疑似科学者列伝:武田邦彦
- 最初に
- 武田邦彦氏は専門外のど素人
- 武田邦彦氏の姿勢
- トンデモ語録
- たまに真っ当なことも言う
- 小ネタ
最初に
武田邦彦氏には次のような特徴がみられる。
- 基本的な科学的知識・理解がない
- 専門家を自称する原子力分野ですら素人同然
- 参照資料はつまみ食い
- 持論に都合の悪いデータは闇に葬り「未だに公表されない」と嘘をつく
- データは全てデタラメ
- 出典にないデータを捏造する
- 変動を隠すスケール操作も当たり前
- ウケると見れば何でも逆張り
- 有り得ない夢物語を語る
- たまに正しいことを言う時は、手垢まみれの二番煎じのみ
武田邦彦氏のトリックの手口は武田氏のトリックパターン類型化 - 環境問題補完計画で類型化されている。 このような人物の主張を真に受ける人はリテラシーがない。 武田邦彦氏は、言い訳ができるなら、次の件(後で詳細に説明)に言い訳してみると良い。
- 専門家が目の前に居る時と居ない時で主張内容が180度違うこと
- 専門家と話すときは「私はほとんど○○先生が正しいと思っています」
- 専門家の居ない所では「温暖化しない」とか、「人間のせいじゃない」
- 「太平洋を囲む陸地の気温」が上がってないように見せ掛けるためのスケール操作
- 「ハワイ、日本の南の香港、南鳥島、アンカレッジ、サンフランシスコの順に、グラフ」だけ横方向に拡大する
- 「ハワイ、日本の南の香港、南鳥島、アンカレッジ、サンフランシスコの順に、グラフ」だけ縦方向に縮小する
- 以上のトリックが発覚しないように「ハワイ、日本の南の香港、南鳥島、アンカレッジ、サンフランシスコの順に、グラフ」は月平均値を採用
- PETボトルリサイクルに関するデータ捏造等
- 「焼却を含ん」でいない「材料としてリサイクルしている量(再利用量)」が参照資料に明記されているのに「今に至っても」「『数字』を言う人はいない」と大嘘
- 武田邦彦氏の想像に基づいた変則的な計算で、かつ、不確かさの幅も無視した「推算」なのに、「出所:PETボトルリサイクル推進協議会」
- 次の前提では「タバコを吸うと肺がんの死亡率は10倍以上減る」という結論が導けなくなるので、「必要なデータ」である年齢調整死亡率をコッソリと消去
- 「タバコの害は継続的に20年ぐらい吸った人が、さらに20年ぐらい後に肺がんになる」
- 「ガンは年齢と共に増えるので、粗死亡率(その年に肺がんで死んだ人の数)ではなく、それを年齢調整した死亡率をとる」
- 「理研は『研究室に任せないで、理研の総力で詐欺をする』と決めた」が「理研の委員会自体がそう言っている。武田の推定ではない」とする大嘘
- 「透析に追いやる薬」「平均寿命が延びたから透析患者が激増しているというわけではありません」と大嘘
- 参照資料に記載されている患者平均年齢の推移を闇に葬った
- 参照資料に記載されている年齢階層別患者数推移を闇に葬った
- 荒唐無稽な夢物語の「地球を簡単に冷やす方法」
- 「200万平方キロメートル」に「『銀紙(ぎんがみ)』を敷く」手間や費用の「程度問題」
- 全地球規模で「海の深いところから水をくみ上げる」手間や費用の「程度問題」
武田邦彦氏は専門外のど素人
武田邦彦氏に限ったことではないが、疑似科学家は自身の専門外の内容を自信満々に主張している。
武田邦彦氏は学問が何であるかも理解していない
一般の経済の本に「お国の経済」が書かれているのは、それなりに理由があります。 個人の財布は、政府の金融政策や国際関係と密接に関係しているからです。 だから、どうしても経済の専門家は、つい「お国の経済」のことを書いてしまうのです。 ですが、本著はそれらの経済本とまったく違う内容となっています。
「個人の財布は、政府の金融政策や国際関係と密接に関係している」のは事実であるが、それは「経済の専門家は、つい『お国の経済』のことを書いてしまう」理由ではない。 そもそも、経済とは社会の生産活動を指す言葉であって「個人の財布」を指す言葉ではない。 経済学は、「個人の財布」について考えるツールとして使えるが、「個人の財布」について考える学問ではないのである。 だから、「一般の経済の本」に「個人の財布」のことが書かれていないのは当然のことである。 「真・経済入門」と題して主に「個人の財布」を書く方がおかしいのである。
まず、「日本政府」の財政状況ですが、「持っているお金(資産)」が、直接的なお金などで500兆円、土地などの固定資産が580兆円で、およそ1080兆円の資産があります。 森友学園報道のときに、繰り返しテレビで出てきた「国有地」などは政府が持っている資産のひとつです(「政府所有地」と言わずに伝統的に「国有地」と言っています)。
これに対して、政府の借金は主として「国債」で1040兆円です。 資産が1080兆円、借金が1040兆円ですから、わずかですが40兆円ほどのお金が余っていることになります。
政府の国債を持っているのはほとんどが銀行で、そのお金は国民の預金ですから、「国債を買ったのは国民」と言ってもよいでしょう。
現在の日本政府の財政状態は、家庭で言えば、「銀行に預けている預金や株が500万円、土地の資産が580万円、合計すると家の資産は1080万円。 借金は1040万円なので、いざというときには土地でも売ればなんとかなる」という状態です。
《図表1》の混合方式による計算結果を見ると、政府は520兆円の赤字、銀行は100兆円の黒字、企業は350兆円の赤字で計770兆円の赤字なのですが、個人(国民)では1130兆円ほどのお金が余っているので、合計では日本国は、差し引き360兆円の「純資産」を持っていることになります。 ここで言う「純資産」とは会計用語で、自分が100&権利を持っている土地とか銀行預金のようなもの(「自分のお金」の総額)です。
つまり、政府や企業は少し赤字だが、個人があり余るほどのお金を持っているので、日本国全体では「大きな黒字」であるということです。
細かいことは別にして、「政府が借金を抱えているのに、国民は財産が多い」というのをひと言で言えば、「政府の債権(国債)を、国民が買って持っている」ということです。 国民が買った国債(借金証文)のお金は、「政府が借りている」ものですから、「財産としては国民のもので、政府は、いつか国民に返さなければならないお金」であることは当然です。
もし「借りたお金を返さない」ということになると、それは、「詐欺、踏み倒し」行為になります。 そんなのはアウトローがやることなので、決してまともな人間のすることではありません。
「政府の借金」を「国の借金」と言い換え、政府が借りたお金をあたかも「国民が借りたお金」のように言い換え、「子供たちに一人あたり800万円のツケ」という表現をしたのです。 まさに、詐欺師、ペテン氏の仕業で、これが政治家や官僚、マスコミのトリックだったのです。
給料を2倍にするための真・経済入門(著:武田邦彦)P.18 給料を2倍にするための真・経済入門(著:武田邦彦)P.22 給料を2倍にするための真・経済入門(著:武田邦彦)P.23
武田邦彦氏の主張は次の点でおかしい。
- 返済後の政府活動を考慮しないで「いざというときには土地でも売ればなんとかなる」
- 前提条件が真逆のダブルスタンダード
- 国全体の赤字を個人が肩代わりする前提で、国民に莫大な損害が生じることは無視して、「日本国全体では『大きな黒字』」
- 国全体の赤字を個人が肩代わりしない前提で、国全体の負債の返済資金が不足することを無視して、「政府が借りている」ものは「財産としては国民のもの」
詳細は政府財政が危機的状況にある根拠にて説明している。
私たち科学者は、航空機を飛ばすにあたっては、十分な研究を積み、それらの経験を活かして航空機を飛ばすようにします。 ですから、事故は皆無とは言えませんが、それでも10回飛ばして1回墜落するなどということはあり得ません。
ところが、経済学者の予測は、「バブル崩壊」や「リーマンショック」など比較的内容が簡単なことでも、常に予測に失敗します。 現在の日本の安倍政権が打ち出した「アベノミクス」ですら「良いのか? 悪いのか?」-、経済学者の論評は真っ二つに分かれました。
そんなものを「学問」と呼ぶわけにはいきません。 だから私は「経済学はまだ学問にはなっていない」と言うのです。
「バブル崩壊」や「リーマンショック」が「比較的内容が簡単なこと」だと主張するのは、武田邦彦氏が無知だからである。 これら現象は、何億もの人の行動が積み重なった結果であるので、事前に予測することは極めて困難である。 航空機は、設計通りに正確に機体を製造すれば、機体特性もほぼ同じものが出来上がる。 しかし、経済現象では当時と全く同じ条件を揃えても、人を入れ替えるだけで全く違う結果を生み出す。 このような極めて多数の不定なパラメータが相互作用を及ぼす場合はカオス的要素が強くなるため、結果を予測することは極めて困難である。 例えば、自転車操業状態の個人経営者が多数いる状況を考えてもらいたい。 それらの多くが決済期限までにギリギリ資金調達に間に合わなければ、倒産が相次いで景気に大きな悪影響を及ぼす。 しかし、それらの多くがギリギリ資金調達に間に合えば、その時期における景気への悪影響は避けられる。 自転車操業状態の個人経営者が悉く不況期をギリギリ乗り切れば、結果として、少し景気が悪かったという程度で済む。 逆に、自転車操業状態の個人経営者が悉く失敗すれば、大恐慌に陥ることもあり得る。 連鎖倒産がいつ起きてもおかしくない状況だと予測はできても、連鎖倒産がいつ起きるかは予測不可能だ。 「バブル崩壊」「リーマンショック」のようなことが起きてもおかしくないという予想はできても、「バブル崩壊」「リーマンショック」が起きるという予想はできない。
似て非なる現象に、分子の運動が挙げられる。 分子の運動を1個1個シミュレーションすることは不可能に近い。 しかし、個々の分子に働く運動方程式は全て同じであり、同じ種類の分子であればパラメータも同一である。 そして、分子が非常に小さくて数も多いため、結果が平均化されやすくなって誤差が蓄積しにくく、カオス的要素はほとんど現れない。 また、実験室内で様々な条件下での実験を何度も繰り返すことができる。 よって、分子の運動を扱う場合は、分子数が一定数以上ある場合に限り、確率的な振る舞いとして理想気体の状態方程式などを求めることができる。
一方で、人間の行動原理は、個性があり、人によって全く違う。 人は、感情に引きづられる生き物なので、必ずしも、理性的判断や合理的判断を行わない。 そして、その傾向は人によって全く違う。 ほぼ完璧なまでに理性的判断や合理的判断が行える人もいれば、ほぼ完璧なまでに逆の判断をする人もいる。 ある物事では理性的判断や合理的判断が行える人も、別の物事では理性的判断や合理的判断が置き去りにされる。 そして、そうした判断に影響を与える物事が何かも人によって異なる。 さらには、同じ状況で常に同じ判断をするもいれば、毎回判断が変わる人もいる。 これらの不可解な人間の行動を正確に数式化することは、一人分でも極めて困難である。 だから、何億もの人の行動を正確に数式化することはほぼ不可能に近い。 加えて、経済現象は、現実に起きた現象しかデータに使えないため、限られた条件下でのデータしか取得できない。 しかも、再現実験が困難なため、同様の条件下での結果の変化の幅を測定することもできない。 ある経済現象について、特定の条件が揃って偶然起きた結果なのか、一般的な条件で起こるありふれた結果なのか、検証が困難である。
よって、経済現象は、理想気体の状態方程式のような法則を見いだすことが容易ではない。 しかし、以下のようなことを根気よく繰り返すことで、法則を限りなく真実に近づけることは可能である。
- 過去に起きた様々な現象を調べて、それに適合する数式を構築する
- 構築した数式から、未来を予測する
- 未来が来たら、その現象を観測し、予測値との差から数式を修正する
- 修正した数式から、さらに先の未来を予測する
- 同様に、数式を修正する
こうした繰り返しが足りていない理論は予測が不正確となるし、十分な繰り返しができている理論は予測が正確となる。 根気よく繰り返すことで真実に近づこうと努力することは、まさに「学問」そのものである。 武田邦彦氏は、それを理解できていないから、「経済学はまだ学問にはなっていない」と主張している。
学問には決してやってはいけないとされていることがあります。
第一に「データをしっかり整理して、データでは議論や反論がないように心がける」ということです。
武田邦彦氏は、学問云々以前に、まず、正しい日本語を学ぶべきであろう。 この文章構成では、「データをしっかり整理して、データでは議論や反論がないように心がける」ことが「決してやってはいけないとされていること」の一つという意味になる。 しかし、前後の文脈を見ると、武田邦彦氏は、「データをしっかり整理して、データでは議論や反論がないように心がける」ことをやるべきことと言いたいようだ。
口語では、こうした誤りもよくあることだろう。 しかし、書籍でこのような間違いはとても恥ずかしい。 一度でも、校正していれば、こんな基本的な日本語の間違いが残されるわけがない。
データというのは過去のことですから、正しく整理すれば議論や反論の余地はないのですが、本著で示したように「政府や資産の財政状況」ですらハッキリしていないのです。 これにより、経済が「学問」ではなく、「利害関係のある政治の世界」であることがわかります。
既に説明した通り、「『政府や資産の財政状況』ですらハッキリしていない」は武田邦彦氏の妄想の産物である。 そもそも、経済とは、政府が介入して操作する余地はあるが、基本的には市場の動きである。 だから、「政府や資産の財政状況」のデータ状況を元に「経済が『学問』ではなく、『利害関係のある政治の世界』である」では意味不明である。
これに対して、経済学では「過去のデータを使って未来を予測する」ということを多く行なっています。 経済は社会に大きな影響を受けるので、この前提が成り立つには「過去の社会と未来の社会が同一である」という証明をしなければなりません。 しかし、現在ではそれは行われていません。 したがって、学問的厳密性を欠くので、「予測は当然のごとく外れる」というわけです。
「過去のデータを使って未来を予測する」ことが否定されるなら、科学を含む多くの学問が成り立たない。 文学や芸術などを除き、実用系の学問の殆どは「過去のデータを使って未来を予測する」ことを目的としている。 例えば、科学法則は「過去のデータを使って」推定されたものであり、「未来を予測する」目的に使われる。
武田邦彦氏の言う「過去の社会と未来の社会が同一」とは、何のことを言っているのか。 過去と未来で同じ法則が成立することは、学問の大前提であり、それを証明したりはしない。 そして、「過去のデータを使って未来を予測する」上で、過去と未来のパラメータが同一である必要は全くない。 というか、過去と未来のパラメータが同一であれば、同じ結果にしかならないのだから、「データを使って」「予測する」必要はあるまい。 このように、どのような意味で解釈しようとも、「証明をしなければなりません」とはならない。 科学や他の「過去のデータを使って未来を予測する」学問でも「過去の社会と未来の社会が同一」の証明は為されていないのだから、当然、「同一」の証明の有無は、学問的厳密性とは全く関係がなく、「予測は当然のごとく外れる」とも全く関係ない。
理系が苦手な完全文系人間であれば、この辺りの勘違いは珍しくもない。 しかし、工学部の教授なのに、このような勘違いを堂々と書籍に書いて恥ずかしくないのだろうか。
第三に、学問にお金や地位がついてまわるとろくなことはないのですが、経済学者や経済の専門家は、何らかのかたちで「御用学者」になることを望み、自らの成果が政策に生きることを希望するようになります。 それは必然的にお金と関係ができるので、検討の過程が曖昧になります。
百歩譲って、「御用学者」になると「必然的にお金と関係ができるので、検討の過程が曖昧になります」が正しいと仮定しよう。 では、武田邦彦氏は次の2点について如何なる根拠を持っているのか。
- 「何らかのかたちで『御用学者』になることを望み、自らの成果が政策に生きることを希望する」が「経済学者や経済の専門家」の一部ではなく全体もしくは大部分の性質だとする根拠
- それが、他の学問には見られない特徴だとする根拠
どんな分野でも、「何らかのかたちで『御用学者』になることを望み、自らの成果が政策に生きることを希望する」者は一定数いるだろう。 仮に、「御用学者」になると「必然的にお金と関係ができるので、検討の過程が曖昧になります」としても、それが一部であれば大勢には影響を与えない。 武田邦彦氏の主張が成立するためには、「経済学者や経済の専門家」には大勢に影響するほど「御用学者」が多く、かつ、それが他の学問には見られない特徴でなければならない。 しかし、武田邦彦氏は、いずれの根拠も示していない。
そして第四に、経済学には「未来予測」が多いのですが、学問は基本的には未来予測を嫌います。 それは前提条件が変化するからに他なりません。 しかし、経済学の宿命的な役割のひとつが未来予測なので、どうしても多くの未来予測が生まれ、そのたびに学問から離れていくということになります。
既に説明した通り、実用系の学問の多くは基本的には未来予測を目的としている。 例えば、科学の「宿命的な役割」は未来予測であるが、「前提条件が変化」しても「多くの未来予測が生まれ」ており、「そのたびに学問から離れていく」ことは起きていない。
経済を語るのに、経済の専門用語をほとんど使わずに、著名な経済学者・ケインズや日本政府の経済政策にもほとんど触れず、財務省に遠慮せずにものを言うことができるのは、私が「経済の専門家以外の人」だからです。
「経済の専門用語をほとんど使わず」ではなく、「使えず」だろう。 「著名な経済学者・ケインズや日本政府の経済政策にもほとんど触れず」ではなく、「触れられず」だろう。 武田邦彦氏のこの主張は、何もわかってないアホだから何でも言えるという内容でしかない。 武田邦彦氏は、藤山寛美氏や坂田利夫氏に謝るべきだろう(笑)。
武田邦彦氏は熱伝導の基礎も理解していない
物理があまり得意ではない人に簡単に説明するが、空気と水では「熱を抱く力・・・比熱、もしくは熱容量」が3000倍も違う。 つまり1ccのわずかな水と3リットルの空気がほぼ同じ熱を抱くことができる。 だから、お風呂を沸かす(水の温度を上げる)と、風呂場の空気もあたたかくなる(ふたを開けておけば)ということになる。 地球はざっと言って、面積の3分の2が海で、海は4000メートル程度ある。 一方、空気は1万メートルほどあるけれど、上空は空気が薄い。 だからほぼ同じぐらいの厚みと言える。 そうなると、空気が10℃温まっても、それで海を温めようとすると、わずか0.003℃しか温度は上がらない。 実際には熱伝導の問題、熱対流の問題があり、すぐには分からないが、いずれにしてもこれだけ広大な海があって、それが温度変化のバッファー(変化しにくいような大きなもの)になっているのだから、容易に変化しないのではないかと考えるのが普通だ。 私が名古屋大学にいるときに専門家同士で地球温暖化の計算の検討をしたときに、発表者の方程式に入れる海洋の熱伝導、対流などがほとんど計算されていないことを指摘したことがある。
まず、最初に武田邦彦氏の誤りを正した正解を示しておく。 ただし、ここでは「空気と水では『熱を抱く力・・・比熱、もしくは熱容量』が3000倍も違う」については検証せずに正しいものと仮定する。
- 武田邦彦氏の妄想理論
- 空気が10℃温まっても、それで海を温めようとすると、わずか0.003℃しか水温は上がらない。
- 現実の物理理論に基づく解説
- 海の温度を変えずに空気だけを10℃温める熱量では、空気も海も、どちらも、わずか0.003℃しか温度は上がらない。空気を10℃温めたければ、海もほぼ10℃温める必要があり、そのためには、海の温度を変えずに空気だけを約3万℃温める場合に相当する熱量が必要となる。
事実、次のグラフの世界平均気温(陸域のみ)と世界平均水温を比較すれば、武田邦彦氏の妄想理論に相当する現象が起きていないことは明らかだろう。
武田邦彦氏は、熱力学の基本的法則すら知らないようである。 実測データがあるにも関わらず、そのデータには全く目もくれず、非現実的な妄想理論に基づいて、実測データと致命的に矛盾する結論を導くのは、武田邦彦氏の悪い癖である。
以下、武田邦彦氏の荒唐無稽な地球温暖化懐疑論にて詳細を解説する。
原子力の専門家を自称しているが…
武田邦彦氏は、旭化成工業でウラン濃縮等の研究開発をしていた人である。 資源材料工学の機能材料構造の専門らしいが、それ以外については完全に素人である。 武田邦彦氏は、原子力の専門を自称しているが、次のような本人の説明を見れば、原子力について何もわかっていないことがわかる。
広島、長崎は核分裂型であり、太陽は核融合型であるが、もしそれが地上で爆発したらどちらも同じである。 現実の爆弾としては水爆の方がさらに威力の大きいものを作れるので、悲惨である。
太陽表面の写真を見るとそのことがよく判る。 太陽の表面で1回核爆発が起きると最大で地球と同じぐらいの炎があがる。 上の写真で輪のようになっている炎が最大で地球の大きさと同じだ。
「太陽の表面」の反応が大きい理由には、核分裂と核融合の違いもあるが、恒星規模の反応であることの方が遥かに大きな要因である。 よって、人間の活動と恒星規模の自然現象というスケールが全く違うことを比較しても全く意味はない。
もっとも成層圏にオゾン層ができるまでは、太陽から出る放射線が直接地表に達して生物は海の中深くでしか生きていけなかった。 その後、今から10億年ほど前に成層圏にオゾン層ができて、太陽からの放射線や有害な紫外線をそこで止めることができるようになり、それで地球に生物が繁栄できるようになったのである。
オゾン層は、紫外線を吸収するが、放射線はほとんど吸収しない。 「太陽から出る放射線」を防いでいるのは、地磁気であって、オゾン層ではない。 詳しくは、ヴァン・アレン帯で検索してもらいたい。
つまり我々人類が使っているエネルギーと言うのは、太陽の光であれ石炭であれ石油であれ全部、太陽の光が元になっている。 太陽の光が元になっているということは原子力であるということだ。 つまりもっとはっきり言えば「この世の中には原子力しかエネルギーが無い」ということを意味している。
つまり原子力反対ということは、一切のエネルギーを使わないということであって現実的ではない。
「太陽の光が元になっている」ことと「原子力であるということ」は全く違う話である。 よって、「原子力反対ということ」は「一切のエネルギーを使わないということ」ではない。
なぜなら、現在の我々の生活というのは、自分の活動範囲で得られる太陽の光の1000倍ぐらいのエネルギーを使っているからだ。
もし人口が1000分の1になったり、原始的な生活をすれば別だが少しぐらい省エネルギーをしても、太陽の光で生活できるという訳ではない。 だから、太陽電池を使うのは悪くないが、補助的にしか役に立たないということははっきりしている。
「自分の活動範囲」とは具体的にどれだけの範囲を示しているのか明確ではないし、「太陽の光の1000倍ぐらい」の根拠が全く示されていない。 一般に、「太陽電池」が「補助的にしか役に立たない」のは天候と設置スペースの問題によるのであって、「太陽の光の1000倍ぐらい」だからではない。
でも原子力の平和利用のためには、原子力発電所は爆発だと言った方が良いかも知れない。 原理は同じだから、原子力発電所の危険性というのは結局のところ原子爆弾の危険性と同じであるし、原子力発電所を作るという事はいつでも原子爆弾ができるということでもあるからだ。
つまり原子爆弾を作ろうと思ってもそんなに容易にはできないのである。 逆に原子力発電所を作る時には、できるだけ爆発しないように設計するので、原理は原子爆弾と原子力発電所が同じであっても、原子力発電所が突然爆破するということは起こらない。
水のおかげで人類は安全な原子炉を作ることができた。 なぜ「安全」かというと、原理的に原子爆弾にならないということと、なんと言っても過去50年ほど、世界で動いてきた軽水炉は爆発状態にならなかったという実績である。
原子力発電所で注意しなければならないのは、普通の事故ではなく原子爆弾のように核爆発事故が問題で、普通の事故は仕方がない。 残念ながら現在の科学技術では事故は時々起こることで、それを嫌がっていたらそもそも電気は使えない。
武田邦彦氏は、原子力発電と原子爆弾の区別がついていないようである。 確かに、「原子爆弾を作ろうと思ってもそんなに容易にはできない」は正しい。 しかし、「できるだけ爆発しないように設計」しなくても、原子力発電所が「核爆発事故」を起こすことはない。 原子爆弾は、高濃縮ウランと爆縮等の特殊技術を導入して初めて製造できるものなので、それらを導入していない原子力発電所が「核爆発事故」を起こすことはない。 そのことを知らずに「原子力発電所の危険性というのは結局のところ原子爆弾の危険性」と主張する武田邦彦氏が原子力のど素人であることは疑う余地がない。
原子炉で起こりうる事故は、武田邦彦氏の主張する「普通の事故」だけであり、それは軽水炉であっても起こりうる。 軽水炉でも、熱を利用して発電している以上、放熱機構が故障すれば起こりうる。 事実、福島第一原子力発電所でメルトダウンや水蒸気爆発を起こした原子炉は全て軽水炉であった。 それと同等の「普通の事故」が「時々」レベルで起こったのではたまったものではない。 「原子力発電所で注意しなければならない」のは、「原子爆弾のように核爆発事故」ではなく、武田邦彦氏の主張する「普通の事故」である。
そのためにチェルノブイリ原子力発電所は爆発し、それが誤解されて「原子力発電所というものは爆発する」と理解されている。
チェルノブイリ原子力発電所で起きた爆発は、水蒸気爆発もしくは水素爆発であり、「原子爆弾のように核爆発」ではない。 武田邦彦氏風の言い方をすれば、「普通の事故」である。 即発臨界による爆発だとする説もあるが、いずれにせよ、「原子爆弾のように核爆発」ではない。 そんなことも知らない武田邦彦氏が原子力のど素人であることは疑う余地がない。
武田邦彦氏の姿勢
武田邦彦氏が確信的に疑似科学を発信している証拠
専門家に反論できずに認めたはずの誤りを専門家のいない所では吹聴し続ける
枝廣淳子氏(以下、枝廣):武田さんと、やっぱり朝生で戦わされたこともあるし、やっぱりその、例えば企業の人たちと話してても、さっき言った経営者が武田さんの本出してきて、「だけど、やる必要ないでしょ?」みたいな。 とことん、武田さんと話をしてみよう。
どこが違ってるのかわからないと、「違う、違う」って言っててもしょうがないので。 武田さんにお話して、企画持ちかけて、「じゃあ、いいです。やりましょう」って言って、何回ぐらいやったかな? で、ずっと3人と鼎談形式でやって。基本的に温暖化懐疑論……。
枝廣:武田さんと1個1個その話をして、結果として、「温暖化はしてる」「温度は上がってる」と、「それはデータ見ればわかります」と。武田さんは「それはそうですね」と。
「じゃあ、人間のせいですか?」って言ったら、「確かに他のいろんな影響もあるけど、人間の影響がなかったらこんなに温暖化してない」。 だから、人間の活動で出すCO₂が原因だっていうのは、武田さんが認めたんですね。
それに対して私たちは、「それが原因だったら、やっぱり減らして、少しでも温暖化止めるべきですよね?」って言ったら、武田さんはそこが意見が違って、「いや、なにもやんなくていいんだ」って言うんですよ。
「どうしたらいいんですか?」って言ったら、「なにもしなければ、そのうちすばらしい技術が開発されて問題解決する」。
枝廣:その時は武田先生は「温暖化してるし、人間のせいだ」って私たちとの鼎談では言ってたんだけど、次の日テレビに出たら、違うことをおっしゃってるので、……うん(笑)。
乙君:それ、収録は話より前だったんですか?
(一同笑)
山田:何がだよ! おまえ、武田派か!
江守:武田さんは「温暖化しない」とか、「人間のせいじゃない」っていうふうに、基本的にいろんなところで書いてて。
お会いして話したのは、その時1回きりだったんですけど、その後はテレビでお会いして、僕がデータを見せて「こうだと思います」って言ったら、「いやいや、私はほとんど江守先生が正しいと思っています」って言い出したんですよ(笑)。
山田:おー、何それ(笑)。
江守:「えっ?」ってなって(笑)。
山田:何それ(笑)。
江守:「ほとんど正しいと思ってるけど、他の説もあるから、そういうのもちょっと紹介してるだけだ」って言うんです。
山田:あー。
江守:言って、なんかスコーンと肩すかしにあった。
だいたい今、アメリカのトランプ政権の閣僚とかも、トランプ大統領も、選挙の時には「温暖化はインチキで中国の陰謀だ」とか言ってたけど、大統領になって、実際、パリ協定云々って議論をし始めたら、「温暖化してることは認める」。
「人間活動の影響があることも認める」「だけど、それがどれぐらいの影響かはわからない」ぐらいな感じにトーンダウンしたので、基本的には、専門家がいないところではいくらでも言いたいことを言うってことが起きてて。
武田邦彦氏が「いろんなところで書いて」いる内容は、「温暖化はしてる」「人間の活動で出すCO₂が原因」が「ほとんど正しいと思ってる」が「他の説もある」という説明ではない。 武田邦彦氏は、明らかに、「『温暖化しない』とか、『人間のせいじゃない』」と明言している。 そもそも、武田邦彦氏の荒唐無稽な地球温暖化懐疑論で紹介した以下の主張は、「ちょっと紹介してるだけ」の「他の説」ではなく、明らかに武田邦彦氏個人の主張である。
- 「太平洋を囲む陸地の気温」が上がってないように見せ掛けるためのスケール操作
- 年間全体の傾向を見ず、1年のうちの僅か数日間だけの比較をもって「北極の氷の面積は今年の11月に観測史上最大を記録した」と主張
- エネルギー保存則に反するトンデモ理論を駆使して、地球が温暖化するはずがないと主張
- コンピュータ・シミュレーションに対して、実際には膨大な検証が為されているにも関わらず、「検証できない」という無知に基づいた想像で信頼性を否定する
ようするに、武田邦彦氏は、専門家から詳しい説明をされると全く反論できず、「ほとんど正しいと思ってる」と認めざるを得ないのである。 そのくせ、「『温暖化しない』とか、『人間のせいじゃない』っていうふうに、基本的にいろんなところで書いて」、その点を追求されると「他の説もあるから、そういうのもちょっと紹介してるだけだ」と言い訳するのである。
気温上昇を隠すためのスケール操作
武田邦彦氏は以下のトリックを仕掛けている。
- 「ハワイ、日本の南の香港、南鳥島、アンカレッジ、サンフランシスコの順に、グラフ」だけ横方向に拡大する
- 「太平洋の気温」は100年以上のデータ
- 「ハワイ、日本の南の香港、南鳥島、アンカレッジ、サンフランシスコの順に、グラフ」は14〜32年分のデータ
- 「ハワイ、日本の南の香港、南鳥島、アンカレッジ、サンフランシスコの順に、グラフ」だけ縦方向に縮小する
- 「太平洋の気温」は0.5度単位の目盛
- 「ハワイ、日本の南の香港、南鳥島、アンカレッジ、サンフランシスコの順に、グラフ」は2℃または5℃単位の目盛
- 画面上の目盛線の距離も「ハワイ、日本の南の香港、南鳥島、アンカレッジ、サンフランシスコの順に、グラフ」の方が狭い
- 変動周期や変動幅からトリックが発覚しないようにする
- 「太平洋の気温」は年平均
- 「ハワイ、日本の南の香港、南鳥島、アンカレッジ、サンフランシスコの順に、グラフ」は月平均
以下、武田邦彦氏の荒唐無稽な地球温暖化懐疑論にて詳細を解説する。
言い逃れしようがない捏造の証拠
武田邦彦氏はタバコと肺がん死のグラフを故意に都合良く細工している。
武田先生、元のグラフから年齢調整済みのライン消したでしょう。 うっすら痕が残ってますよ QT 科学者テスト・・・自分は科学者になれるか? http://t.co/DBQCLQZ9 元絵はおそらくこれの12ページ(PDF注意) http://t.co/fcIcty7B
詳細は医学分野における武田邦彦氏の疑似科学論にて解説する。
説明のつかない意見の変遷
日本の原子力行政は、原子力委員会が推進、原子力安全委員会が抑制ということになっていたが、政府がいつの間にか、原子力安全・保安院というのを作り、「抑制機関無しの原子力行政」を始めた。
そのため、安全を考えて抑制する立場だった「原子力安全委員会」は国民に代わって、直接、原子力の安全を守ることができなくなった。
原子力安全・保安院は全権を持ち、電力会社や原子力安全委員会などに強い影響を持つようになった。 これがテレビで見た保安院の人の傲慢な態度にあらわれていた。
保安院は常に原発に口を出し、俺の言うことを聞かなければ認可しないぞと言い、そして現場を知らないという状態で推移していた。
このことが「地震で破壊する原発」を作ってきた原因であり、さらに「震度6など想定していなかった」とか「地震対策はしてきたが、津波が起こるとは知らなかった」などという奇妙な言い訳を作り出す原因にもなっている.
確かに、原子力委員会は原子力を推進する行政機関である。 一方で、原子力安全委員会は、担当機関に意見を具申するだけの審議会であって、何の規制権限を持っていなかった。 原子力安全・保安院は、それまでなかった原子力を規制する行政機関として設立されたものである。 だから、原子力安全・保安院を設立する前こそが「抑制機関無しの原子力行政」だったのであって、「安全を考えて抑制する立場だった『原子力安全委員会』は国民に代わって、直接、原子力の安全を守ることができなくなった」などということはあり得ない。
尚、原子力安全・保安院は、2001年1月6日に設立した機関である。 武田邦彦氏は、原子力安全・保安院の設立から7年弱が経過した2007年12月25日に次のように発言している。
○武田委員 1つお願いというか、提案というほど大げさではないんですが、ちょっとお話しさせていただきます。
大変に長い間、日本の原子力発電所は、簡単に言うと、極めて安全に運転されてきた。 多分、他のエネルギー産業の中でも、統計的な数字を細かく述べることはできないんですが、最も安全なエネルギー産業の1つではなかったか。 そういう意味では、原子力安全委員会が大変正常に機能した数十年だったと評価できるのではないかと思うんですが、 一方、新潟の地震による火災のときの国民の反応のように、ほとんどの国民は「原子力発電所は安全でない」と認識しているのではないかと危惧しているわけであります。
つまり、「原子力安全・保安院は全権を持ち、電力会社や原子力安全委員会などに強い影響を持つ」状況においても、武田邦彦氏に言わせれば「原子力安全委員会が大変正常に機能した数十年」だったのである。 ところが、東北地方太平洋沖地震が起きて、福島第一原子力発電所事故に世間の注目が集まったことをきっかけに、武田邦彦氏は、原子力に関する認識を安全から危険に変更したのである。 ようするに、原子力安全・保安院は、武田邦彦氏が意見の変遷を誤魔化す言い訳として持ち出した話であるが、言い訳としての辻褄が全く合っていない。
では、武田邦彦氏は、何故、このような稚拙な言い訳まで持ち出して、意見を変えたのか。 もしかすると、福島第一原子力発電所事故で、安全だと思っていたものの事故が発生したので、危険だと認識を変えたのだろうか。 しかし、それでは次の意見の変遷が説明できない。
放射線と人体の関係を研究している人の多くが「放射線を少し浴びた方が発癌性が低い」と考えている。 でも,決して口に出さない. 口に出すと袋だたきにあうからだが,民主主義だから専門家はおそれずに「本当の事」を言うべきだ.
ここで、番組から『武田さんは、昔ご自身の本の中で、【低い数値の放射能は浴びたほうが健康に良い】と書かれていますが、何故ご意見を変えたのですか?』 という質問がされ、それに対しては『人は無菌室に入った状態だと長く生きられないのと一緒で、放射能を徹底的に排除するよりも低い数値なら浴びたほうが良いし。 しかし、原発由来の人工放射線はわずかでも浴びないほうがいいに決まってる。 ほんの僅かでも癌の確率が上昇するのなら、そのリスクは避けるべきだ』 と反論。 番組内では低い数値というのがどの程度の数値なのかも示さず、『人が作った放射能は駄目』の一点張りで、個人的には余り信用出来ない様な主張でした。
武田氏は、タバコを吸うと寿命が伸びるのでガンガン吸うべきという主張のようです。 煙草による肺がんは?という主張に対しては、煙草による肺がんの増加率は1.6倍といわれているが、肺がんになるそもそもの確率が低い。 1000人に1人しか肺がんにならないんだから、その人数が1.6倍になっても確率的にはかなり低いので、肺癌のリスクは無視出来る。 という主張。。
この主張に対しては、正直開いた口がふさがりません。。。 武田邦彦さんは、最初の放射能問題で『わずかでも癌になる確率が上昇するのであれば、放射線は避けるべきだ』と主張しておいて、タバコに関しては『絶対値として低いのだから無視出来る。』と主張。 因みに、僕が個人的に知っている【京都大学院で癌の研究をされている方】の話によると、今問題視されている放射線の量よりも、タバコの方が遥かに発ガン性が高く問題のようです。
武田邦彦氏は、福島第一原子力発電所事故の前には、「放射線を少し浴びた方が発癌性が低い」が「本当の事」だと主張していた。 それなのに、事故後は、「原発由来の人工放射線はわずかでも浴びないほうがいいに決まってる」と意見を変えてしまった。 それも、「放射線の量よりも、タバコの方が遥かに発ガン性が高」いにも関わらず、「肺癌のリスクは無視出来る」のに「原発由来の人工放射線はわずかでも浴びないほうがいいに決まってる」というダブルスタンダードである。
いずれにせよ、この見解の変遷は、福島第一原子力発電所事故では全く説明できない。 福島第一原子力発電所事故から何十年も経てば、その時に少量放射線を浴びた人がどうなったかの疫学調査により、新たな知見が生まれている可能性はある。 しかし、放射線の影響は何十年も経ってから分かることなので、事故直後に、少量放射線に関する新たな知見を得ることは不可能である。
では、何故、武田邦彦氏は、見解を変えたのか。 それは、武田邦彦氏が、一般受けするかどうかで意見の内容を決めているからである。 事故前は、原子力の安全性に関心を持っているのは、極一部の人だけだった。 だから、原子力や放射線の危険性を訴えても、大して一般受けしない。 そして、武田邦彦氏は、原子力関係の仕事をしているので、無難に政府見解と同じことを述べていたのである。 その後、福島第一原子力発電所事故が起きて、世間の原子力の安全性への関心は飛躍的に高まった。 ここで、原子力や放射線の危険性を訴えれば、世間の注目を浴びることができる。 だから、武田邦彦氏は、原子力は危険だと意見を変え、「原発由来の人工放射線はわずかでも浴びないほうがいいに決まってる」とまで言い出したのである。
もちろん、武田邦彦氏の主張には反論する人も現れる。 しかし、武田邦彦氏の考えは次の通りなのだろう。
- メディアに出て批判する人が少数なら気にしない
- 多数であってもメディアに出ない批判は気にしない
武田邦彦氏の目的は科学的議論において勝つことではない。 一定数の一般人を扇動できればそれで十分なのである。
火のない所に煙を立てる
武田邦彦氏は「縦割り医療」「癒着」「利権行政」による「医療の混乱」も捏造する。 詳細は医学分野における武田邦彦氏の疑似科学論にて解説する。
出典偽装(独自の仮定を置いて勝手な想像で計算した値を「出所:PETボトルリサイクル推進協議会」)
武田邦彦氏は、根拠のないデタラメを主張し、そのデタラメを指摘されても、誤りを絶対に認めない。 詳細は環境分野における武田邦彦氏の疑似科学論にて解説する。
古紙リサイクルの環境負荷の誤りを指摘され、「私もほぼ同じ計算をし、同じ考え」と言いながら、誤りを一切認めない謎
武田邦彦氏は、「読者の方」から詭弁を指摘されると、その指摘が完全に正しいと認めつつも、更なる詭弁を駆使して、無理やり当初と同じ結論に導こうとしている。 詳細は環境分野における武田邦彦氏の疑似科学論にて解説する
出典追求に対するごまかし
しかし、「正確」というのはなかなか難しい。 まず記載ないようには「事実」と「意見」があり、どちらも人によって異なる。 神様なら少なくとも事実については一つだろうが、人間は見方によって事実すら違って見える。
私のWikipediaのページには、「主張に関する問題点」というところに、 「上記主張について、誤りや虚偽が多い、根拠としているデータが捏造である、と度々指摘を受けている。」 とされている。
私自身の感触では、私の著書に記述された事実について、批判があることは良く承知しているし、また学問にとって批判は大変、重要なものであるが、「誤りや虚偽が多い」などとの批判は全体から見ると少数で、多くの人は支持してくれていると感じている。
- 「『誤りや虚偽が多い』などとの批判は全体から見ると少数で、多くの人は支持してくれている」は武田邦彦氏は「感じている」ことであって何も根拠がない
- そもそも、支持者の数を論じているのではなく、論点は武田邦彦氏の主張の真偽である。
武田邦彦氏は、論点を誤魔化すために、ちっとも難しくない話を難しいことにしてしまっている。 出典にヒントを得た武田邦彦氏の創作なのに、それをあたかも出典に記載された内容であるかのように主張するから、それは「事実」ではないと批判されるのだ。 「出所:PETボトルリサイクル推進協議会」「理研の委員会自体がそう言っている」などのように。 しかも、大抵、武田邦彦氏の創作は、出典の記載と真逆の内容である。 出典に何が書かれていて、何が書かれていないかは、真偽が明確に検証できることなので、「人間は見方によって事実すら違って見える」という言い訳が通用しない。
しかし、私がテレビで発言したり、一般向けの書籍に何かを書くときには、いちいち出典を示すのではなく、むしろ私自身の考えを述べ、膨大なデータや理論のうち、「私が正しいと思ったもの」を短い時間で話す。
そんなところで具体的な論文を示しても、視聴者や読者がそれをチェックすることはできないので、「私が信頼できなければ聞いたり、本を読んだりしない」という方法しかない。
そこで私は時には出典を言うことがあるが、普通は自分の考えとして述べる。 たとえば「ツバルは温暖化で沈んでいるか?」ということに関しては、自分でポリネシア・ミクロネシアなどの書籍を読み、国連に届けられたデータを見、インターネットで調査し、小林先生に直接お話をお伺いし、ハワイ大学などの論文を読み、そして「沈んでいない」と話をし、本を書く。
「一般向けの書籍に何かを書くとき」に「いちいち出典を示す」のは、「科学者、教育者として説明を加えている」人ならば誰でも当然のようにやっていることである。 「膨大」だとか「視聴者や読者がそれをチェックすることはできない」だとかは、何の言い訳にもならない。 このサイトでも普通にやっていることだが、「出典○○に記載された□□という事実に△△という計算をすれば××という結論が導ける」というように記載すれば良いだけである。 流石にあまりに基礎的なことに出典はつけないが、前提として説明が必要なことには全て出典を明示しているし、出典にない考察は出典にないことがわかるように記載している。 出典をはぐらかすために、「膨大」だとか「視聴者や読者がそれをチェックすることはできない」だとかの言い訳は一切必要ない。
証明責任、説明責任を逃れる言い訳(「科学者、教育者として説明を加えている」としながら学問の世界で公認された情報を調べない)
私が温暖化を「科学論文」としてではなく、一般向け書籍として出しているのは、私が直接、研究しているのではなく、科学者、教育者として説明を加えているからだ。
武田邦彦氏は、専門外であることを証明責任、説明責任を逃れる言い訳にしている。 しかし、専門外の「科学者、教育者として説明を加えている」ならば、当然、「説明を加え」る内容の真偽は事前に確認しておく責任がある。 専門誌上で査読を通ってない独自の主張を正しいことだと説明するのは、疑似科学者、トンデモ論者、詐欺師らである。 言うまでもなく、疑似科学者、トンデモ論者、詐欺師らであるならば、「科学者、教育者」失格である。 学問の世界で公認された情報を教えるのが教育者として求められる態度であり、科学の世界で公認された情報を教えるのが科学者として求められる態度である。 主流学説以外の学説についてはそういう説もあるという説明に止め、かつ、個人的な見解はそう断って説明するのが、「科学者、教育者として説明を加え」る適切な態度である。 個人的見解を正しい学説だと主張したいなら、当然、「一般向け書籍として出」す前に、「科学論文」として査読のある専門誌に掲載すべきであろう。 よって、この武田邦彦氏の主張は「『科学論文』としてではなく、一般向け書籍として出している」ことの言い訳には全くならない。 「科学者、教育者として説明を加えている」ならば、正しいことを教えるべきであるから、それは嘘を教える言い訳にはならないのだ。
もちろん、専門外の「科学者、教育者」であることは、主流学説の内容を取り違えることの言い訳にはなる。 そして、その場合は、間違いがわかった時点で訂正する必要がある。 意図的に主流学説でない物を個人の意見として正しい学説だと主張することは、専門外の「科学者、教育者」であることを持ち出しても言い訳にはならない。
例えば、当サイトでは、主流学説を解説しているつもりだが、その主流学説の内容を誤解している可能性は否定しない。 しかし、主流学説でないことが明らかな物については、主流学説ではないことを説明し、可能性のひとつとしてしか紹介していない。 何らかの個人の意見を添える場合も、それが個人的意見であると明記しており、客観的に正しい学説であるとは主張していない。 「科学者、教育者として説明を加えている」とは、そういう行為に対して言えることではないだろうか。
武田邦彦氏が「『科学論文』としてではなく、一般向け書籍として出している」本当の理由は、武田邦彦氏の独自の主張が専門誌上の査読を絶対に通らないからである。 何故なら、武田邦彦氏の独自の主張は、いずれも、論理的に成立してないからである。 例えば、武田邦彦氏の独自の仮定を置いて勝手な想像で計算した値を「出所:PETボトルリサイクル推進協議会」とした件において、武田邦彦氏は「直接資源関係の経費」とは違う数値を拾ってきて、それを「直接資源関係の経費」だと強弁している。 真っ当な査読者なら、このようなデタラメがあれば「根拠に基づいて計算するように」とコメント付きで弾く。 真っ当な査読者の立場に立てば、武田邦彦氏の独自の主張は、正しいかどうか以前の論外の内容なのである。 武田邦彦氏は、それがわかっているから「『科学論文』としてではなく、一般向け書籍として出している」のである。 それを誤魔化すために武田邦彦氏は「科学者、教育者として説明を加えている」と言い訳しているが、それが言い逃れのための口実であることは一片の疑いの余地もない。
自身の社会的責任を免責することだけを目的にした都合の良い「ルール」
特に、私は特定の個人の批判と言うより、国、自治体、NHK、新聞など巨大で、強力な組織を中心として批判している。 それは「学問の自由」というのは、近代社会において「権力に批判的」であることによって与えられているからである。
つまり、学問の自由や報道の自由、また言論の自由というのは、個人に対して使用されるものではなく、権力に対して自由である。
それに対して、個人への攻撃や批判は次の制約があると法律の専門かから教えていただいている。
【個人を批判できる限度】
1)相手に反論の機会が提供されていること(つまり批判する人が、あらかじめその本人に真偽を確かめ、もし反論があれば、批判している場所で反論できること)
2)相手がどうしようもないこと(性別、人種、出生、容姿など)は攻撃できない
もっとも、著作に事実に異なることがあり、それが著しく個人、もしくは団体にとって損害を与えるものであれば、その部分について、著者もしくは著作権を持っている人に直接、抗議をするのがルールである。
「言論の自由というのは、個人に対して使用されるものではなく、権力に対して自由」とする主張は、単に、武田邦彦氏にとって都合の良いルールを要求しているに過ぎない。
事実、言論の自由が個人批判に適用されないとする法律も判例も存在しない。 例えば、刑法第230条の2では名誉毀損について「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない」としている。 そして、判例では、真実と信じた相当な理由があれば真実性が認められるとしている。 刑法でも判例でも「批判している場所で反論できること」を一切求めていない。 疑似科学家の槌田敦氏が言論弾圧しようとして失敗した裁判においても、国立大学法人は「表現の自由や学問の自由を享有するものと解するのが相当」で「国立大学法人がこれらの自由を享有しないという考えは独自の見解であるというほかない」と判示されている。 武田邦彦氏の脳内の「法律の専門」の主張などでは何の根拠にもならない。
当たり前のことであるが、「言論の自由」は言論の免責を意味しない。 例えば、「言論の自由」では詐欺罪は免責されない。 刑法犯に問われない場合であっても、「言論の自由」を盾にしても社会的責任が免責されるわけではない。 例えば、ある疾病に良く効く治療薬について、嘘の情報に基づいて危険性や無効性を喧伝した結果、その情報を真に受けて治療を拒否して死んだ患者がいるとしよう。 その場合、「言論の自由」を盾にしても、患者の治療機会を喪失させて死に追いやった社会的責任は免責されない。 逆に、全く効果がないインチキな健康食品類を、嘘の情報に基づいて良く効くと喧伝した結果、その情報を真に受けて健康被害や金銭被害が生じた場合も同様である。 言論の中に「個人への攻撃や批判」があるかどうかには関係がなく、他人に不当に損害を与える行為は全て社会的責任が問われるのである。 自らの意志で言動内容や方法を選択している以上、その言動が及ぼす社会的影響に関する責任は自分自身にある。 自分自身の社会的に責任と向き合うことは人として当然のことなのだ。 武田邦彦氏は、自らの言動が引き起こした次のような事態に対する責任に向き合うべきだろう。
新卒の時お世話になった同期が帰省してて昨晩うちに来た。 彼の父親は血圧が高く彼なりに調べた結果YouTubeの武田邦彦にたどり着き「降圧剤なんか無意味だ」というとんでも意見を信じてしまい父親に降圧剤を飲むなと指示してしまったらしい。 そして半年後脳梗塞で父親は倒れ入院。 号泣していた。
彼の父親は毎日血圧を記録していたらしい。 彼が降圧剤を飲むなと指示した日から徐々に血圧は上昇して倒れる1週間前には180。 そこで記録は止まっていたらしい。
武田邦彦氏の「著者もしくは著作権を持っている人に直接、抗議をするのがルール」という主張は、「俺の許可なく俺のついた嘘を中和するな」と言っているに等しい。 もしも、そんな「ルール」がまかり通れば、どんなに正当な抗議であろうとも、「著者もしくは著作権を持っている人」が聞き入れなければ、抗議者側は泣き寝入りするしかない。 そして、その「ルール」を「個人への攻撃や批判」に限定すれば、武田邦彦氏はその「ルール」に縛られることはなく、武田邦彦氏に反論する場合はその「ルール」に縛られることになる。 だから、武田邦彦氏は、自身の社会的責任を不当に免れる手段として都合が良い、一方的で身勝手な「ルール」を主張しているに過ぎない。
確かに、特定の個人を貶めることを目的とした言動であれば、「反論の機会」を提供しないのは卑怯であろう。 しかし、武田邦彦氏は自らが社会に大きな害をなすデマ情報を発信しているのであり、批判者はそのデマ情報を打ち消すことを目的として発言している。 その結果として、武田邦彦氏の社会的評価は低下するかもしれないが、それは武田邦彦氏自身がデマを流布していることによるものであって、自業自得である。 社会的評価は低下するのが嫌ならば、デマを流布しなければ良いだけである。 武田邦彦氏こそ、デマに対する「反論の機会」を提供しないくせに、他人に「反論の機会」を要求し、かつ、自分だけを免責する「ルール」を主張するのは、極めて身勝手であろう。
その点では私は個人の批判はしないようにしているが,大臣や東大総長ぐらいになれば,個人より公的な立場だから批判が許されるとして,一つ,批判をしたい.
「大臣や東大総長ぐらいになれば,個人より公的な立場」だとしても、現役ではない「元東大総長」は一私人でしかない。 元何とかに比べれば、現役の国立大学工学部教授の方が余程「公的な立場」であろう。 武田邦彦氏は「あらかじめその本人に真偽を確かめ」たのか。 また、「批判している場所で反論できる」ようにしているようには到底見えない。 いずれかの条件を満たしていないなら、自分だけ「ルール」を免れるために恣意的な基準を作って「元東大総長」に「公的な立場」とみなしているに過ぎない。
さて、「著者もしくは著作権を持っている人に直接、抗議をする」と武田邦彦氏はどのように対応するのだろうか。
江守:すごい思い出したんですけど、最初の鼎談で話をする前に、最初ちょっと「いきなり会っても議論が深まらないかもしれないから、メールでやり取りしよう」って言ったんですよ。 メールですごいやり取りしてたら、武田さんがすごい自由な気ままなことを書いてくるんで。
(一同笑)
江守:それに僕がいちいち引用を入れながらツッコんでいたら、武田さんが「もうこんなのイヤだ」っていうふうに言い出して。
山田:おじいちゃん、面倒くさくなっちゃった。
江守:「これは何だ? 武田いじめじゃないか。もう私はこんな企画は乗らん」というふうに言い出して。
武田邦彦氏は、自分は「すごい自由な気ままなことを書いてくる」くせに、「いちいち引用を入れながらツッコ」まれたら文句を言う。 相手の主張が間違っていたり、見当違いなら文句を言うのは分かるが、反論できないツッコミを入れられて「武田いじめじゃないか」は逆切れも甚だしい。 以上の対応を見る限り、やはり武田邦彦氏は、自身への反論を弾圧する目的で、一方的で身勝手な「ルール」を主張しているようだ。
トンデモ語録
「自宅で酒を飲んだら合意ですよ」
26日の放送されたCBCテレビ「ゴゴスマ」で、自民党を離党した○○○○衆院議員が準強制性交容疑で刑事告発された件を取り上げた際、コメンテーターの武田邦彦氏が「自宅で酒を飲んだら合意ですよ」と発言しスタジオが騒然となる場面があった。
武田氏の発言は「準強制性交等罪」の構成要件そのものを否定するものであり、弁護士を含め他のコメンテーターは一様に同氏を非難している。
一般人代表としてインタビューを受けているなら、こういう発言もありかもしれない。 しかし、「科学者、教育者として説明を加えている」なら、専門外の法律に安易に口を挟むなよ。 大学の教授の肩書で出演している自覚を少しは持つべきではないか。
誰も言わないことが真実なのではなく、間違っているから誰も言わないということを認識して、今後の発言には留意してほしいものだ。
全くその通りである。
小保方氏擁護論
STAP細胞論文捏造事件についても武田邦彦はわけのわからない主張を展開している。 詳細は医学分野における武田邦彦氏の疑似科学論にて解説する。
「透析に追いやる薬」論
武田邦彦氏は、腎臓透析についてもトンデモ主張をしている。 詳細は医学分野における武田邦彦氏の疑似科学論にて解説する。
コンピュータ・シミュレーションの初心者なのに何もかも知っているかのように語る
武田邦彦氏は、コンピュータ・シミュレーションの達人であるかのように自称している。 しかし、その説明内容を見る限り、コンピュータ・シミュレーションを使った経験があるというだけの初心者に過ぎない。 コンピュータ・シミュレーション超初心者である武田邦彦氏の誤解にて詳細を解説する。
地球温暖化否定論
武田邦彦氏は地球温暖化懐疑論も主張する。 しかし、その内容があまりにもアホすぎる。 武田邦彦氏の温暖化否定論をまとめると次のような所だろうか。
- 観測データ等を無視して地球は温暖化していないと言い張る
- トリックを駆使して、実測データ上の温度上昇を隠す
- 温度上昇を隠したデータと矛盾することを口実に(トリックで捏造された実在しない矛盾)、温暖化しているデータ(武田邦彦氏が温度上昇を隠せなかったデータ)は信用できないと主張する
- エネルギー保存則に反するトンデモ理論を駆使して、地球が温暖化するはずがないと主張する
- トリックを駆使して、実測データ上の温度上昇を隠す
- コンピュータ・シミュレーションに対して、実際には膨大な検証が為されているにも関わらず、「検証できない」という無知に基づいた想像で信頼性を否定する
- 二酸化炭素濃度が下がると生物が絶滅すると主張する
- 荒唐無稽な夢物語の「地球を簡単に冷やす方法」を提唱し、温暖化しても大丈夫だと言い張る
- 「200万平方キロメートル」に「『銀紙(ぎんがみ)』を敷く」(笑)
- 全地球規模で「海の深いところから水をくみ上げる」(笑)
- 存在しない学術上の対立を作り出す(ただし、武田邦彦氏オリジナルではない)
武田邦彦氏の荒唐無稽な地球温暖化懐疑論にて詳細を解説する。
当時の最新スパコンでも実現不可能な気象予測を提供しないのは政府の怠慢だってさ(笑)
近代防災は「何ミリの雨が何時にどのぐらい降る」というのをコンピュータで計算し、画像化し、正確に把握し、どの川がどのぐらい増水するかを速やかに通報するのが大切ですが、ほとんど手がつけられていません。
「雨が降るぞ」というと消防隊が川に見回りに行くというような前近代的な防災方法しかとらないことに、今回の被害の原因があります。つまり「人災」なのです。
毎年、「記録的な」豪雨が降り、被害と犠牲者が出る。 そして、国土交通省は「旧に復す」と言って元の危険な地形に戻し、気象庁は「定量的な数値を曖昧な表現にして防災ができなくする」という方向に熱心で、いつまで経ってもコンピュータによる予想を詳しく出して防災と提携しようとしない。
武田邦彦氏のこの文章は平成24年(2012年)7月〜8月に書かれたものだが、気象予測とスパコン - 理化学研究所計算科学研究センターによれば、2012年6月に完成した京でも、気象モデルに使われるメッシュの1辺は870mである。 1辺870mでは、「どの川がどのぐらい増水するか」を「コンピュータで計算」することは不可能である。 コンピュータの予測精度を高めるには次のようなの方法があり、これらをバランスよく改良しないと精度は上がらない。
- メッシュの1辺を小さくする
- 単位時間を短くする
- 観測の精度を高める(データを細かくとる)
- 数式をより正確なものにする
基本的に、いずれも計算量が増える要因になる。 ほとんど誤差なしに「どの川がどのぐらい増水するか」を「コンピュータで計算」するには、メッシュの1辺を1m程度にする必要があるだろう。 1辺100mなら、大きな誤差を許容すればギリギリ計算できるかどうかくらいかもしれない。 メッシュの数は辺の長さの2乗に反比例する。 次期スパコンの富岳は京の約100倍の演算能力があるとされているが、単純にメッシュだけを小さくしても1辺87mである。 それについて、理研は「『富岳』は命を救う数値天気予報をめざす」と説明している。 ようするに、次期スパコンで、ようやく、「どの川がどのぐらい増水するか」を「コンピュータで計算」できるかどうかという水準なのである。 平成24年(2012年)7月〜8月の段階では、コンピュータの性能が圧倒的に不足している。 気象庁は、「いつまで経ってもコンピュータによる予想を詳しく出して防災と提携しようとしない」のではなく、やりたくても不可能なのである。 武田邦彦氏は、何も調べもせずに、空想に基づいてデタラメなことを主張しているのである。
外来種陰謀論
もしその種が日本の気候風土に合っていて競争力が強ければ残って、2,300年経つとすっかり「日本の生物」になる。 だから生物学的には問題はない。 このことは生物学者にも確認してある。
外来種の問題は、単に、生態系の問題だけではなく、産業上の被害、健康上の被害(死亡する場合もあり)の問題もある。 だから、「生物学的には問題はない」ことは、外来種を駆除しない理由にはならない。
ところが、外来種排斥で一儲けしようとする人たちがいる。 「日本で競争力のある」外来種に目をつけ、「駆除しなければならない」という世論作りをして、外来種排斥補助金を獲得する。 実に巧みで、数年ごとにかなりのお金をせしめて外来種を駆除する。 でも100%の駆除は行わない。 100%駆除すると一回しかお金をもらえない。 だから90%駆除する。
「100%の駆除」は、陸上の生物なら、生息範囲全域をナパーム弾などで焼き尽くしたりしない限り、不可能である。 水中の生物なら、生息範囲全域の水を完全に抜かない限り、不可能である。 例えば、ある湖に住む淡水魚の外来種の「100%の駆除」には、その湖に出入りする川も含めて、全ての水を抜いて流域の全ての魚を捕獲する必要がある。 当然のことながら、そんなことは不可能である。 「100%の駆除は行わない」のは、「100%駆除すると一回しかお金をもらえない」かどうかとは関係なしに、技術的に不可能だからである。 以上は、「外来種排斥で一儲けしようとする人たち」が「100%の駆除」と思っているかどうかとは全く関係がない。
そうすると残りの10%がまた数年後に100にふえるので、また駆除するための補助金をもらえるというわけだ。
「残りの10%がまた数年後に100にふえる」という前提では、数年毎にしか「駆除するための補助金をもらえ」ない。 特定外来生物防除等推進事業 - 環境省によれば、日本政府の令和2年度の特定外来生物防除等推進事業費の要求額は5億7千万円であり、これは令和2年度一般会計予算のわずか0.00057%に過ぎない。 平成23年行政事業レビューシート - 環境省によれば、1カ所あたりの防除事業費用平均値は2千万円である。 駆除のための動員人数を考えれば一人当たりの収入は少なく、かつ、数年毎にしか「駆除するための補助金をもらえ」ないのでは、「外来種排斥で一儲け」などできるはずもなかろう。 臨時収入としては決して小さくないだろうが、それで生計を維持することは不可能であり、主たる仕事の片手間に手伝えるだけのことである。 主たる仕事が他にあるなら、「外来種排斥で一儲け」を考えるより、主たる仕事を頑張った方が遥かに儲かる。
このように、武田邦彦氏は、存在しない陰謀を捏造している。
たまに真っ当なことも言う
ワクチン
第一に、これまで日本政府は「ワクチン情報を国民に知らせないで、接種を強制した」ということです。ワクチンには一定の危険性があり、それがゼロではないのに「安全だ」を繰り返して強引に集団接種を繰り返しました。
感染性の病気のワクチンは、それでも若干の屁理屈があります。 つまり、接種を強制しないと接種率が下がり、感染性の病気が社会に蔓延することを防ぐことはできないし、「国民はバカだから、少しでも危険というと過度に考えすぎるから」ということで危険性を言わなかったということです。
第二に、今度は「ワクチン反対派」の問題です。 ワクチンが危険だという妄想を抱く人が居て、その人がある事ないことをネットなどで発信するので、一般の人が動揺するということです。
たとえばインフルエンザの予防接種で「インフルエンザなどまったく効果がなく、副作用だけ」というようなことです。 かなり有名な方の論拠を調べてみると、古いデータと新しいデータ、子供、成人、老人のデータなどを巧みに組み合わせ、自分の主張に都合のよい結論を出しているということです。
なぜ、その人が奇妙なことを言っているのかということですが、第一に「思い込みが激しい」、第二に「科学の訓練を受けていない」、第三に「有名になりたい」、第四に「自分とか子供が被害を受けて、それを一般化している」などが考えられます。
しかし、私たち自身、もしくは子供のことを考えると、大切なのは「より安全で健康な生活を送るにはどうしたらよいか」ということです。
私は次のように考えています。
1) インフルエンザで死亡する人は約5000人ぐらい。
2) 副作用で重篤状態になるのは10人ぐらい。
3) だからワクチンを接種したほうが自分にとってより安全。
4) だから毎年、打つ。若干の副作用がある感じがするが、あっても軽度の風邪気味ぐらいだから打つ。
5) 妊婦、乳幼児もワクチンを打つと安全性が上がるが、心配もあるので、ほとんど外にでないで済む場合は家族がワクチンをうち、家に帰ったら手を洗い、うがいをして妊婦と赤ちゃんを守る。
6) 妊婦と乳幼児の摂取基準は科学的合理性をもって決められているので、危険はない。ただ免疫系が完成していない赤ちゃんは効果が少ないこともある。
7) インフルエンザ・ワクチンの卵白の問題はほとんどなくなったが、それでもアレルギーの強い人は一応、よく医師と相談したほうがよい。
こんな感じです。あまり感心しない「反対派」の方の論拠で、「厚労省がいい加減なことを言ったから、その反発でワクチンに反対している」というのがありますが、私たちや子供の健康は厚労省より大切なものですので反発で国民を危険に導かないようにして欲しいと思います。
問題がこじれたのは厚労省の説明不足、というか国民をバカにした行政にありますが、良心的な医師、優れた研究者はこの分野では多くおられますので、確実で科学的な根拠で自分や家族を守ってもらいたいと思います。
武田邦彦先生! どうしたんですか!? 何か変な物でも食べましたか!?
「ワクチン情報を国民に知らせない」等の一部に事実に基づかないおかしな主張はあるが、「インフルエンザで死亡する」危険性をどれだけ回避できるかと「副作用で重篤状態になる」危険性を比較して検討するべきとする基本的な主張におかしな部分はない。 ワクチンを打つことの直接的効果と集団接種による間接的効果(罹患者が減る→感染源が減る→感染機会が減る)について論じていれば完璧であろう。 尚、「ワクチン情報を国民に知らせない」は事実に反しており、実際は知らせている。 ただ、その知らせる方法の問題である。 自分から情報を取りに行こうとする人は知ることができるが、そうでない人には情報が届かない方法をとっているだけである。 だから、「『国民はバカだから、少しでも危険というと過度に考えすぎるから』ということで危険性を言わなかった」は武田邦彦氏の捏造であろう。
それから、「なぜ、その人が奇妙なことを言っているのかということですが、第一に『思い込みが激しい』、第二に『科学の訓練を受けていない』、第三に『有名になりたい』、第四に『自分とか子供が被害を受けて、それを一般化している』などが考えられます」は、まず、ご自分に向けて言うべきことだろう。 というか、自分のことが良くわかってて、自分を分析した結果がこの言葉なのだろうか。
小ネタ
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