーゲン解釈」に「証明もされない余計な仮定」があることを把握していない
  • 「よく理解でき」ないことを安易に否定する

この方の書きぶりでは、あたかも、「アスペの実験」が隠れた変数理論を否定しているかのように見える。 しかし、「アスペの実験」は局所性と充足理由の法則の両立が困難であることを示しているだけであって、隠れた変数理論を否定するまでには至っていない。 つまり、局所性を捨てれば充足理由の法則を否定する必要はないので、非局所的隠れた変数理論は否定できない。

尚、この方は相対性理論を否定する相対性理論トンデモ解説をされている。 どうやら、この方は「最後の反論で出したEPRパラドックス」や「アスペの実験」と相対性理論の関係を全く理解しないまま、「最後の反論で出したEPRパラドックスは結局、アスペの実験で否定されてしまいました」と主張しているようである。 しかし、相対性理論が間違っていれば、「最後の反論で出したEPRパラドックス」は、パラドックスとして成立しないし、「アスペの実験で否定され」ることもない。 そうした前提事実を理解していないこの方が「最後の反論で出したEPRパラドックス」や「アスペの実験」を理解できるわけがない。

「なぜ粒子を考えるのか」は、量子力学の実験事実(例:二重スリット実験の真相における【実験事実A】)をそのまま採用しているだけであり、そこに「余計な仮定」は存在しない。 それは、隠れた変数理論特有のものですらない。 観測結果としての「『粒子』という『もの』に拘っている」ことは、量子力学分野の全ての科学的条件を満たす理論に当てはまることである。 ただし、量子力学の様々な研究成果に基づいて考察すれば、見かけだけの隠れた仮定ではないのかという議論は可能である。 しかし、そうした説明をすっ飛ばして「余計な仮定」と同列に扱うのであれば、それは疑似科学以外の何物でもない。

コペンハーゲン解釈」は、標準理論に基づいた解釈であるので、標準理論にある「証明もされない余計な仮定」は当然含んでいる。 ノイマンのNO-GO定理では隠れた変数理論が成立しないと結論付けたのだが、その結果、計算と測定結果の整合性が取れなくなってしまった。 その問題を解決するために、標準理論には射影仮説という「証明もされない余計な仮定」を置いている。 確かに、隠れた変数理論の否定さえしなければ、標準理論に「証明もされない余計な仮定」がないと言っても過言ではない。 しかし、標準理論が隠れた変数理論を否定してしまっている以上、「証明もされない余計な仮定」なしには成立しないのである。 もしも、実証に基づいた理論であるなら「それがいつ起きるのか」等「について言及」することが可能である。 何故なら、それは実証された内容について説明するだけに過ぎないのだから。 「実証されない脳内だけの仮定」に基づいているからこそ、「言及をさけ」ざるを得ないのである。

確かに、多世界解釈については、「量子コンピュータが証拠」とはならない。 しかし、多世界解釈の唯一にして最大の利点は概念的には確率と無縁になることだとされており、そのことを理解せずに「何か『空想』に科学的な衣をつけたものって感じ」という印象論で語るのは非科学的である。

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