Hotta解釈

はじめに 

Hotta解釈には次のような欠陥がある。

  • 分岐先毎の差異を観測者毎の差異に偽装している
  • 射影仮説以外に非ユニタリー的時間発展を導入している
    • 標準理論と数学的に等価ではない(単なる解釈の域を逸脱している)
    • 導入された非ユニタリー的時間発展の数学的説明がない
  • 古典力学が量子力学のマクロ極限と全く違う
    • 行列力学の前提と一致しない

これら3つの大きな欠陥は相互に密接に結びついており、どれか一つでも潰そうとするとHotta解釈ではなくなってしまう。 何よりも問題なのは、専門誌に論文として寄稿していないことである。 つまり、世界中の専門家から理論的欠陥の検証を受ける科学的プロセスを経ていない。 一方で、多世界解釈にはこのような欠陥はない。 Hotta解釈は、多世界解釈と同様にデコヒーレンスを採用しているので、異なる状態間の干渉性が完全に失われない問題がある。 それは多世界解釈にとって唯一かつ最大の理論的問題である。

解釈 不完全な干渉性喪失 上記3つの欠陥
Hotta解釈ありあり
多世界解釈ありなし

よって、Hotta解釈は多世界解釈より劣っている。 にも関わらず、Masahiro Hottaは多世界解釈を酷評する。 多世界解釈が駄目なら、それより劣るHotta解釈はもっと駄目だろう。

真っ当な科学理論は、納得できるかどうかでなく、現実との整合性を重視する。 現実と整合する唯一の理論は、どれだけ納得し難くても、正しいと考える。 現実と整合しない理論は、どれだけ納得できても、間違っていると考える。 それが今日の科学である実証科学である。

一方で、Hotta解釈は現実との整合性よりも納得することを重視する。 Hotta解釈が用いる手法は、いずれも、納得できないことに対して、納得できなくなっている根本原因を何ら解消していない。 単に、理論を無駄に複雑にすることで、直感的には疑問に気付きにくいようにしただけ、すなわち、問題点を隠蔽して誤魔化しているだけにすぎない。 しかし、論点を整理してよく考えてみれば、違う形に変形されただけの奇妙な点がそのまま残っていることに気づける。 奇妙な点をあたかも奇妙でないかのように偽装した結果、むしろ、余計に問題を大きくしている。 このようなやり方は現代科学の対極にあるものである。

尚、以下も参考に。

Hotta解釈の目的と結果 

測定時の可観測量については次の二通りの記述が可能である。

  • 主観と客観が一致する(従来理論など)
  • 主観と客観が一致しない(多世界解釈など)

そして、どちらが正しいかは科学的に決着をつけることができない。 どちらを選ぶかは科学の問題ではなくイデオロギーの問題である。

Masahiro Hottaは後者を選んだ。 その目的は射影仮説から天下り的な仮定を排除することにある。 このHotta解釈は個々の数学的記述が物理的にどんな意味を持つか、すなわち、数学と物理の対応づけに問題がある。

射影仮説は、原理的説明が全くない天下り的な仮定である。 そして、その天下り的な仮定を受け入れなければ、計算と現実が一致しない。 清水明(元)教授によれば、 射影仮説は,量子論が,実験事実と合致しかつ無矛盾な理論体系になるために必要 量子測定の原理とその問題点 by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明(元)教授 であり、 射影仮説には,次の2つの役割がある 量子測定の原理とその問題点 by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明(元)教授 とされる。

  • (A)異なる測定値に対応する状態ベクトルの間の干渉をなくす
  • (B)干渉の無くなった2つの状態ベクトルのうちのどちらかを抜き出す

量子測定の原理とその問題点 by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明(元)教授

そして、清水明(元)教授は、射影仮説と同等の天下り的な仮定がなければ次のようになるとしている。

  • 完全な形での(A)を導出することはできない
  • (B)を導出することは不可能

つまり、天下り的な仮定が量子力学の理論には必須であるとしたのである。 天下り的な仮定を気持ち悪いから排除しようとする試みは昔から多数なされてきた。 しかし、清水明(元)教授が説明されているように、その試みは成功した試しがない。

Masahiro Hottaは(A)の不完全性には目を瞑り、主観的認識が生み出す架空の現象と定義することで(B)を天下り的ではない必然的な仮定にしようと試みた。 そうした試みは多世界解釈特有のものである。 しかし、Masahiro Hottaは多世界解釈を頑なに否定した。 その結果、Hotta解釈には後に示す3つの大きな欠陥が発生している。

  • 分岐先毎の差異を観測者毎の差異に偽装している
  • 射影仮説以外に非ユニタリー的時間発展を導入している
  • 古典力学が量子力学のマクロ極限と全く違う

もちろん、このような欠陥は標準理論にも多世界解釈にも存在しない。

現実的な量子測定理論 

「いつ」波動関数が収縮するのかは、まず観測者を指定する必要があります。 それはフォンノイマン鎖の話になります。 所謂ハイゼンベルグ切断の時刻以降では、マクロな多数の観測者たちや測定器の重ね合わせ状態が生じるだけで、それを観測する観測者ははいくらでも後に置くことができます。

2021年1月31日午後0:31(Masahiro Hotta) - twitter

清水明(元)教授によれば、理想測定と見做せるHeisenberg cut(「ハイゼンベルグ切断」)より「左側を量子系として、量子論の諸原理を適用する」として、それよりも測定系側にcutを動かしても結果は変わらないと説明されている。 つまり、理想測定と見做せるHeisenberg cutより測定系側は測定結果に影響を与えないのである。 言い換えると、理想測定と見做せるHeisenberg cutよりも測定系側があってもなくても結果は変わらない。 ということは、理想測定と見做せるHeisenberg cutよりも後ろ側にいる限り、観測者の有無は結果に影響を与えない。

そもそも、「ハイゼンベルグ切断」は「フォンノイマン鎖」の帰結である。 そして、John von Neumannは 物心平行論(Prinzip_vom_psycho-physikalishen_Parallelismus)は科学的世界観にとって基本的な要請である 「量子力学の数学的基礎」(ISBN-10:4622025094,ISBN-13:978-4622025092,著:J.v.ノイマン,訳:井上健・広重轍・恒藤敏彦)P.333 として、実験系と測定系の境界を任意の場所に設定できるとした。 それらを前提として考えるなら、その前提に反する仮定に固執する理由はない。 すなわち、「ハイゼンベルグ切断」によって物心平行論に反する仮定を排除できるならば、「物心平行論は科学的世界観にとって基本的な要請である」に従って物心平行論に沿って考えるのが妥当である。

以上は、最初の観測者も後ろの観測者も同じである。 よって、「観測する観測者ははいくらでも後に置くこと」をしても、理想測定と見做せるHeisenberg cutより後ろ側である限り、「『いつ』波動関数が収縮するのかは、まず観測者を指定する必要があります」が成立し得ない。 確かに、最初の観測者にとっての結果が確定していても、後ろの観測者にとっても最初の観測者から情報を得るまで結果は確率現象となるが、それは量子力学的確率ではない。 最初の観測者にとっては量子力学的確率であっても、後ろの観測者にとっては最初の観測者が観測した結果を確認、すなわち、既に確定している結果を確認するに過ぎないのだから、これは古典力学的確率に過ぎない。 確かに、「マクロな多数の観測者たちや測定器の重ね合わせ状態」はウィグナーの友人などで言及されている。 しかし、現代量子力学ではこのような問題が生じないことが明らかになっている。 古い時代の知識に固執して「知識のアップデート」ができていないのはMasahiro Hottaの方ではないか。 Hotta解釈では量子力学的確率と古典力学的確率が同じものだと主張している(後述)ので、Masahiro Hottaはそこに不自然さを感じないのかもしれない。 しかし、「マクロな多数の観測者たちや測定器の重ね合わせ状態」の明確な矛盾があり、それを以下に示す。

例えば、シュレーディンガーの猫において、アリスが猫を観測し、[猫を観測するアリス]をボブが観測するケースで考えてみると良い。 これはウィグナーの友人の原型である。 次のような量子サイコロを考えた方が単純かもしれない。

量子サイコロ
測定結果は観測者によらない 測定結果が観測者によって違う
他人の測定結果を知ることが可能hotta解釈不成立検証可能
他人の測定結果を知ることは不可能前提の自己矛盾検証不可能

Hotta解釈が検証可能、かつ、成立し得るには、測定結果が観測者によって違い、かつ、他人の測定結果を知ることが可能でなければならない。 しかし、有史以来、測定結果が観測者ごとに違うことが実証された事例はない。

Hotta解釈の欠陥 

分岐先毎の差異を観測者毎の差異に偽装 

以下、Hotta解釈の定義部分の詭弁を明らかにする。

図1のように、空間的に離れた2個の電子スピンA、Bの量子もつれ状態を考えよう。

図1


次にアリスがAのスピンを測定することを考えよう。 アリスは50%の確率で+の状態を観測し、50%の確率でーの状態を観測する。 1回の測定で、アリスは+かーかのどちらか一方の結果だけを"体験"し、その結果を自分の脳に記憶する。 図2ではアリスは+を観測し、「確かに+が出た。」と記憶している。

図2


しかし現代的コペンハーゲン解釈において、「ボブにとっての」量子状態は異なるのだ。 ボブがアリスに測定結果を聞いたり、または自分のスピンBを測ったりしなければ、ボブにとってアリスの測定行為はシュレーディンガー方程式で記述される「マクロなユニタリー過程」に過ぎない。 ボブにとっては、スピン系はアリスというマクロな量子系と組んで、図3のような量子的もつれ状態にある。

図3

波動関数の収縮はパラドクスではない。 - Quantum Universe

論理的思考力のある人ならこの一連の主張に違和感を持つだろう。 結論を言えば、これは、結果に影響を及ぼし得る要因が複数ある時に、そのうちの一つの要因のみを殊更に強調して、かつ、他の要因から目を逸らさせることで原因を誤認させる詭弁手法である。

原因のすり替え 

確かに、次の二つは数学的には違う記述とすることができる。

  • AやBと相互作用済のアリスから見たアリスの波動関数
  • AやBと未相互作用のボブから見たアリスの波動関数

一方で、同じ記述とすることもできる。 どちらが正しいかは科学的には決着できない。 どちらを選ぶかは主義主張の問題であって科学の問題ではない。 以下、違う記述を採用する前提で話を進める。

先の二つの波動関数の違いが生じる原因は何か? 両者には次のような違いがある。

  • AやBとの相互作用が済んでいるかどうか(結果が分岐済であるかどうか)
  • 観測者がアリスであるかボブであるか

波動関数に差異が生じる原因は明らかに前者である。 ところが、Masahiro Hottaは、後者を殊更に強調し、かつ、前者から目を逸らさせることで、あたかも後者が原因であるかのように偽装している。 以上を詳細に説明する前に「アリス」の定義を明確にしなければならない。

  • 既に「+」側に分岐したアリス
  • 既に「-」側に分岐したアリス
  • 双方のアリスの合成

同様に「ボブ」の定義も明確にしなければならない。

  • 将来「+」側に分岐するボブ
  • 将来「-」側に分岐するボブ
  • 双方のボブの合成

以上を踏まえて、観測者および波動関数の関係を表にする。

番号 観測者 波動関数
既に「+」側に分岐したアリス「+」に確定
既に「-」側に分岐したアリス「-」に確定
双方のアリスの合成「+」と「-」の重ね合わせ
将来「+」側に分岐するボブ「+」になる
将来「-」側に分岐するボブ「-」になる
双方のボブの合成「+」と「-」の重ね合わせ

ここで①の波動関数と⑥の波動関数を違う記述としたとしよう。 問題は、①と⑥の波動関数が違う場合の記述が持つ物理学的意味である。 それは表を見れば一目瞭然であろう。

  • 分岐内容が一致すれば、違う観測者間に波動関数の違いはない
  • 分岐内容が違えば、同じ観測者同士でも波動関数が異なる

つまり、「波動関数は人によって異なって」いるのではなく、どの分岐に属するかで異なるのだ。 ①と⑥の波動関数の差異は、分岐間の波動関数の差異である。 Masahiro Hottaは、これを個人間の波動関数の差異に偽装しているのである。

  • 未分岐→波動関数の収縮なし
  • 「+」側分岐→結果は「+」
  • 「-」側分岐→結果は「-」
多世界解釈の波動関数

虚世界を必要とする解釈 

それでは、「図3のような量子的もつれ状態」とは、一体、何か。 「アリスはAが+の状態にあるという体験」をしたことになっているので、多世界の存在を認めないなら、その時点で上側が測定結果として100%確定し、下側は可能性としてすらこの世から消え去ったのである。

では、現実世界の確定結果である上側と現実世界から消え去った下側の「量子的にもつれた状態」とは、一体、何か。 つまり、Masahiro Hottaは現実世界と虚構世界が「量子的にもつれた状態」を主張しているのである。 これは虚世界解釈(imaginary world interpretation)と呼ぶべきだろう。

清水明(元)教授によれば、次のように説明されている。

  • 「コペンハーゲン解釈を間違って理解し、なんでもかんでも非測定系に直に射影仮説とBornの確率規則を使ってしまうと、実験と合わない場合がある」
  • 「コペンハーゲン解釈を正しく理解し、正しく使えば、(今まで行われた)全ての実験と合う」

Modern Theory of Quantum Measurement and its Applications by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明(元)教授

Hotta解釈は、まさに、間違った適用により、実験と合わなくなったものであろう。 というか、射影仮説そのものを適用した形跡が全くなく、射影仮説の定義から外れる別のものに置き換えようとしていることは明らかである。 Hotta解釈は、射影仮説を採用してないのに、「現代的コペンハーゲン解釈」を自称しているのである。

ニュートン力学にしろ、電磁気学にしろ、相対性理論にしろ、量子力学を除くあらゆる物理理論は認識過程を理論に組み込まない。 その理由は、認識過程が物理で扱う範囲ではないからである。 それなのに、何故、昔の量子力学(の標準理論)では認識過程を理論に組み込んでいたのか。 それは、量子力学が成立した当時、確定過程と認識過程の境界が明らかではなかったからである。 切り離したくても切り離せないから止むなく認識過程を組み込んだのである。 ところが、その後、Heisenberg cutにより確定過程から認識過程を切り離せることが明らかとなった。 そして、John von Neumannが指摘するように、 物心平行論(Prinzip_vom_psycho-physikalishen_Parallelismus)は科学的世界観にとって基本的な要請である 「量子力学の数学的基礎」(ISBN-10:4622025094,ISBN-13:978-4622025092,著:J.v.ノイマン,訳:井上健・広重轍・恒藤敏彦)P.333 。 それ故に、現代的なコペンハーゲン解釈では、理論から認識過程を完全に切り離している。

ところが、Masahiro Hottaは全く逆のことを言う。 認識過程を組み込んだ方が現代的な解釈なのだと。 しかし、物理の定義と歴史的経緯に照らすと、それはあり得ない。

  • 物理の定義に照らせば、物理理論に認識過程を組み込むのは明らかに退化である
  • 「量子力学の数学的基礎」(1932年)の時点では認識過程が切り離せないことが示されている
  • Heisenberg cutにより認識過程を切り離せるようになった

以上を踏まえれば、当然、認識過程を切り離した方が現代的な解釈である。 逆はあり得ない。 認識過程を組み込んだ方こそ旧態依然の解釈である。

Hotta解釈は十分な検証もせずに結論を急ぐ一部の人が支持する意味で「急進的コペンハーゲン解釈」や「先鋭的コペンハーゲン解釈」と呼んでも良いのかもしれない。 しかし、世界中の物理学者の主流解釈になれない以上、「現代的コペンハーゲン解釈」と呼ぶのは誤りである。

「実際ボブがBを測っても+の状態が観測される」謎 

例えばアリスが図2の状況になっていて、ボブは図3の状況になっている場合、ボブがBを測定しても矛盾は起きない。 アリスにとってみればBは必ず+の状態であるが、実際ボブがBを測っても+の状態が観測されるだけだからだ。 ボブにとって50%の確率で+の状態が実現してもいいので、彼も結果に関して特に不思議に思うことはないのである。

波動関数の収縮はパラドクスではない。 - Quantum Universe

なんと、驚くべきことにHotta解釈では「アリスにとってみればBは必ず+の状態」であれば「実際ボブがBを測っても+の状態が観測される」のである。 つまり、Hotta解釈では測定結果は観測者によらないのである。 「1つの量子系に対する波動関数は人によって異なってもいい」のに、何故、アリスとボブの結果が一致するのか。 ボブが観測した場合の波動関数が図3のようになるなら、結果が「+」になるか、それとも、「+」になるかは五分五分のはずである。 それなのに、何故、「実際ボブがBを測っても+の状態が観測される」のか。

例外の更なる謎 

まずこのブログで扱っている設定は、ある時刻になるとアリスが測定をすることを、アリスとボブの両者が事前に了解し合っている(そしてその測定相互作用も知っている)場合に限定している。

波動関数の収縮はパラドクスではない。 - Quantum Universe

「ある時刻になるとアリスが測定をすることを、アリスとボブの両者が事前に了解し合っている(そしてその測定相互作用も知っている)場合」以外は「アリスにとってみればBは必ず+の状態」だった場合に「実際ボブがBを測っても+の状態が観測される」が成立しないとするならば、アリスとボブの測定結果が食い違うことが避けられない。 多世界解釈ならば、アリスにとって「+」となる世界と「-」となる世界がお互いに認識不可能な形で共存する。 そして、前者の世界ではボブにとっても「+」であり、後者の世界ではボブにとっても「-」となる。 つまり、多世界解釈では、アリスとボブの測定結果の一致は同一世界の出来事であり、アリスとボブの測定結果の不一致はお互いに違う世界の出来事となる。 だから、アリスとボブの測定結果が食い違っても、同一世界の出来事とならない限り、辻褄を合わせることができる。 しかし、多世界解釈を否定するならば、アリスとボブの測定結果が食い違うことの辻褄を合わせることができない。 「アリスにとってみればBは必ず+の状態」だった場合に「実際ボブがBを測っても+の状態が観測される」が成立しないなら、量子もつれ特有の相関性が成立しなくなるので実験結果と一致しない。

射影仮説以外の非ユニタリー的時間発展 

以下は、「ある時刻になるとアリスが測定をすることを、アリスとボブの両者が事前に了解し合っている(そしてその測定相互作用も知っている)場合」以外の説明と思われる。

量子論の立場では、人間を含むマクロな量子系でも原理的には同じです。 仮に、孤立したマクロ量子系の星を考えた時、その星のある王朝が滅びた時刻も、量子的に揺らぐのです。 そしてその星を観測した時点で、初めてその星の過去の歴史は1つに定まるのです。 これが量子力学的世界像なのです。

2020年9月22日午前6:51(Masahiro Hotta) - twitter

一方その星の住民にしてみたら、外の観測者とは関係なく確定的な1つの歴史を各時刻に経験し続けている実感があるはずです。 でもその「事実」を外の観測者が知る科学的な方法は測定するまで全くないのがポイントです。 星の外の外部観測者にとっては、その星の沢山の異なる歴史が量子的に重なるのです。

2020年9月22日午前6:52(Masahiro Hotta) - twitter

Masahiro Hottaは次の2つが両立し得ると主張する。

  • 「その星の住民にしてみたら、外の観測者とは関係なく確定的な1つの歴史を各時刻に経験し続けている実感がある」
  • 「星の外の外部観測者にとっては、その星の沢山の異なる歴史が量子的に重なる」

これは、先ほども説明した通り、分岐(世界)間の差異を観測者間の差異に偽装しているだけである。

数学的な説明の欠如 

異なる歴史状態の間の量子的干渉効果を測定することも、量子力学では原理的には可能です。 外部観測者がその星の住民に体験を聞かずに、重ね合わせのまま特定の巨大装置を星全体に作用させると、2重スリット実験のような干渉縞を、ある物理量に関して測定することができるからです。

2020年9月22日午前6:53(Masahiro Hotta) - twitter

星の外の部観測者が持つこの干渉測定実験装置は、星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます。 その結果、干渉実験終了後には、実験前に自分達がどんな歴史を体験したのかをはっきり断定できなくなるのです。 それで全体の話の辻褄が合うようになっています。

2020年9月22日午前6:53(Masahiro Hotta) - twitter

この仮定の最大の問題点は「星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます」過程が全く数学的に説明されていないことである。 例えば、「その星の住民」にとっての測定結果が「+」であって、かつ、「星の外の外部観測者」の測定結果が「-」だったとしよう。 その場合、どのような過程で「その記憶を完全に書き換えてしまいます」のか、すなわち、どのような過程で「その星の住民」にとっての測定結果が「+」が「-」になるのか。 「その星の住民」にとっての測定結果が「+」である場合は次の図のような波動関数になるはずである。

図2

図中のアリスを「その星の住民」と読み替えてもらいたい。 これがどのようにして「-」の結果に相当する波動関数になるのか。 次のいずれも「ユニタリー的に時間発展」と射影仮説だけで記述できる

  • 「その星の住民」主観で「+」の結果が得られる
  • 「星の外の外部観測者」主観で「-」の結果が得られる

しかし、「全体の話の辻褄が合う」ようにするための「星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます」操作、すなわち、「その星の住民」主観の結果を「+」から「-」に置き換える操作は、標準理論では記述できない。

Hotta流世界改変

それを記述するには、従来理論にない新たな仮定が必要となる。 よって、そのような操作を正当化するには射影仮説とは別の天下り的な仮定が必要となる。 新たな仮定を追加するならば、当然、追加するだけの正当な理由が必要である。 しかし、Masahiro Hottaは、そうした正当な理由を何も示していない。 そもそも、Masahiro Hottaは、こうした過程の数学的記述方法すら明らかにしていない。

もちろん、「星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます」がMasahiro Hottaの勘違いで、実際にはそのような現象がないなら、「ユニタリー的に時間発展」ではない過程は必要ない。 しかし、勘違いではなく本当に「星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます」なら、これは言い訳する余地もなく、「ユニタリー的に時間発展」ではない過程となる。 また、勘違いだとすれば「ある時刻になるとアリスが測定をすることを、アリスとボブの両者が事前に了解し合っている(そしてその測定相互作用も知っている)場合」以外の説明に窮するだろう。

例えば、多世界解釈なら、「星の外の外部観測者にとっては、その星の沢山の異なる歴史が量子的に重なる」としても「全体の話の辻褄が合う」ようにするために「星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます」必要は全くない。 何故なら、多世界解釈では「その星の沢山の異なる歴史」がお互いに不干渉な状況で永久に並存する、すなわち、「その星の住民」も「星の外の外部観測者」も、例外なく「+」世界と「-」世界に分岐するからだ。 そして、「+」世界では「その星の住民」も「星の外の外部観測者」も測定結果は「+」で一致し、「-」世界では「その星の住民」も「星の外の外部観測者」も測定結果は「-」で一致する。 このように、「その星の沢山の異なる歴史が量子的に重なる」ことにしても、多世界解釈のそのままの形で「全体の話の辻褄が合う」のであり、「星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます」操作を導入する必要がない。 言い換えると、「星の外の外部観測者にとっては、その星の沢山の異なる歴史が量子的に重なる」仮定を導入しているのに多世界解釈を否定するから、「星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます」などとの仮定が必要になるのである。

検証不可能性 

今回は、「その星の住民」が「確定的な1つの歴史を各時刻に経験し続けている実感がある」場合には、「星の外の外部観測者にとっては、その星の沢山の異なる歴史が量子的に重なる」だけでなく、「星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます」とまで言っている。 これでは、完全に消え去ってしまった虚構世界を何らかの細工によって現実として復活させることが可能になる。 このような突拍子もないことを主張するなら、それを実験等でちゃんと実証すべきだろう。 でなければ、この後で紹介する隠れた変数理論や多世界解釈に対する批判がそのままMasahiro Hotta本人に跳ね返ってくる。

百歩譲って、「星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます」を認めれば次のような不合理が生ずる。

  • あらゆる科学が意味を為さなくなる
  • その仮定の真偽を検証することが原理的に不可能

ある医薬品候補物質の臨床試験を実施したとしよう。 そして、その結果、有意差が出て医薬品が有効だと判断できたとしよう。 しかし、その1秒後、その記録も記憶も「有意差なし」に変わってしまったらどうだろうか。 その場合、変わる前が正しいのか、それとも、変わった後が正しいのか、一体、どちらが正しいのか。 言うまでもなく、変わる前と変わった後の優劣をつけることはできない。 それでは、記録や記憶が変わる前においても、変わった後においても、どちらにおいても、有効性は流動的でその判断には信頼性がないことになる。 さらに、その1秒後、その記録も記憶も、その逆(つまり元通り)に変わってしまったらどうか。 これは創薬以外の分野でも全く同じである。 ある科学的仮説が正しいことが証明されたその1秒後に、記憶や記憶が180°変わって間違いを証明したことになったらどうか。 それでは、どんな証明方法を用いてもあらゆる科学的仮説の真偽を検証することは不可能となる。

アリス自身は、自分の記憶も変わるから、変わる前のことは憶えていない。 記録も変わるから、記録上も変わる前のことは残っていない。 ボブに聞いても、変わってないと言うだろう。 何故なら、「その星の過去の歴史は1つに定まる」のであれば、ボブの記憶もアリスの記憶と矛盾しない内容に変わっているからである。 そして、ボブの手元の記録も、アリスの手元の記録と同様に、変わる前のことは残っていない。 記憶も含めた全ての記録がお互いに矛盾のないようにゴッソリ変わるなら、変わった証拠を見出すことは不可能である。

以上の通り、「星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます」仮説は、科学的に検証不可能なのだ。 よって、この後で紹介する隠れた変数理論や多世界解釈に対する批判がそのままMasahiro Hotta本人に跳ね返ってくる。

量子力学のマクロ極限とならない古典力学 

量子力学的確率と古典力学的確率の違い 

質問:「量子力学、何を考えてて、何を求めてんのかがわかんない」

回答:「位置も運動量も決まっている粒子のような局所的な実在は存在しないことが実験で分かったので、そういう実在が決して出てこない理論を考えてて、実験で計測できる観測値の出現確率を求めるのが、量子力学。」

2021年2月12日午前10:51(Masahiro Hotta) - twitter

ご本人が、位置や運動量のような可観測量は決まった値を持たないと認めている。 にも関わらず、測定すると決まった値が得られる。 決まった値を持たないものを測定すると、何故か、決まった値が出てくるのである。 それが波動関数の収縮(射影仮説)に該当する。

一方で、従来の古典力学的な確率にはラプラスの悪魔を適用できる。 古典力学によれば、周辺環境も含めた初期値(位置、速度、回転、弾性、形状、その他)は一意の値を持ち、それらが決まれば結果も一意に決まる。 もちろん、初期値の測定には誤差があるし、計算式も完全ではないことがあるので、結果を人間が正確に予測できるとは限らない。 しかし、それらの誤差要因がなければ結果を正確に予測可能である。 そして、科学技術が発展すればするほど、予測精度も向上するはずである。 当然、ラプラスの悪魔の予測にまで完全に到達できるとは限らない。 ある程度以上は近づけない限界はあろう。 しかし、その限界点とラプラスの悪魔の予測の差が、誤差が無視できない程大きいと考える妥当な理由は何もない。 例えば、限界の原因として量子揺らぎが考えられるが、後述(サイコロの項目参照)するように、古典力学ではそれが無視できないほど大きな誤差を生むとは考えにくい。 と考えれば、現在の技術では正確に予測できなくても、将来の技術では極めて正確に予測し得る。 技術力次第で極めて正確に予測し得るなら、当然、結果はほぼ決まっているはずである。 よって、理論的にはラプラスの悪魔を仮想することに問題があるとは言えまい。

以上まとめると次のようになる

  • 量子力学的な確率は測定前には決まっていない
  • 古典力学的な確率は測定前に決まっている

つまり、量子力学的な確率と古典力学的な確率は全く性質が違う。

Hotta流「波動関数の収縮」 

量子力学の一般解説でほぼ必ず登場する二重スリット実験がありますよね。 1個1個の電子をばらばらと図のような2穴スリットを通すと、沢山の電子が衝突した後のスクリーンには波のような干渉縞が起きる実験です。

2016年12月4日午後4:48(Masahiro Hotta) - twitter

一方、どちらの穴を通ったかを測る測定器を置くと、同じように電子を投げても、干渉縞が消えてしまうという実験です。

2016年12月4日午後4:49(Masahiro Hotta) - twitter


測定器と電子の相互作用によって、系の波動関数は|Ψ>=|電子は上の穴を通過>|電子が上にいると測定器が記録>+|電子は下の穴を通過>|電子が下にいると測定器が記録>という純粋状態になるだけで、(電子+測定器)の全体としては、波動関数に収縮は起きていないのです。

2016年12月4日午後5:02(Masahiro Hotta) - twitter

この|Ψ>という状態で電子だけの状態に注目すると、上の穴を通った状態としたの穴を通った状態の古典的な混合状態になるので、スクリーン上の干渉縞が消えてしまうのです。 波動関数の収縮は起きていないのです。

2016年12月4日午後5:04(Masahiro Hotta) - twitter

より正確にはスクリーンと電子の相互作用も考えるべきでして、何回も実験した最後には(電子+測定器+スクリーン)の全体が純粋状態になってます。

2016年12月4日午後5:10(Masahiro Hotta) - twitter

つまり(電子+測定器+スクリーン)の全体系が|電子は上の穴を通過>|電子が上にいると測定器が記録>|スクリーン上部に電子が到着>+|電子は下の穴を通過>|電子が下にいると測定器が記録>|スクリーン下部に電子が到着>という純粋状態になっているわけですが。 結果は同じで干渉縞は消えます

2016年12月4日午後5:11(Masahiro Hotta) - twitter


波動関数の収縮は系に関する知識の増加に過ぎないので、意識をもつ主体がいて初めて起きます。 観測者が重ね合わせの中のただ1つの成分を経験することが波動関数の収縮なんです。 今の場合、デコヒーレンスで生じた混合状態の中からただ1つの成分だけが抜き出される過程こそが、波動関数の収縮。

2016年12月4日午後5:17(Masahiro Hotta) - twitter

世間に流布している多世界解釈の理解に対する誤解の指摘も含めて、この波動関数の収縮については下記記事を参照してみて下さい。

2016年12月4日午後5:19(Masahiro Hotta) - twitter

Masahiro Hottaは次の3つの状態があると主張している。

  1. 並存していて、かつ、互いに干渉性がある状態
  2. 並存していて、かつ、互いに干渉性がない状態(「古典的な混合状態」)
  3. 値が確立して、かつ、互いに干渉性がない状態

そして、1番目から2番目への遷移はデコヒーレンスによって起き、2番目から3番目への遷移は意識をもつ主体の認識によって起きるとされる。 標準理論には2番目と3番目を区別する理論はない。 清水明(元)教授によれば「射影仮説には,次の2つの役割がある」とされる。

  • (A)異なる測定値に対応する状態ベクトルの間の干渉をなくす
  • (B)干渉の無くなった2つの状態ベクトルのうちのどちらかを抜き出す

量子測定の原理とその問題点 by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明(元)教授

標準理論には(A)の過程と(B)の過程を分離する理論はない。 よって、標準理論では次の2つの状態しかない。

  1. 並存していて、かつ、互いに干渉性がある状態
  2. 値が確立して、かつ、互いに干渉性がない状態

繰り返すが、それに対して、Hotta解釈には次の3つの状態がある。

  1. 並存していて、かつ、互いに干渉性がある状態
  2. 並存していて、かつ、互いに干渉性がない状態(「古典的な混合状態」)
  3. 値が確立して、かつ、互いに干渉性がない状態

「1つの量子系に対する波動関数は人によって異なってもいい」とするならば、(A)と(B)のいずれか、あるいは、双方が主観的な過程である必要がある。 もしも、(A)を主観的過程とすれば、観測者によって、干渉性の有無に違いが生じる。 そうすると、例えば、二重スリット実験では観測者によって干渉縞が生じたり生じなかったりする。 しかし、これは明らかに現実の実験結果と一致しない。 であれば、「1つの量子系に対する波動関数は人によって異なってもいい」とするならば、(A)を客観的過程とし、かつ、(B)を主観的過程とする必要がある。 それならば、(A)の過程と(B)の過程を分離せざるを得ない。 以上の通り、「1つの量子系に対する波動関数は人によって異なってもいい」とする以上、3つの状態に分けることは不可欠となる。

ご本人の先ほどの説明から、Hotta解釈における1番目の状態が値が確定していないとの認識であることは疑いの余地がない。 問題は2番目の「古典的な混合状態」である。 先ほども説明した通り、従来の古典力学の常識では、複数の可能性の並存は概念的なものにすぎない。 初期値の精度や計算式の不備によって結果が予測できないが故に複数の可能性としてしか言及できないだけである。 Hotta解釈における「古典的な混合状態」のような複数の結果が現実に並存することは従来の古典物理学の常識ではあり得ない現象である。 それは、一体、物理的にどのような状態なのか。 そして、2番目から3番目への遷移、すなわち、(B)の過程はどのような物理的現象なのか。 それらをMasahiro Hottaは一言も説明していない。

標準理論の射影仮説では、可観測量を測定すれば(B)の過程が発生することが天下り的に仮定されているだけで、(B)の過程がどのような物理現象かは説明されない。 定量的にも定量的にも全く説明がなく、天下り的に仮定を置いているだけなので、射影「仮説(公準)」と名乗っている。 標準理論の射影仮説は、それが説明できない天下り的仮定であることを認めており、詭弁を用いて誤魔化したりはしない。 一方で、Hotta解釈では、(B)の過程が説明できない天下り的仮定であることを認めていない。 次に示すサイコロの例で(B)の過程を古典力学における認識過程と同じだと言い張っているが、それは古典力学における認識過程とは似ても似つかぬものである。 つまり、Hotta解釈における(B)の過程は全く説明がつかない得体の知れない代物なのだが、詭弁を用いてあたかも説明がついているかのように偽装しているのである。

古典力学を確率的非決定論に作り替えている 

さて、Masahiro Hottaは本気で全く新しい画期的な大発見を提唱したのか。 それは次のサイコロの説明から読み取れる。

「系を観測をすると、その波動関数(または状態ベクトル)は収縮し、その変化はシュレディンガー方程式に従わない」と聞いて、前世紀の「観測問題」に目覚めてしまって、「波動関数とは?収縮とは?」と懊悩してしまっている物理学徒は、まず箱の中の古典的なサイコロの目の確率を考察してみて下さい。

箱の中の古典的なサイコロの目の確率

2020年10月19日午前9:46(Masahiro Hotta) - twitter

各目の出る確率は1/6で、一様分布でしたが、箱をとってサイコロを観測して3の目が出ていれば、確率分布は3の目にだけ集中して他の目は零になります。 これが「確率分布の収縮」であり、そして当たり前ですが、この確率変化はニュートン方程式に従いませんよね。

箱をとってサイコロを観測して3の目が出る

2020年10月19日午前9:49(Masahiro Hotta) - twitter

波動関数や状態ベクトルは、物理量の確率分布の集合と数学的に等価な概念に過ぎません。 ですから古典的なサイコロでも起きた「確率の収縮」が「波動関数の収縮」に対応するわけで、不思議なことでもありません。 知識、情報の増加でしかない「収縮」はシュレディンガー方程式を満たすわけがないのです。

波動関数と確率分布

2020年10月19日午前9:53(Masahiro Hotta) - twitter


これは量子であろうと古典(含む隠れた変数理論)であろうと同じで、確率の概念そのものに「収縮」が内在していることを説明する例です。 問題はありません。

2020年10月20日午後5:37(Masahiro Hotta) - twitter


古典的なサイコロでもそれを観測した人にとって確率分布は収縮するので意識は必要ですよね。 例えば、箱の中を見ていない人にとってはまだ確率分布の収縮は起きないので、観測者依存性は古典でもあるわけです。

2020年10月20日午後5:51(Masahiro Hotta) - twitter


一般に確率には意識の存在は不可欠で、それで収縮が起きるのですから。

2020年10月20日午後6:08(Masahiro Hotta) - twitter

これによれば、Hotta解釈における「古典的な混合状態」(複数の結果が現実上で並存する状態)は、ミクロに起因する現象だけでなく、純マクロ現象においても発生することになる。 つまり、Hotta解釈では、サイコロの目のような純マクロの確率現象においても、意識による認識があるまで複数の結果が(サイコロの目の場合は等確率で)現実として併存することになる。 よって、Hotta解釈は、従来の古典力学の常識を完全にひっくり返している。

当然のことながら、(少なくともマクロ現象においては)現実に存在する情報には客観性がある。 客観的に存在しない情報を主観的に認識したら、それは、現実ではなく創作である。 そして、物理学である以上、創作ではなく現実の話である。 であれば、主観的に情報を認識する前に客観的な情報が発生しているはずである。 事実、サイコロの場合では、どの目が出るかの客観的情報は「箱をとってサイコロを観測」する前から存在する。 ここでサイコロにおける状態を次の4つに分類しよう。

回転状態
サイコロが十分な回転をしている状態
不安定状態
ある目と別の目の中間的な姿勢で静止しかけた状態
安定状態
回転状態や不安定状態に移行するだけの運動エネルギーを失った状態
静止状態
ほぼ静止したと見做せる状態

当然のことだが、サイコロの目の観測は安定状態か静止状態でしか行えない。 ラプラスの悪魔が計算して3の目が予測される時、100%に近い確率で3の目が出る。 量子揺らぎの影響を無視すれば、的中率は100%となる。 例えば、次の図のような姿勢で静止しかけた状態(不安定状態)を考える。

古典的なサイコロへの量子揺らぎの影響

この時点でラプラスに予測できないわずかな力を加えれば、ラプラスの悪魔の予測を覆すことができる。 予測を覆すために必要な力は、その時のバランスによって千差万別である。 非常に確率としては低いが、量子揺らぎ程度でもラプラスの悪魔の予測を覆せるケースも発生し得よう。 であれば、その結果、ラプラスの悪魔が計算して3の目が予測される時も、3と隣接する1,2,5,6の目が出る確率が僅かながら存在する。 さらに、それよりも遥かに低い確率で裏側の4の目が出る可能性も存在する。

量子揺らぎを考慮した古典的なサイコロの目の確率

対数目盛で描いているのでラプラスの悪魔の予測が外れる確率が大きめに見えるが、実際はほとんどゼロである。 もちろん、ラプラスの悪魔が計算した値は1〜6のいずれかになるから、全ての計算値における平均を取ると全ての目の確率は均等となる。 しかし、1回の試行のみに限定すれば、古典力学ではほぼ100%計算値どおりになる。

マクロにおける量子的性質に示す通り、40kgの物体では「10⁻²⁰メートルの幅で量子的ゆらぎ状態」(水素原子の大きさの約100億分の1)しかない。 サイコロはもう少し小さいので、もう少し揺らぎの幅は大きいだろうが、それでも、安定状態を回転状態や不安定状態に移行するには不十分である。 また、言うまでもなく、熱雑音などでも安定状態を回転状態や不安定状態に移行するには不十分である。 よって、安定状態に移行すれば、それ以降のサイコロの目は確定する。 箱を取った後に、もう一度そっと箱をかぶせ、再び、そっと箱を取っても、サイコロに力を加えない限り、目が変わることはない。 このサイコロのようなマクロの現象では、少なくとも安定状態以降には、サイコロの目の客観的情報が存在している。 そして、サイコロの目の観測が安定状態か静止状態で行われるなら、観測前にサイコロの目の客観的情報が存在することに疑いの余地はない。 その既にある客観的情報を「箱をとってサイコロを観測」することによって主観的に認識するのである。

一方で、Hotta解釈では「箱をとってサイコロを観測」する前にはどの目が出るかの客観的情報が存在しないことになっている。 そして、Hotta解釈では「箱をとってサイコロを観測」することでその主観的情報が発生することになっている。 しかし、既に説明した通り、物理学である以上、主観的に情報を認識する前に客観的な情報が発生しなければならない。 ということは、Hotta解釈では「箱をとってサイコロを観測」することで客観的情報が発生することになる。 それなのに、その客観的情報が発生する過程についての説明が一切ない。 主観的情報の元になる客観的情報の存在から意識を逸らすことで重要な問題を闇に葬っているのである。

意識による認識があるまで複数の結果が(サイコロの目の場合は等確率で)現実として併存しているかどうかは容易に検証可能である。 例えば、放出時の運動を制御することで任意の目を出す八百長サイコロ機械が作ってみよう。 人間の手を模した機械を用いて、任意の目が出るように初速度や初期回転運動を電子制御してサイコロを放り投げる。 できれば、回転数は一定以上にした方が望ましい。 ただし、放出後に磁石等で結果を変えるイカサマは禁止である。 従来の古典力学の理論では、全ての初期変数が確定していれば、どの目が出るかは予測可能である。 だから、全ての初期変数を正確に制御できれば、任意の目を自由自在に出すことが可能となる。 一方で、Hotta解釈では、サイコロの確率が量子力学的確率に支配されるので、このような八百長サイコロ機械は作れないはずである。 だから、このような八百長サイコロ機械を作ることができれば、サイコロの確率が量子力学的確率に支配されていないことを示せる。 Hotta解釈の誤りは機械工学の粋を集めれば証明可能なのである。

Hotta解釈が解決しようとした問題は、数学的な様式美に過ぎない。 そのために、既に説明した通り、論理のすり替えを行なって「1つの量子系に対する波動関数は人によって異なってもいい」ことにした。 さらに、その辻褄を合わせるために「波動関数の収縮」を2つの過程に分離した。 しかし、物理学的には、干渉性の喪失過程と結果の確定過程を分離する必要性は全くない。 干渉性が失われている以上、それと同時に観測されない結果が消失したとしても物理学的には何の問題もない。 仮に、観測されない結果が消失しないとしても、多世界解釈のように、客観世界でのみ複数の結果が永久に並存するのであれば、結果の確定過程を別途用意する必要はない。 一方で、Hotta解釈では、結果の確定過程を古典力学に理不尽な皺寄せをすることになる。 しかし、結果の確定過程を量子力学の外側に追いやったとしても、干渉性の喪失過程は量子力学の外側に追いやることはできない。 干渉性の喪失過程が残るのであれば、結果の確定過程を分離して、それを古典力学に理不尽な皺寄せする必要がどこにあるのか。 純粋に物理学的な都合では、干渉性の喪失過程と結果の確定過程を一体化したとしても何も問題はないはずである。 数学的な様式美のためだけに、古典力学を確率的非決定論に作り替えるのは本末転倒であろう。 そもそも、そんなに数学的な様式美が大事なら、素直に多世界解釈を採用すれば良い。 古典力学を確率的非決定論に作り替えてまで虚世界解釈を構築する必要性はどこにもない。

多世界解釈であれば、(B)を純粋な物理現象として扱うことができるので、「波動関数の収縮」に認識過程を持ち込む必要がない。 多世界解釈ならば、「+」世界では、認識過程を経る前に「+」になることが確定しており、その結果が分からないだけである。 同様に、「-」世界では、認識過程を経る前に「-」になることが確定しており、その結果が分からないだけである。 そして、「+」世界に分岐した観測者の片割れが「+」の結果を測定し、「-」世界に分岐した観測者のもう一方の片割れが「-」の結果を測定する。 だから、結果確定以降の過程は、結果を認識する過程を含めて、何ら従来の古典力学と変わりない。 このように、多世界解釈は、Hotta解釈のように数学的な様式美を追求しつつも、Hotta解釈のような古典力学への無理な皺寄せは必要ない。 よって、多世界解釈は、科学的仮説として扱って差し支えない。 一方、既に説明した理由により、Hotta解釈は科学的仮説の体を成していない。

その他 

「意識を持った人間」 

「意識がないと仮定して計算した場合と量子力学は同じ結果を与えます」 

(2)意識を持った人間が仮定されるのは不備?: それも問題になりません。 まず自分以外の人間が本当に意識を持っているのか、それとも単なる機械のAIなのかを区別する方法がないためです。 これは実証科学の俎上に載らず、単なる不良設定問題です。 量子力学固有の話ではなく、それは科学全般の話です。

2022年1月13日午前7:44(Masahiro Hotta) - twitter

もし仮にAIや測定器が意識をもって、波動関数の収縮を起こすとしても、それらが意識がないと仮定して計算した場合と量子力学は同じ結果を与えます。 また人間の場合でも同様です。 つまり量子力学は特に人間だけを優遇しません。これについては下記もご参考にしてください。

2022年1月13日午前7:45(Masahiro Hotta) - twitter

「自分以外の人間が本当に意識を持っているのか、それとも単なる機械のAIなのかを区別する方法がない」が何を言いたいのか意味不明である。 「意識をもって、波動関数の収縮を起こすとしても、それらが意識がないと仮定して計算した場合と量子力学は同じ結果を与えます」なら、「波動関数の収縮」が意識とは無関係に生じるだけである。 であれば、「自分以外の人間が本当に意識を持っているのか」を確認する必要もないし、「機械のAI」について言及する必要もない。

「『いつ』波動関数が収縮するのかは、まず観測者を指定する必要があります」 

「いつ」波動関数が収縮するのかは、まず観測者を指定する必要があります。 それはフォンノイマン鎖の話になります。 所謂ハイゼンベルグ切断の時刻以降では、マクロな多数の観測者たちや測定器の重ね合わせ状態が生じるだけで、それを観測する観測者ははいくらでも後に置くことができます。

2022年1月13日午前7:46(Masahiro Hotta) - twitter

ですから「いつ」波動関数が収縮するとかと問いたければ、「どの観測者にとって?」という部分を最初に明確化する必要があります。

2022年1月13日午前7:46(Masahiro Hotta) - twitter

「それを観測する観測者ははいくらでも後に置くことができます」とは、数学的にそう記述することも可能なだけにすぎない。 そして、「ハイゼンベルグ切断」(Heisenberg cut)は、「『いつ』波動関数が収縮するのかは、まず観測者を指定する必要」がないことを示している。 何故なら、既に説明した通り、「ハイゼンベルグ切断」を考慮すれば、「それを観測する観測者」を完全に切り離しても結果がほぼ変わらないからである。 であれば、「それを観測する観測者」がいる場合に「波動関数が収縮する」ならば、「それを観測する観測者」がいなくても「波動関数が収縮する」ことになる。 よって、「波動関数が収縮する」ために「それを観測する観測者」は不要である。 さらに言えば、「『いつ』波動関数が収縮するのかは、まず観測者を指定する必要」があると考えれば、現実離れした非常に奇妙な現象になってしまう。 しかも、そのような現象が実際に起きている証拠は何もない。

そもそも、「ハイゼンベルグ切断」は「フォンノイマン鎖」の帰結である。 そして、John von Neumannは 物心平行論(Prinzip_vom_psycho-physikalishen_Parallelismus)は科学的世界観にとって基本的な要請である 「量子力学の数学的基礎」(ISBN-10:4622025094,ISBN-13:978-4622025092,著:J.v.ノイマン,訳:井上健・広重轍・恒藤敏彦)P.333 として、実験系と測定系の境界を任意の場所に設定できるとして「フォンノイマン鎖」を導いている。 それらを前提として考えるなら、その前提に反する仮定に固執する理由はない。 すなわち、「ハイゼンベルグ切断」によって物心平行論に反する仮定を排除できるならば、「物心平行論は科学的世界観にとって基本的な要請である」に従って物心平行論に沿って考えるのが妥当である。 以上により、記述通りの物心平行論に反する現象が起きていると考える合理的理由はない。

それでも、前提に反する仮定に固執するのであれば、前提そのものである「フォンノイマン鎖」や「ハイゼンベルグ切断」の再検証が必要である。 Masahiro Hottaは、どの雑誌で査読された科学論文でそのような検証をしたのか。

やはり、検証不可能 

観測者を指定すれば、初期時刻から波動関数が収縮する時刻までにかかる時間間隔の量子的な期待値や確率分布を計算することが、コペンハーゲン解釈では原理的に可能です。

2022年1月13日午前7:46(Masahiro Hotta) - twitter

波動関数の収縮を意識する第1観測者と対象系とシグナルのマクロな合成系を外部で観測できる第2の観測者を設定して、この合成系全体のシュレディンガー方程式を解析すれば、第1観測者の脳が波動関数の収縮を意識した時刻の確率分布を計算できるわけです。

2022年1月13日午前7:47(Masahiro Hotta) - twitter

十分に時間が経った後に、第2観測者が第1観測者にいつ波動関数が収縮したのかを聞くということを繰り返せば、収縮時刻の確率分布と期待値も原理的には実験でも計測できるわけです。 計算もコペンハーゲン解釈でできますし、その計測も原理的には可能なわけです。

2022年1月13日午前7:47(Masahiro Hotta) - twitter

「波動関数が収縮しているときに時間がかかるのか、かからないのか?」も、標準的な量子力学の範疇で答えが出る問題です。 答えは「かかる」でして、その時間間隔は量子的に揺らいで確率分布をしています。 その平均値は脳の中での信号伝達時間程度だと考えられます。

2021年10月23日午後0:23(Masahiro Hotta) - twitter

2022年1月13日午前7:48(Masahiro Hotta) - twitter

Masahiro Hottaは、「脳が波動関数の収縮を意識した時刻」と「波動関数が収縮する時刻」が一致する仮定を置いているのだろうか。 「その平均値は脳の中での信号伝達時間程度」との主張からは、両者の時刻が一致する仮定を置いていると読み取れる。

もちろん、これは、先ほどの「意識をもって、波動関数の収縮を起こすとしても、それらが意識がないと仮定して計算した場合と量子力学は同じ結果を与えます」との説明と明確に矛盾する。 何故なら、「意識がないと仮定して計算した場合」には「脳が波動関数の収縮を意識した時刻」は存在しないからである。 「脳が波動関数の収縮を意識した時刻」が存在しなくても「同じ結果を与えます」、すなわち、「波動関数が収縮する」なら、「波動関数が収縮する時刻」の特定に「脳が波動関数の収縮を意識した時刻」は不要なはずであろう。

仮に、「脳が波動関数の収縮を意識した時刻」と「波動関数が収縮する時刻」が一致する仮定で計算したとする。 その場合、第1観測者と第2観測者の「収縮する時刻までにかかる時間間隔の量子的な期待値や確率分布」に重複しないとしても、それは両者の「波動関数が収縮する時刻」が違う証拠にはならない。 何故なら、証明事項が正しいことを仮定したうえで、その証明事項が正しいという結論を導いているだけだからである。 そして、証明事項が間違っていることを仮定しても、その証明事項が間違っている結論が導ける。 例えば、「波動関数が収縮する時刻」が客観的であると仮定すれば、第1観測者と第2観測者の「収縮する時刻までにかかる時間間隔の量子的な期待値や確率分布」が完全に重複する結論を導けるのである。 よって、「脳が波動関数の収縮を意識した時刻の確率分布」に基づく推論は、明らかな循環論法であるので、何ら科学的証明にならない。

いくら「脳が波動関数の収縮を意識した時刻」を測定しても、未証明の仮定を置かない限り、「波動関数が収縮する時刻」を求めることはできない。 そして、既に説明した通り、Masahiro Hottaの言う「収縮時刻の確率分布と期待値」とやらは、証明しようとする仮定から計算した値であるので、その値を用いても循環論法になるだけで何の証明にもならない。 よって、このような実験をしても第1観測者と第2観測者の「波動関数が収縮する時刻」の違いを示すことは原理的に不可能である。

何が言いたいか全く意味不明 

(4)標準的なコペンハーゲン解釈の量子力学だと観測者がいなかったビッグバンの頃の量子性はどう説明するのか? これも問題ありません。 ビッグバンがあったという史実は宇宙背景輻射という「量子的歴史書」に書き込まれているだけで、その歴史書を現在の観測者が測定機で読み解いているだけです。

2022年1月13日午前7:49(Masahiro Hotta) - twitter

観測者も地球も存在しなかった頃の時代の量子的現象が研究できるのも、量子情報としてなんらかの量子系に書き込まれて保存されていたためです。 その「歴史書」としての量子系を今の我々が様々な測定装置で調べて解析をするのですから、その過程はコペンハーゲン解釈の量子力学できちんと記述できます。

2022年1月13日午前7:50(Masahiro Hotta) - twitter

これは何が言いたいか全く意味不明である。 何故なら、「意識をもって、波動関数の収縮を起こすとしても、それらが意識がないと仮定して計算した場合と量子力学は同じ結果を与え」るならば、「観測者がいなかったビッグバンの頃の量子性」は「ビッグバンの頃」の現象だけで説明できるからである。 つまり、「量子的歴史書」云々は「観測者がいなかったビッグバンの頃の量子性」とは関係がない。 「観測者も地球も存在しなかった頃の時代の量子的現象」も同様である。

最初に意識を持った観測者が不要であることを説明しているのに、いつの間にか、最初に意識を持った観測者が必須であるかのように話がすり替えられている。

情報理論と実在論 

情報理論 

量子力学という理論は情報理論であり、実在論ではありません。

2021年10月17日午前7:25(Masahiro Hotta) - twitter


「量子力学は情報理論である」という主張は、実在論を否定する標準的コペンハーゲン解釈に過ぎず、それ自体が新しいわけではありません。

2021年12月13日午前6:51(Masahiro Hotta) - twitter

最初に明確にしておくが“実在”とは何か。 どうも、Masahiro Hottaは古典的性質を持つ何かを“実在”と言っているようだが、それは言葉の定義の問題であり、ここで問う必要はあるまい。 問うべきことは、波動関数で記述されるものの正体となる物理現象が現実に存在するかどうかである。 そして、その正体となる物理現象が古典的性質を持たないことはベルの不等式の検証実験で明らかになっている。 いや、古典的性質を持たないとは断定できないのだが、仮に古典的性質を持つとするならば、それは説明しがたい非常に奇妙な性質を持つことになる。 なので、ここでは、波動関数で記述されるものの正体が古典的性質を持つ可能性については考慮しない。 よって、ここでは、古典的性質を持つ何かを“実在”とは考えず、波動関数で記述されるものの正体と考えられる非古典的物理現象を“実在”と定義する。

物理学講師の吉田伸夫氏は 観測を通じて人間が獲得する情報と、量子統計力学においてエントロピーとともに定義される情報は、互いにリンクしてはいるものの、単純に同じものと見なすことはできません 質問集 - 科学と技術の諸相 と説明されている。 ここで「実在論を否定する」ためにMasahiro Hottaが持ち出した「情報」は、「観測を通じて人間が獲得する情報」であって、「量子統計力学においてエントロピーとともに定義される情報」とは違う。 情報理論で扱われる情報は、「量子統計力学においてエントロピーとともに定義される情報」と同じものであり、それこそが「その背景に何等かの実在」である。 量子情報理論は、量子の情報を分析する理論であって、量子の正体が「観測を通じて人間が獲得する情報」だとする理論ではないのだ。

知識、情報の増加でしかない「収縮」はシュレディンガー方程式を満たすわけがないのです。

波動関数と確率分布

2020年10月19日午前9:53(Masahiro Hotta) - twitter

「情報の増加」については整理すべき事項が2点ある。

  • 「収縮」=情報増加なのか、それとも、「収縮」が情報を増やすのか
  • 情報の増加は世界全体の客観的な変化か、それとも、主観的な変化か

前者についてはさんざん指摘してきたので、これ以上は指摘しない。 後者について、Masahiro Hottaは、主観的な変化だと言いたいようである。 だからこそ、量子の確率とサイコロの確率を同一視できるのである。 しかし、隠れた変数理論等を採用しない限り、明らかに、量子の確率とサイコロの確率は性質が違う。 既に散々説明した通り、量子の確率は測定するまで決まっていないものであり、サイコロの確率は決まっているがわからないものである。 量子の世界では、測定によって「収縮」すれば、意識が主観的に認識するかどうかに関わらず、世界全体の客観的な情報の増加をもたらす。 さらに、それを意識が主観的に認識することで、主観的な情報も増加するのである。 一方で、サイコロに関しては、測定しても、世界全体の客観的な情報量に変化はない。 意識が主観的に認識することで、主観的な情報が増加するだけである。 どちらも、認識過程で主観的な情報は増加する。 しかし、測定過程における情報の変化量は全く違う。 だからこそ、それが量子の確率とサイコロの確率の性質の違いとなるのである。

既に説明した通り、物理学である以上、主観的に情報を認識する前に客観的な情報が発生しなければならない。 しかし、Masahiro Hottaは、客観的情報量の変化について一切説明しない。 Hotta解釈では、主観的情報のみを強調して、客観的情報の存在から意識を逸らしている。 そうすることで、客観的情報量の変化を闇に葬っているのである。

実在性 

現実を記述した情報と記録媒体(紙や脳も含む)の中にだけ存在する情報の違いは何か。 それこそが量子の正体であろう。 もしも、両者に差がないのだとしたら、記録媒体の中の情報を操作したら現実が変わるというトンデモ論を認めなければならなくなる。 我々の常識に照らすと、記録媒体の中の情報がひとりでに現実を書き換えてしまうことはない。 それこそがノイマンが指摘した物心平行論である。 「量子力学の数学的基礎」(ISBN-10:4622025094,ISBN-13:978-4622025092,著:J.v.ノイマン,訳:井上健・広重轍・恒藤敏彦)P.333 記録媒体の中の情報を現実に反映する装置を作ることは可能だが、そうした装置を介さずに記録媒体の中の情報が現実を書き換えることはあり得ない。 しかし、情報が、現実の姿を記録した複製ではなく、現実そのものだとしたら、何の装置も介さずに情報が現実を書き換えてしまうことになる。 そのような不合理を解決でき、かつ、実験結果とも矛盾しない具体的方法がない限り、量子の正体を情報と考えるのは無理がありすぎる。 だから、量子の正体が情報だと主張するなら、そのことによって生じる矛盾の具体的解決策を提示すべきだろう。

光速度を超えて波動関数が収縮することに気付いても「目をつぶっておけ」と学生に教えるのか、それとも「波動関数は物理量の確率分布のデータの集合だから、物理的実在ではないので、光速度を超えて潰れても良いのです」と教えるのとでは、全く違いますよね。

2021年4月25日午後1:42(Masahiro Hotta) - twitter

実在を否定する弊害は「量子力学の哲学 上」(ISBN-10:4314004029,ISBN-13:978-4314004022,著:マックスヤンマー,訳:井上健)P.54-55に記載されている。 電子の回折のような回折現象の説明に適用された場合には惨憺たる失敗に終わる 量子力学の哲学 上」(ISBN-10:4314004029,ISBN-13:978-4314004022,著:マックスヤンマー,訳:井上健)P.54 のであり、二重スリット実験では 数学的な解析から,明らかにそれぞれの粒子に付随しているφ-波は自分自身と干渉しており,この数学的な干渉はスクリーン上でのそれらの粒子の物理的分布によって現実化されている 量子力学の哲学 上」(ISBN-10:4314004029,ISBN-13:978-4314004022,著:マックスヤンマー,訳:井上健)P.54-55 から 物理的に実在するあるものでなければならず,単にわれわれの知識の一つの表現に過ぎないものではないはず 量子力学の哲学 上」(ISBN-10:4314004029,ISBN-13:978-4314004022,著:マックスヤンマー,訳:井上健)P.55 となる。 Heisenbergも これらのφ-波がSchrödinger方程式に従って時間と共に発展しかつ空間中を伝搬していくという事実を考えれば,それらを単に一つの数学的仮構とみなすよりはむしろそれらに何らかの種類の物理的実在性を付与することが必要である 量子力学の哲学 上」(ISBN-10:4314004029,ISBN-13:978-4314004022,著:マックスヤンマー,訳:井上健)P.55 としている。 未解決問題を解決したことにするために、これら弊害を無視して物理的実在を否定することは科学とは呼べない。 未解決問題は未解決だと正直に説明することこそが真の科学的な態度であろう。 そもそも、実在を否定する弊害を無視して良いなら、何故、「光速度を超えて波動関数が収縮する」弊害を無視してはいけないのか。 一方の弊害を殊更に問題視して、かつ、他方の弊害を闇に葬るなら、それはダブルスタンダードであろう。 そもそも、情報が高速を超えることも局所性を破るので、「データの集合だから」「光速度を超えて潰れても良い」ということにはならない。

古くはフォンノイマンやウィグナー、そしてハイゼンベルグも実在ではない量子力学として「情報」を重視していたわけです。

2021年12月13日午前6:54(Masahiro Hotta) - twitter

彼らが「実在ではない量子力学として『情報』を重視」したのは、“実在”には言及できないからであって、“実在”を否定する証拠があったからではない。 中でも、Heisenbergは、 これらのφ-波がSchrödinger方程式に従って時間と共に発展しかつ空間中を伝搬していくという事実を考えれば,それらを単に一つの数学的仮構とみなすよりはむしろそれらに何らかの種類の物理的実在性を付与することが必要である 量子力学の哲学 上」(ISBN-10:4314004029,ISBN-13:978-4314004022,著:マックスヤンマー,訳:井上健)P.55 としており、言及できない“実在”を肯定する立場である。 また、ノイマンも 物心平行論(Prinzip_vom_psycho-physikalishen_Parallelismus)は科学的世界観にとって基本的な要請である 「量子力学の数学的基礎」(ISBN-10:4622025094,ISBN-13:978-4622025092,著:J.v.ノイマン,訳:井上健・広重轍・恒藤敏彦)P.333 としており、ただの情報が現実を変える考えを明確に否定している。

その背景に何等かの実在を考えようとすると、宇宙の端と端が瞬時に影響し合う変な対象を考えざるを得ません。 普通の意味での実在は、そういうことが起きない局所実在という対象ですが、それはベル不等式の破れで実験的に否定されています。

2021年10月17日午前7:25(Masahiro Hotta) - twitter


もちろん量子力学の予言と一致するように、非局所的実在(宇宙の果てと果てが瞬間に影響しあう)ものを形而上学的に考え続けることもできますが、そのような理論全ては、人類に量子力学という「幻覚」を見せ続けているという陰謀論理論とも、実験的に区別が付かないという指摘も重要だと思います。

2021年6月24日午前4:24(Masahiro Hotta) - twitter


そもそもは古典力学なのに、敢えてわざわざ実験者の人間に量子力学だと誤解させるように、非局所的に宇宙の端と端が影響しあって辻褄を合わすという類です。

2021年6月24日午前4:29(Masahiro Hotta) - twitter

極端な陰謀論理論の例では、人間の意志を宇宙が操っていて、実験で使う粒子のペア(決定論的実在です)の準備の段階で、ベル不等式が破れるように、そのペアを必ず偏って実験者が選んでしまうというものです。

2021年6月24日午前4:31(Masahiro Hotta) - twitter


実験で確認をされているベル不等式の破れを、非局所的な実在で説明をしようとするときには、どのシナリオでも、宇宙が人類を騙す陰謀論のような不自然さが必ず付きまといます。 そのため、私は非局所的実在論を推すことはありません。 実在がないと考えるのが、オッカムの剃刀的にもシンプルで十分です。

2021年9月16日午前6:53(Masahiro Hotta) - twitter


なお非局所的実在論で、宇宙の端と端を影響し合わせるという大袈裟なことをしてまで守りたいことは、「本当は決定論なのに、わざわざベル不等式を破り、非決定論的な量子力学のチレルソン不等式が成り立つように粒子を振る舞わせ、人類を騙す」ことです。 このため非局所実在論は陰謀論とも呼ばれます。

2021年10月17日午前7:36(Masahiro Hotta) - twitter

「非局所的に宇宙の端と端が影響しあって辻褄を合わす」なら「そもそもは古典力学」ではない。 「人類に量子力学という『幻覚』を見せ続けているという陰謀論理論」では非局所性の問題が解決しない。 また、「非局所的に宇宙の端と端が影響しあ」うことは非局所性を仮定するだけで成立する。 よって、非局所的理論を正当化するにあたって、「人類に量子力学という『幻覚』を見せ続けているという陰謀論理論」を持ち出す必要は全くない。 そのような陰謀論こそがオッカムの剃刀で削ぎ落とされるべきものであろう。 ここで「人類に量子力学という『幻覚』を見せ続けているという陰謀論理論」を持ち出すのは明らかな藁人形論法である。

日常感覚で慣れていた「実在」というものは、飽くまで局所的実在だったはずです。 そのような局所性があるからこそ、長い時間をかけて「自然だな」と人類に思わせてきたわけです。 ベル不等式の破れがこの局所的実在を否定した段階で、「実在」自体を放棄するのが最も合理的な思考ではないかと思います。

2021年6月24日午前4:45(Masahiro Hotta) - twitter

前半は完全に正しい。

しかし、そこから最後の1行の結論は導けない。 「ベル不等式の破れがこの局所的実在を否定した段階」で、「長い時間をかけて『自然だな』と人類に思わせてきた」ことが覆るのは事実である。 しかし、標準理論も「日常感覚で慣れていた」自然さと比べれば、同じくらい不自然なことには変わりがない。 これまで標準理論によりも古典的な「実在」論の方が「自然だな」と思われていた。 しかし、「ベル不等式の破れがこの局所的実在を否定した」ことで、古典的な「実在」論が成立しないことがわかった。 その結果、「実在」は標準理論と甲乙つけがたいほどに不自然な非古典的な性質を持つことになる。 であれば、「実在」に頑なに固執する理由が失われてはいるが、「『実在』自体を放棄するのが最も合理的な思考」とは言い難い。 「実在」については肯定も否定もしないのが「最も合理的な思考」であろう。 少なくも、「ベル不等式の破れがこの局所的実在を否定した段階」で、「実在」が従来考えられていたような代物ではないことが明らかにはなったと言える。 しかし、これが「実在」を否定したとするのは言い過ぎであろう。

ようするに、「実在」以外の「情報」部分にしか言及できない正体不明の何かが現実を支配するオカルト論(カレー味のウ○コ)か、非局所論(ウ○コ味のカレー)かの違いでしかない。 自分の支持する理論の欠点を闇に葬り、他方の欠点だけを殊更に強調して、自分の支持する理論の方が優れていると強弁しているに過ぎない。

主張を科学的に検証せよ 

結局、ベル不等式の破れが「実在vs情報」の構図を根本的に変えたことを、科学として認める姿勢があるかどうかだと思います。 物理学は、実証科学なのですから。 いびつな実在論を今でも支持するのは無理筋だと、現代でははっきりと言えるわけです。

2021年12月13日午前7:45(Masahiro Hotta) - twitter

いくら「いびつ」であっても、否定する根拠がない以上、科学的には否定できない。 「いびつ」さが明確になったことで従来の「実在」論を積極的に支持する理由が失われたことは確かだが、それ以上でもそれ以下でもない。 従来考えられていたような形の実在は否定されたが、それは、量子の正体が「情報」であることを示してはいない。 「物理学は、実証科学」であるからこそ、量子の正体が「情報」であると主張するなら、それを実験等で実証しなければならない。

科学哲学 

Masahiro Hottaは科学哲学ではド素人である。

隠れた変数理論や多世界解釈 

いろいろ多世界解釈は問題だらけなのだが、一番の問題はそれを語る人間が、議論の途中でこっそりと仮定(証明できない公理)を後から加えたり、都合の良い恣意的なことをしても、平然としていることなのだろうと考えている。 そういう議論を聞いたら、物理学徒はしっかりと突っ込みを入れて欲しい。

2019年12月8日午前6:39(Masahiro Hotta) - twitter

既に説明した通り、Hotta解釈は分岐先毎の差異を観測者毎の差異に偽装しており、これは「都合の良い恣意的なことをして」いる事例そのものである。 これは、何故に観測者毎の差異と見做せるのか説明がないため、「議論の途中でこっそりと仮定(証明できない公理)」しているとも言える。

また、「星の全ての住民の脳の分子原子にも作用して、その記憶を完全に書き換えてしまいます」過程については、数学的な説明どころか定性的な説明もなく唐突に結論だけ述べられているので、「議論の途中でこっそりと仮定(証明できない公理)」そのものである。 これは、結論ありきなので「都合の良い恣意的なことをして」いる事例そのものでもある。

さらに、サイコロの例等を用いた「波動関数の収縮」 については、「知識、情報の増加」でしかない認識過程において、それまで決まった値を持たなかった可観測量が確定することになっている。 そうした認識過程で可観測量が確定する仮定については有耶無耶にしており、明らかに「議論の途中でこっそりと仮定(証明できない公理)」そのものである。 これも、結論ありきなので「都合の良い恣意的なことをして」いる事例そのものでもある。

以上まとめると、「それを語る人間が、議論の途中でこっそりと仮定(証明できない公理)を後から加えたり、都合の良い恣意的なことをしても、平然としている」とはHotta解釈そのものである。

光速度を超えて波動関数が収縮することに気付いても「目をつぶっておけ」と学生に教えるのか、それとも「波動関数は物理量の確率分布のデータの集合だから、物理的実在ではないので、光速度を超えて潰れても良いのです」と教えるのとでは、全く違いますよね。

2021年4月25日午後1:42(Masahiro Hotta) - twitter

ですから現実には「解釈フリー」となる量子力学の教え方は絵の描いた餅のようなものと思うのです。 学生さんから「波動関数は観測によって光速度を越えて収縮するのですが、これは物理学の問題ならば解かないといけないんじゃないですか?」と質問されたら、教員の皆さんはどのようにお答えになります?

2021年4月25日午後1:44(Masahiro Hotta) - twitter

私ははっきりと「それは物理学の問題ではないですよ。 そのような観測問題は物理学の問題ではなく、飽くまで観測による知識の増加、観測による確率分布の収縮として、そう見えているだけです。」と答えます。 これが一番すっきりしている回答だと思うのですが、いかがでしょうか?

2021年4月25日午後1:50(Masahiro Hotta) - twitter

それとも光速度を越えて潰れる波動関数についても、「物理的実在」の言葉の定義の問題だと言ってごまかせる回答法があるのなら教えてください。 「それが物理学の問題であるかどうかさえも哲学の問題だから哲学者に聞け」と学生に回答するのならば、とても物理学者として無責任な態度だと思っています。

2021年4月25日午後2:01(Masahiro Hotta) - twitter

結局「つべこべ言わず、黙って計算しろ!」と教えらえた学生は、きっと20世紀の物理学者達のように、観測問題を生涯引きずるだけですよね。 そういう風に物理学徒をしたいですか? 私だったら「観測問題は物理学の問題ではない」と明言して、物理学徒を量子ネイティブの方向に向けてあげたいところです。

2021年4月25日午後1:42(Masahiro Hotta) - twitter

既に何度も説明した通り、以下は「それを語る人間が、議論の途中でこっそりと仮定(証明できない公理)を後から加えたり、都合の良い恣意的なことをしても、平然としている」にすぎない。

  • 「波動関数は物理量の確率分布のデータの集合だから、物理的実在ではないので、光速度を超えて潰れても良い」
  • 「それは物理学の問題ではない」「観測による知識の増加、観測による確率分布の収縮として、そう見えているだけ」

どうしたいかは個人の願望にすぎないので何の科学的根拠にもならない。 どのような願望があろうとも、分からないことを分かったことにしたり、知り得ないことを知り得ることにするのは非科学的である。 Hotta解釈のような詭弁を用いて分からないことを分かったことにする行為こそが「物理学者として無責任な態度」であろう。 分からないことを分からないと認め、知り得ないことを知り得ないと認めることこそが、真の科学的態度である。

「これは物理学の問題ならば解かないといけないんじゃないですか?」と質問された時の正しい解答は「解かないといけない」が誤解であることを説明することである。 科学の最も重要な役割は、原理を探究することではなく、未来を予測する法則を導くことにある。 だから、未来を予測する法則が確立しているなら、原理を解明することは必須ではない。 もちろん、法則を導く過程で原理を探究することはあるが、際限ない原理の探究は不可能である。 どのような科学法則であろうとも、どこかに天下り的仮定があり、それより前の根源的原理は解明されていない。 いつか、ひとつ前の原理が解明される日が来るかも知れないが、その時点でも、さらにそのひとつ前の原理まで解明されたわけではない。 根源的原理が解明されていないのは科学の宿命であり、それに文句を言う必要はどこにもない。

多世界解釈もパイロット波解釈も、それを出した当時の提唱者が、将来的に量子力学とは異なる結果が出ると思わなかったのは変な話です。 学会で叩かれる自分のアイデアをできるたけ受け入れられるように見かけを変えて、「量子力学と全く同じ予言しかしない等価な理論」で売りたかったのかなと感じます。

2021年9月12日午後6:15(Masahiro Hotta) - twitter

Everettの相対的状態方程式も多世界解釈二重解の理論も、実験結果を否定するわけでも、標準理論の計算結果に異議を唱えるわけでもない。 それらは、構想当初から標準理論と「全く同じ予言しかしない」数学的に「等価な理論」なのであり、「学会で叩かれる自分のアイデアをできるたけ受け入れられるように見かけを変え」たわけではない。

当時の実験技術では量子力学と差がないだけで、実際に世界が分裂する現象が実験でかかるとか、パイロット波を実測できるとか、そういうノーベル賞級の発見を将来に期待してもよさそうなのに、「量子力学と同じ予言しかしない、単なる書き換え理論」としたのは彼らにとって忸怩たるものだったのかなと。

2021年9月12日午後6:18(Masahiro Hotta) - twitter

世界の分岐等を実測できないのは当たり前のこと。

  • 分岐後の世界は干渉性を失っている
  • 先導波は測定値に間接的にしか影響を及ぼさない

そして、当然の帰結として数学的に等価な理論を目指しているのだから、「彼らにとって忸怩たるもの」であろうはずがない。 「忸怩たるものだった」のは彼らではなく、彼らの理論を否定できないMasahiro Hottaの方であろう。

例えば多世界解釈のエベレットは、ドウィットが「自分は世界の分裂を感じたことがない」と難色を示すと、「あなたは地球が動いていることを感じないからといって、地動説を否定するのか」と反論したそうです。 世界の分裂は感じないレベルで起きているだけで、実際には観測できると考えてた気がします。

2021年9月12日午後6:22(Masahiro Hotta) - twitter

Everettは不連続的な変化を取り除こうとして相対的状態方程式を考案した。 一方で、それに世界の分岐という不連続的な変化を追加して多世界解釈を提唱したのがDeWitt。 だから、DeWittが世界の分岐に難色を示して、Everettがそれに反論することはあり得ない。 逆ならあり得るけど。

将来の多世界へ分裂の観測やパイロット波の直接測定を、提唱者が強く主張しなかったのは、やはり不思議です。 その時代の学会の空気のために、やはり自分の主張をマイルドに見せたからなのではないかと、感じてしまいます

2021年9月12日午後6:38(Masahiro Hotta) - twitter

原理的に不可能(あるいは困難)と思われることを「提唱者が強く主張しな」いのは当たり前。 実験結果を否定するわけでも、標準理論の計算結果に異議を唱えるわけでもないのだから、数学的に等価な理論を目指すのも当たり前。 「自分の主張をマイルドに見せた」わけでも何でもない。

そもそも、二重解の理論は1927年の第5回Solvay会議以前から提唱されている。 量子力学の標準理論のベースとなる「量子力学の数学的基礎」が発表されるのは1932年である。 よって、当然、1927年は「その時代の学会の空気」が確立する前であることは言うまでもない。 「その時代の学会の空気」が確立する前の理論が、それに合わせて「自分の主張をマイルドに見せ」ているわけがない。 タイムマシンでもない限り。

ハッキリと「量子力学とは異なる預言をする理論」だと言ってもらえれば、実証科学で白黒つけられるのですが、アイデアの生き残りのために「量子力学と同じ」と主張されたため、それらが未完成未成熟なままの解釈理論だとしても、その支持者は零にはならないという現状があります。

2021年9月12日午後6:39(Masahiro Hotta) - twitter

既に説明した通り、標準理論と「異なる預言をする理論」を構築しようとしていないのだから、標準理論と「異なる預言をする理論」だと言うはずがない。 数学的に等価な理論を構築したのは、構想当初からの姿のままなのであって、「アイデアの生き残りのため」でも何でもない。 実験結果を否定するわけでも、標準理論の計算結果に異議を唱えるわけでもないのである。

これらの主張は、「実証科学で白黒つけられ」ないことに対するMasahiro Hottaの個人的な不満をぶちまけているだけに過ぎない。 「忸怩たるものだった」のは彼らではなく、彼らの理論を否定できないMasahiro Hottaの方であろう。

確かに、Hotta解釈は、古典力学の従来理論とは「異なる預言をする理論」だから、「実証科学で白黒つけられ」よう。 例えば、サイコロの2と5の面に垂直にシャフトを通し、ステッピングモーターで回転させるとしよう。 そして、1の目が出ている状態を確認した後に、装置を観測不可能な箱に入れた状態で180°回転させる。 古典力学の従来理論では6の目が確定しているが、Hotta解釈では値は不定であり、2と5以外の全ての目が出る確率は等確率となる。 いや、シャフトを通した面も不確定となるから、全ての目が出る確率は等確率となるだろうか。 いずれにせよ、Hotta解釈が従来理論と「異なる預言をする理論」となっているのは、科学的に妥当な代替理論を構築したからではなく、科学を無視した空想理論に走ったからである。 ようするに、Masahiro Hottaが標準理論と「異なる預言をする理論」ではないことに不満を述べることは、科学を無視した空想理論に走れと言っているに等しい。

物理学の理論構築のスタート点に置かれる原理(要請、公理)というには、本来ならば理論物理学者にとって憎むべき対象なのです。 なぜならばその原理の根源的理由については我々は不問とし、その原理を考える根拠としては、今の段階ではいくつかの実験事実からの経験則しかないと認めることだからです。

2021年9月28日午前7:30(Masahiro Hotta) - twitter

だから理論構築の際に多数の原理(要請、公理)を置くことは、その分だけ科学として敗北なのです。 相対性理論でも、何故相対性原理が成り立つのか?何故光速度は不変なのか?という部分は不問にし、目の前のいくつかの現象でその原理が成り立てば、こういう性質が論理的に導かれるというだけなのです。

2021年9月28日午前7:33(Masahiro Hotta) - twitter

これも物理学の助教授であっても科学哲学についてはド素人である実例であろう。 しかし、いくら専門外とは言え、ここまで見当違いのことを言えるのは凄い。

科学の目的は法則を立てて結果を予測することである。 「その原理の根源的理由」を探究することもあるが、それは法則に比べれば二の次である。 そして、「その原理の根源的理由」から更なる「根源的理由」を探究して行くと、必ず、どこかで行き詰まってしまう。 「根源的理由」を無限に探求することは不可能なのである。 だから、「理論構築のスタート点に置かれる原理(要請、公理)」なしには法則が成り立たない。 むしろ、それによって法則が成り立つのであれば、科学的には大勝利である。

科学が哲学と区別されていない時代、「理論構築のスタート点」は日常感覚的な常識だった。 物心がついた頃から当たり前のこととして受け入れているから、何故そうなるのかとの疑問を抱かないだけなのだ。 つまり、「理論構築のスタート点」の存在を意識しなかっただけにすぎない。 実証科学の時代になると「理論構築のスタート点」の存在を嫌でも意識せざるを得ない。

「多数の原理(要請、公理)を置くこと」を否定するのは、「実証科学で白黒つけられ」ない複数の解釈が存在することに対するMasahiro Hottaの個人的な不満であろう。 しかし、いくら個人的な不満を並べ立てようとも、それが「科学として敗北」にはなり得ない。 単に、Masahiro Hotta個人にとっての敗北でしかない。

もし本当に「量子力学は情報理論である」と世界で初めて唱えた私の独自解釈であれば、自分で自分を誉めてあげたいところです。

2021年12月13日午前7:34(Masahiro Hotta) - twitter

「独自解釈」は、主流学説等と食い違う(科学的根拠のない)解釈であることを意味するだけであって、「世界で初めて唱えた」を意味しない。

尚、真っ当な方の量子情報理論は、量子の持つ情報を分析する理論である。 数式として定量的に扱える範囲が情報としての性質に限定されているだけであって、Hotta解釈のような量子の正体が情報だとする理論ではない。

個人のトンデモさんのサイトまで引用して、量子力学は情報理論で波動関数は収縮すべきものというのは、私の独自解釈だという印象操作をしていた人もいましたから。 そういう印象操作を影でこそこそするだけで、正々堂々と「お前は間違っている!」とか言って、論戦を挑んでくることもありませんでした。

2021年12月13日午前7:11(Masahiro Hotta) - twitter

査読のある学術誌に論文として寄稿せずにTwittterで呟くだけの行為は「個人のトンデモさんのサイト」と何が違うのか。 私は何度かMasahiro Hottaに「正々堂々と『お前は間違っている!』とか言って、論戦を挑んで」みたが尽く無視されている。 それなのに「正々堂々と『お前は間違っている!』とか言って、論戦を挑んでくることもありませんでした」と言い張るなら、それこそ「そういう印象操作を影でこそこそする」行為ではないか。

自由意志 

自由意志は物理学で論じる範囲にない。 そして、決定論と自由意志には何の関係もない。 それらを安易に関係づけるのは論理的思考力が欠如しているからである。

決定論や自由意志と関係して、例えば哲学者が「時間と分岐の謎」とか表現している分岐問題も、量子力学ではそもそも生じていない。 分岐問題とは、ある選択肢の中から人間が1つの思考や行動を選ぶ場合に、本当に自由意志があるのなら、その自由意志による選択は「いつ」起きたのかという問題。

2019年12月30日午後1:04(Masahiro Hotta) - twitter


病院に行ったのは熱が39度を超えたから。 体温計を見た瞬間、私は病院に行く決断をし、その後すぐに家を出た。まさにその瞬間が病院に行く歴史が選択された。 こうして見ると体温計を見た瞬間が決断の瞬間で、この瞬間が病院に行く歴史と行かない歴史の分岐点に当たる」というのは本当かという問題。

2019年12月30日午後1:04(Masahiro Hotta) - twitter


ここで哲学者が定義する分岐点とは、「熱があって病院に行く」歴史と「熱がなくて病院に行かなかった」歴史の双方を遡ったときの、その2つで共有する最後の歴史事象の時刻のこと。

2019年12月30日午後1:05(Masahiro Hotta) - twitter


それで「体温計を見た瞬間に熱があったと分かった瞬間」は、熱が無かった歴史の中では決して共有されないので、それは分岐点ではないというロジックを哲学者は展開する。 では自由意志が判断を下した分岐点はいつなのかと問い出して、それは存在しないと述べたりする。これでは自由意志の出る幕がない。

2019年12月30日午後1:08(Masahiro Hotta) - twitter

ここでは奇妙な定義を持ち出した結果として奇妙な結論が導かれている。 奇妙な定義を導入しなければ決定論と自由意志には何の関係もない。 詳細は決定論と自由意志を参照してもらいたい。

まず、何故、自由意志には分岐点が必要と考えるのか。 それは、運命から自由でないものを自由意志の定義から排除しているからである。 しかし、それは定義の段階で決定論を自由意志から排除しているのであり、定義と同じ結論を導いた循環論法である。 そもそも、そうした定義は運命がその人の個性を飛び越えて意志決定に左右するという思い込みからだろう。 実際には、運命がその人の個性を飛び越えて意志決定に左右するわけではない。

自由意志

そして、その分岐点がその人の個性とは無関係な現象によるものであっても、自由意志と考えるのは何故か? その人の個性に基づいた分岐であれば、確かに自由意志であろう。 例えば、病院が嫌いだからとか、どうしても行きたいイベントがあるとか等の理由で熱があっても病院に行かない選択があれば、それは言うまでもなく自由意志である。 また、心配だから等の理由で熱がなくても病院に行く選択があれば、それも同様である。 しかし、熱があれば自動的に病院に行き、熱がなければ自動的に病院に行かないのであれば、それのどこに自由意志があるのか。

自由意志かどうかは、歴史上の分岐点があるかどうかではなく、その人の個性が決定に反映されているかどうかで判断すべきことだろう。 歴史上の分岐点がなくてもその人の個性が決定に反映されていれば自由意志だし、歴史上の分岐点ががあってもその人の個性が決定に反映されていなければ自由意志ではない。 自由意志とは、その人の人格に応じた思考以外の何かが判断に影響しないことである。 そして、人格は、その人の生まれつきや経験等によって形成される。 その人の人格に応じた思考以外の何かによって判断が左右されても、それは自由意志を担保しない。

例えばアリスがある場所に行こうか行くまいかを悩んで考えている。 ある時刻に先の例の体温計の役目をするスピンのz成分をアリスは測定し始めて、それが上向きだと意識した段階で「行く」と決定する。 だからもしスピンの初期状態が上向き状態に設定してあれば100%の確率で「行く」とアリスは決定する。

2019年12月30日午後1:15(Masahiro Hotta) - twitter

通常、量子力学的な分岐は量子揺らぎの範囲でしか発生しない。 この例のようなマクロ領域の特定の場所に行くか行かないかというマクロ領域の分岐はシュレーディンガーの猫のような特殊な状況を作らなければ発生し得ない。 例えば、Max Erik Tegmark氏は、多世界解釈の分岐の幅を大真面目に考察した。 「量子力学の解釈問題―実験が示唆する『多世界』の実在」(ISBN-10:4062576007,ISBN-13:978-4062576000,著:ColinBruce,訳&注:和田純夫)P.243によれば、トラックに惹かれて死ぬケースでは、量子力学的揺らぎによるトラックを認識するタイミングのわずかな差では、死と無傷に分岐することは難しいとしている。

ここでの量子的なスピンは、最初の例えでの「体温計」に対応している。 実際の体温計もマクロな量子系なので、最初の例も基本的に同じ量子論のスト―リーに落とし込める。

2019年12月30日午後1:45(Masahiro Hotta) - twitter

マクロにおける量子的性質で説明した通り、マクロにおける量子揺らぎは極めて小さい。 体温計の測定値であれば、量子揺らぎを考慮しても0.01℃の差も生じない。 よって、「熱があって病院に行く」か「熱がなくて病院に行かなかった」かの決定には影響を与える余地はほぼない。 マクロ極限では量子力学は古典力学に近似されるので、やはり、決定論的なストーリーになる。 熱があるかないかは最初から決まっており、熱の有無で自動的に行動が決定されるなら、その行動も最初から決まっているのである。

またアリスの自由意志感をより出したいならば、ここでのスピンは外部の体温計である必要はない。 アリスの脳内のある一自由度だと思っても良い。 「行く」「行かない」の意志の領域とは異なる場所に、そのスピンに当たる量子系があると考えれば、アリスの自由意志はそこから生まれると見ることも可能だ。

2019年12月30日午後1:47(Masahiro Hotta) - twitter

先ほど説明した通り、自由意志とは、その人の人格に応じた思考以外の何かが判断に影響しないことを指す。 「脳内のある一自由度」なるアリスの人格とは無関係な要因は、明らかに「アリスの自由意志」を阻害する要因である。 そのような要因で行動が分岐するなら、それは明らかに「アリスの自由意志」ではない。

尚、「脳内のある一自由度」なる要因は、先ほど説明した通り、マクロ極限では量子力学は古典力学に近似される以上、決定に重大な影響を及ぼし得ない。

他者による説明 

射影仮説を導出してしまえるというのはすごいことなのだが、種明かしをすれば、我々は議論の出発点を従来の量子力学とは別のところから始めたのであって、代わりに別のものが公理となっているということである。 第2章や第3章で説明したこの理論体系がそれに相当していて、ほぼ同等のことを既に紛れ込ませているのである。 確率がどうだのこうだの言う話は最初から出てきていたのだった。

EMANが堀田量子第7章を書いてみた -note

量子測定の原理とその問題点 by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明(元)教授によれば「射影仮説と等価な仮定がなければ射影仮説を導出できない。 「代わりに別のものが公理となっている」ならば、単にそれを追認したに過ぎず、Hotta解釈が標準理論の見た目を変えただけに過ぎないことを示している。

しかし誰にとっても共通の状態というものがもしあるとすれば、それは古典的な存在だということになるだろう。 そういう客観的な共通の状態が存在していることは、量子力学的な現象がベルの不等式を破っていることが実験で確認された時点で否定されてしまっているのである。

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ベルの不等式は、局所的隠れた変数理論を否定するとされるが、非局所的隠れた変数理論を否定することはできない。 また、ベルの不等式で言及できる「誰にとっても共通の状態」は測定前の可観測量のことであって、波動関数や測定時の可観測量のことではない。

波動関数などで表される重ね合わせ状態を含めた「状態」というものを保持している何らかの客観的な存在がこの世にはあるのではないかという考えはごく自然な発想ではある。 しかしそれは「隠れた変数理論」と何ら変わらない思想であることに注意しよう。 そういうものは残念ながら否定されてしまった。

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既に説明した通り、隠れた変数理論は否定されていない。 百歩譲って、隠れた変数理論が否定されたとしても、測定前の「重ね合わせ状態」の波動関数の客観性や測定時の可観測量の客観性までは否定されていない。 否定されるとしても、せいぜい、測定前の可観測量の客観性までである。 よって、これはHotta解釈を正当化する理由となっていない。

この堀田量子の教科書では、それぞれの立場によって世界の見え方が違っているのは何ら問題ではないという主張のもとで書かれている。 またこの世界は全て情報によって成り立っているので、客観的な存在などを想定する必要もないという主張である。

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ある仮定が正しい場合に矛盾がないことを示しても、それは、その仮定が正しい証明にならない。 これを証明と扱うことは循環論法と呼ばれる詭弁手法である。 よって、「何ら問題ではない」としても、「それぞれの立場によって世界の見え方が違っている」仮定が正しい根拠にはならない。 そして、「それぞれの立場によって世界の見え方が違っている」ことにより発生する問題は既に指摘した通りであり、「何ら問題ではない」とは言えない。

  • 分岐先毎の差異を観測者毎の差異に偽装している
  • 射影仮説以外に非ユニタリー的時間発展を導入している
  • 古典力学が量子力学のマクロ極限と全く違う

これらは実証科学と相容れない。

この堀田量子の教科書が主張する情報理論的な解釈には論理的な弱点は見当たらない。

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Hotta解釈の最大の弱点は、既に紹介したとおりである。

  • 分岐先毎の差異を観測者毎の差異に偽装している
  • 射影仮説以外に非ユニタリー的時間発展を導入している
  • 古典力学が量子力学のマクロ極限と全く違う

これらは実証科学と相容れない。

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