決定論と自由意志
総論
循環論法
決定論と自由意志が両立するか?とする科学風の議論があるが、これは、科学問題に見せ掛けた循環論法に過ぎない。 こうした問いに答えるためには、決定論と自由意志の言葉の意味が明確に定義されていなければならない。 言葉の意味が曖昧では、明確な答えが出せるはずがない。 では、自由意志とは、どのように定義されているのか。 自由意志は、英語で「Free Will」と書き、これは、直訳すると「自由な意志」である。 「Free」は何からの「Free」を意味するのか。 運命からも「Free」である必要があるならば、決定論と自由意志は相容れないことになる。 しかし、それは、運命から「Free」でなければならないという定義が、非決定論を意味しているからである。 非決定論でなければ自由意志ではないと定義すれば決定論と相容れず、自由意志は非決定論であることを要しないと定義すれば決定論と相容れるという結論になる。 つまり、両立しないと定義すれば両立しないし、両立すると定義すれば両立するのである。 これぞ、見事な循環論法だろう。
思い込みの産物
決定論と自由意志とを関連づける主張は、単に「運命に束縛されるものは自由でないような気がする」レベルの思い込みでしかない。 また、決定論下での意志決定について、その人の人格と無関係な意志が運命によって決められるとする誤解もあろう。 しかし、現実には、そんなことはあり得ない。 もし、仮に、運命からの「Free」な意志が無かったとしても、それは、意志がその人の人格と無関係に決定されることを意味しない。 何故なら、因果律が破綻しない限り、その人の人格と意志には明確な因果関係があるはずだからである。 決定論では、まず、何らかの原因でその人の人格が決定され、そして、その人格やその他の複合要因が原因となって意志が決定される。 運命が誰かの意志を左右するとしても、その場合は、その運命は、その人の人格も左右するはずである。 人格等が左右された結果として、間接的に意志が左右されるのである。 決して、運命が、その人の人格を飛び越えて、その人の人格と無関係な意志を作り出すことはないのである。 先に説明した通り、決定論では、その人の人格と無関係な意志を作り出す物理的揺らぎがないことが保証される。 つまり、決定論は、その人の人格に基づく判断であることを担保するのである。
例えば、悪をとても嫌う人がいたとしよう。 そして、悪を容認すべき特段の事情もないとしよう。 その時、その人が悪を許す判断をする余地がなければ、自由意志が阻害されているのか。 いや、むしろ逆だろう。 その人の人間性は、その人の過去の経験によって形作られている。 そして、その場の判断は、その人の人間性と判断材料となる事情で決定される。 それら経験や事情を逸脱した判断の揺らぎがある方が自由意志とは言い難い。
確かに、判断に影響し得る経験や事情が違うにも関わらず、その経験や事情の内容を一切反映することなく、常に同じ判断となるなら自由意志とは言い難い。 しかし、決定論においてあらかじめ判断が決まっていることは、その判断に到る経験や事情が反映された結果である。 肯定的な判断を下す経験や事情があらかじめ決まっていれば肯定的な判断を下し、否定的な判断を下す経験や事情があらかじめ決まっていれば否定的な判断を下す。 それまでの経験や事情が的確に反映されているのに、何故、自由意志を阻害されていると考えるのか。
自己制御すべき範囲
自由であるためには、個人特性の形成も自分だけで完全にコントロールしなければならないのだろうか。 たとえば、好き嫌いも自分で完全にコントロールしなければならないのだろうか。 貴方は、昨日まで大嫌いだったあの人を今日から好きになれるだろうか。 貴方は、昨日まで大好きだったあの人を今日から嫌いになれるだろうか。 そうした好き嫌いを自由自在にコントロールできるだろうか。 たとえば、個人特性の形成に外的要因が含まれることは、自由を阻害するのだろうか。 現実問題として、個人特性から外的要因の影響を排除することは難しい。 例えば、正義を重んじるのは、成長過程のどこかで正義の重要性を学んだからだ。 もしかすると、両親が、正義を重んじる人になるように育てたのかもしれない。 もしかすると、小学校の先生が、その人に、正義の重要性を教え込んだのかもしれない。 では、もし、その人が正義の重要性を学び損ねたらどうなるだろう。 それでも、その人は正義を重んじただろうか。 極悪人になった可能性はないだろうか。 以上のように考えれば、個人特性の形成過程において、外部の影響を完全に排除し、かつ、自分で完全にコントロールすることが如何に難しいか分かるだろう。 つまり、自由には個人特性の自立制御が必須だと定義すると、現実問題として自由意志はほぼ存在し得ない。 それでは、定義の段階で結論が決まってしまう。
言葉の定義の問題である以上、当然、そうした定義を選択することも間違いではない。 しかし、特定の条件を定義段階で決めたのであれば、前提段階で確定している条件を議論する余地はない。 最初から確定させていることなのに、あたかも議論の余地があるかのように偽装するなら、それはインチキな循環論法に過ぎない。
揺らぎは自由意志に必須ではない(むしろ、邪魔)
「判断の揺らぎがなければ自由意志ではない」と勘違いしている人間がいる。 しかし、これは大きな勘違いであって、人格外の揺らぎはむしろ自由意志を阻害する要因である。 勘違いしている人は次のように思っているのかもしれない。
- 「同じ人間でも似たような状況で違う判断をすることもある」
- 「画一的に同じ判断をするなら機械と同じで人間的ではない」
では、似たような状況で違う判断になる原因は何か。 それは状況の相違で説明できることであって、揺らぎを持ち込む必要はない。 たとえば、3日連続で同じ定食屋に行ったとする。
- 初日はA定食を注文
- 2日目はB定食を注文
- 3日目はC定食を注文
この場合、同じ定食屋でメニューから食べ物を選ぶという似たような状況で3日とも違う選択をしている。 では、各日の選択の違いはその人の人格にない揺らぎによるものか。 いやいや、常識で考えれば、前日と前々日に選んだ食べ物の情報の違いによるものだろう。 揺らぎによって選択が左右されるなら、3日とも同じ食べ物を選択する確率も一定程度存在する。 同じ物を毎日食べても平気な人もいれば、違う物を食べたがる人もいる。 それは、その人の人格によるのであり、その人の人格にない揺らぎによって決まるわけではない。 同じ物を毎日食べても平気な人は3日とも同じ食べ物を選択するかもしれないが、違う物を食べたがる人は日によって違う食べ物を選択するだろう。 つまり、選択を決定する要因は直近に何を食べたかの情報とその人の人格である。
脳の判断を司る部分に入ってくる情報と人格が全く同じであれば、全く同じ判断をしても何もおかしくない。 例えば、定食屋の帰りに何者かに、選択したメニューを含むその定食屋によった記憶を完全に消されたとしよう。 すると、翌日にも全く同じ物を注文することだってあり得る。 前日にA定食を注文した記憶があるから、翌日にはB定食を注文したのである。 その記憶がなければ、再び同じA定食を選んだっておかしくない。 その記憶の有無は第三者から見れば小さな差異かもしれない。 しかし、そうした小さな差異でも選択には大きな影響を及ぼし得る。 そうした情報の差があれば、画一的に同じ判断とならないことを十分に説明できる。
つまり、同じ情報と同じ人格から同じ判断をしても、人間的な判断ではないとは言えない。 よって、自由意志には揺らぎを必要としない。
4日目も同じ定食屋に通って、E定食にするかD定食にするか迷ったとしよう。 その人はA定食が好物だから初日は迷わずに選んだ。 翌日は次に好きなB定食を選んだ。 その次の日も同様である。 しかし、こと4日目に至っては、残りの選択肢の中には特に好きなものはない。 消去法で先の3日間に注文した物を除外しているだけである。 こうした場合は、人は、乱数的手段に頼ることがある。 サイコロを振ったり、「ど•れ•に•し•よ•う•か•な•か•み•さ•ま•の•い•う•と•お•り」と一音ずつ指差して最後の物を選ぶとか。 慣れてくると、こうした乱数的手段を瞬時に行えるようになる。 この場合、消去法の適用と乱数的手段の採用は自由意志の行使であるが、乱数の中身は自由意志とは言えない。 このように、人間は、必ずしも、全ての判断を自由意志に依存しているわけではない。 たとえば、くじを引く場合など、中身がわからない以上、どのくじを選びたいとは誰も考えずに、脳内の擬似乱数アルゴリズムを利用して引くはずである。 当然、そうした判断は、人為的揺らぎに依存したものであり、画一的に同じ判断とはならない。 もちろん、これは、自由意志を放棄して意図的に揺らぎに依存したのであり、自由意志にゆらぎが必要なことを示さない。
選択肢の幅と選択結果の幅
自由意志を担保するには選択結果の幅を広げる必要があると思うなら、それは目的と手段を混同した思い込みに過ぎない。 確かに、本人以外が選択結果を狭めては自由意志が阻害される。 自由意志を阻害しないために、本人の意向を確認する前に提示する選択肢の幅を広く取る必要がある。 しかし、それは、本人の選択結果を広く取る必要性を示さない。 幅のある選択肢から特定の選択結果を選び取る行為こそが自由意志の行使である。 それを妨害することこそが自由意志に反する。 第三者が選択の幅を狭めては自由意志に反するが、本人が選択の幅を狭めることを第三者が妨害しても自由意志に反するのである。 本人が特定の選択に固執した結果として選択結果の幅が著しく狭まったとしても、それも自由意志の行使の結果である。
第三者がその選択結果の再考を求めたとしよう。 その際、本人がそれを助言として受け取り、再判断のための情報として扱えば自由意志を阻害しない。 しかし、本人がそれを強制として受け取り、本人の意に反する選択結果を強いられれば自由意志が阻害される。 以上をまとめると、選択結果の広さではなく、誰の意向であるかが、自由意志であるかどうかを決める。 選択前の選択肢の幅を広げることは本人の意向を尊重するための手段であって、本人の意に反して選択結果を広げることは自由意志を担保する目的には適合しない。
反証
百歩譲って、ここで、あらかじめ決まっている判断は自由意志にあらず、すなわち、自由意志には判断のゆらぎが必須であると仮定しよう。 では、その判断のゆらぎはどのような要因によって生じるか。
- 経験や事情の揺らぎ
- 同じ経験から受ける人間性形成の揺らぎ
- 同じ事情から受ける情報の揺らぎ
- 同じ事情および同じ人間性に基づく判断の揺らぎ
いずれも、人格や思考パターン等の人間性と無関係な物理的揺らぎに過ぎない。 このような人間性と無関係な物理的揺らぎが自由意志に必須であるとするならば、自由意志の正体とは人間性と無関係な物理的揺らぎなのか。 自由意志とは、その人の人間的特性と無関係な純粋な物理現象なのか。 以上の通り、自由意志には判断のゆらぎが必須と仮定すると、自由意志がその人の人間的特性と無関係な物理的揺らぎになってしまう。
そもそも、4番目に至っては、そのような揺らぎがないことこそが自由意志を担保するのではないか。 つまり、運命から「Free」でなければならない定義では、自由意志はただの純粋な物理現象に成り下がってしまう。 こうした矛盾を回避するには、運命から「Free」である必要はないと定義するしかない。
未来予測
決定論で未来が容易に決まると誤解するからこそ、決定論に基づいた判断が自由意志ではないと思い込むのかもしれない。 しかし、決定論でも未来予測は非常に難しい。 途中の経験や事情が次の経験や事情に影響するし、そうした経験や事情はその人の人間性にも影響する。 そうした複雑な成り行きで結果が決まるため、それを事前に予測することは難しい。 しかし、そうした難しさは決定論を否定する根拠になり得ない。 そして、決定論が正しいとしても未来が安易に決まるわけでもない。 決定論を単純に考える思想こそが、勘違いの元凶であろう。
自由意志
ある物理現象が決定論か非決定論かを問う物理学的意味があるとしよう。 では、それを人間の意志に限定して考察する物理学的意味はあるだろうか。 結論を言えば、ない。 人間の脳の機能や意志決定のプロセスを論じるのは、完全に、物理学の範囲を超えている。 科学として考察するなら、それは、生物学の範囲に属する。 物理学の範囲にない問題を、物理学で論じようとするのが間違いなのである。 もちろん、生物学の問題に対して物理学を活用するのは間違いではない。 しかし、生物学の問題を物理学の問題として扱うのは間違っている。 つまり、「自由意志とは何か」という問いは、物理学として扱うべき問題ではないのだ。 それを物理学として扱おうとするから、話がおかしくなるのである。
そもそも、科学分野の問題であるかどうかすら疑わしい。 一般的に、「Free Will」の「Free」は、他者からの「Free」を意味する。 人の責任や、他者を支配することの是非を問うのであれば、倫理や道徳等、社会的都合で定義されていることになる。 科学分野ですらない問題を物理学として扱おうして、まともな答えが出るはずがない。 社会的都合で定義した「Free Will」について問うなら、決定論の真偽はどうでも良いことである。 必要なことは、秩序を保つためには社会のルールがどうあるべきかであって、決定論の真偽ではない。 尚、社会で生活する以上、厳密な意味で他者からの完全な「Free」はあり得ない。 一般には、脅迫や洗脳その他手段により本人の正常な判断が奪われる以外の影響は「Free」を妨げないと解釈される。 だから、社会通念上、正当な教育の範囲の行為による影響力は「Free」を妨げない。 例えば、科学的に適切な手段によって得られた理論を科学として教えても「Free」を妨げない。 しかし、科学的に適切な手段によらずに得られた理論を科学として教えるのは、洗脳に類する行為に該当し、「Free」を妨げたことになる。
哲学的な疑問を投げかけるとしても、どのようなプロセスで意志決定されているかが問われているのであって、決定論の真偽は問題ではない。 物理的、あるいは、化学的に見た場合、単純現象が複雑に組み合わさって人間の意志を形作っている。 その構成要素となる単純現象が決定論であろうとなかろうと、哲学的な疑問への答えが出ないことには変わりがない。 非決定論が正しかったとしても、やはり、意志とは何なのか、哲学的な疑問が尽きないことには何ら変わりはない。 哲学的な疑問の本質は、単純現象の組み合わせが人間の意志になることにあるのであって、その単純現象が決定論であるかどうかではないのだ。
実は、自由意志の関する議論の多くは、先にも述べた通り、言葉の定義の問題であることが多い。 何を「自由意志」と定義とするか、その定義の内容に答えそのものが含まれていることが多い。
決定論
例えば、タイムマシンで過去に戻って、コッソリ、過去の出来事を観察するとする。 決定論が正しいなら、最初の観察結果と、タイムマシンで見てきた二度目の観察結果は完全に同一でなければならない。 「いや、タイムマシンの影響で過去が変わってるはずだ」と言うなら、それは決定論ではない。 何故なら、決定論が正しいなら、タイムマシンを使うこともあらかじめ決まっているはずだからである。 つまり、最初の観察の時、未来から来たもう1人の貴方が何処かからコッソリと観察を行なっているはずなのである。 決定論では、過去を変えることはできないのである。 過去を変えられたなら、それは、過去を変えることがあらかじめ決まっていなかったことになり、決定論の定義に反してしまう。 一度目の観察結果と二度目の観察結果に違いが生じるなら、それは、非決定論でしかあり得ない。
ちなみに、これは、決定論の真偽の確認方法としては使えない。 というのも、過去の同一性の証明問題が生じるからである。 つまり、一度目の観察結果と二度目の観察結果が違うことを確認しても、同一の過去が非決定論によって違う結果になったのか、過去とそれに良く似た平行世界を比較しただけなのかの違いが区別できない。 この説明は、決定論の真偽を調べる方法について論じたものではない。 あくまで、決定論と非決定論の違い分かりやすく説明するためのものである。
ニュートン力学や相対性理論は非決定論を扱えない。 時空概念と非決定論は非常に相性が悪い。
誤った自由意志論
良く考えないと騙されそうになる詭弁を紹介する。
そして、右のコップ、左のコップ、どっちでも好きな方を選んで取ってほしい。 なお、2つのコップに違いはない。 自分からの距離も同じだ。どっちをとっても、何も違いはない。 さぁ、あなたはどっちを取るだろうか?
「よくわからないけど、そんな考えが沸き起こった」とは、 「なぜ自分がそうしようと思ったのか原因がわからない」ということなのだから、 まったくもって、 「自由(好き勝手に選べる)意志」なんかじゃない。
だって、結局のところ、「右を選ぶ」という考えは、 「自分にはわからない何か(自分の外部)から出てきた」ことになるからだ。
それは、あなたの体に見えない糸がついていて、 背後で誰かが操っている状況に良く似ている。
誰かが、糸を引っ張ったので、「右手を上げた」にもかかわらず、 あなたは 「よくわからんが、自分で右手をあげたくなったのさ」 と言い張っているのと同じである。
ここでは、ある一面での類似性だけをもって、他の面でも類似していると誤認させる詭弁手法が使われている。 そして、他の面での類似性を示す根拠を何も示さないまま、印象操作で作り上げた偽の類似性を既成事実化している。 これは、飲茶氏が良く使う詭弁手法である。
確かに、「原因がわからない」という理解可能性は「良く似ている」。 しかし、そのことは次の2つの発生源が「同じ」とする根拠にはならない。
- 「そんな考えが沸き起こった」
- 「自分の外部」から「誰かが、糸を引っ張った」
理解可能性と発生源は全く別物であるのだから、2つの物事において理解可能性の類似性が見られたとしても、それが発生源の類似性の根拠になるわけがない。 それが根拠になると言い張るなら、白い猫と白い鳥の色の類似性もって生物種まで類似していると言い張るのと変わらない。 適切な例え話は、論点を整理したうえで、論点部分で類似していて、かつ、論点以外を単純化するなどした話を挙げて理解しやすくする。 しかし、そのサイトで用いられたこの例え話は、論点(発生源)を混同させたうえで、論点以外(理解可能性)で類似した話を挙げ、類似点が論点に該当するのかどうかをわかりにくくして、あたかも、論点で類似しているかのように錯覚させている。 言うまでもなく、そのサイトで用いられたこの例え話には、論点以外(理解可能性)での類似点は見られるが、論点(発生源)での類似性があるわけではない。 これは、自分で論点整理ができない人に対しては、極めて有効な詭弁手法である。 逆に、常にしっかりと自分で論点整理をしている人には、全くと言って良いほど効き目がない。
そのサイトで用いられた詭弁のトリックを明らかにしたところで、一度、冷静に考えてみよう。 そうすれば、「なぜ自分がそうしようと思ったのか原因がわからない」ことが「自分の外部」「から出てきた」とする根拠に全くなっていないと理解できよう。 常識で考えれば、脳に外部からの電波等を受信する機能などがない限り、「そんな考えが沸き起こった」が自己の内側の意識から発生したことは明らかである。 そのことと、考えた理由が明確であるか朧げであるかは全く関係ない。 自己の内側の意識から発生したのであれば、それは間違いなく自由意志だろう。 繰り返すが、「なぜ自分がそうしようと思ったのか原因がわからない」ことが「自分の外部」「から出てきた」とする根拠も「誰かが、糸を引っ張った」とする根拠も何も示されていない。 常識に反する仮説を披露しながら、その仮説を支持する根拠を何一つ示していないのでは、話にもならない。
自由意志とは何だろうか? もし、自由意志を 「自分で好き勝手に選択できることだよ」 という意味で捉えているならば、それは明らかに間違いである。 もし、それが自由意志だというならば、 「そんなものはない(^▽^)」と断言しても良い。 我々に、「自分で好きなように物事を選べる」という自由意志がないことは、 以下の実験で簡単にわかる。
そして、右のコップ、左のコップ、どっちでも好きな方を選んで取ってほしい。 なお、2つのコップに違いはない。 自分からの距離も同じだ。どっちをとっても、何も違いはない。 さぁ、あなたはどっちを取るだろうか?
もし、我々が、自分自身の選択について、 「なぜそれを選んだかの仕組みが完全にわかっていた」としたら、 それはもう自由意志ではなく、機械的な意志になってしまう。 したがって、機械的な意志でないためには、 「なぜそれを選択したのか、その仕組みがわからない」 ということが必須条件である。
これは、飲茶氏が良く使う詭弁手法だが、事実関係を混同させている。 自由意志の対象とならない選択肢を持ち出して、自由意志を論じようとしているのだから、余りにも酷すぎる。 これは、誤謬事例の「早まった一般化」よりも酷い「すり替えた一般化」である。
この設問では、圧倒的大多数の人の価値観に照らして、一方を選ぶ明確な理由が存在しない。 というか、圧倒的大多数の人にとって、「右のコップ」だろうが「左のコップ」だろうが、どーでも良い。 当人にとってどーでも良い選択なのだから、そこに自由意志を挟み込む余地はない。 自由意志を挟み込む余地がない設問なのだから、そこに自由意志を見出だせないのは当たり前である。 つまり、「なぜそれを選んだかの仕組みが完全にわかっていた」が「自由意志ではなく、機械的な意志になってしまう」となるのは、この設問の性質によるのであって、自由意志そのものの性質によるのではない。
そのような設問で自由意志の実在性を論じるのは、ノンアルコール飲料の成分を調べて、酒の実在性を語るようなものである。 ノンアルコール飲料の成分をいくら調べても、アルコール成分が検出されないのは当然のことである。 しかし、その事実をもって「この世には酒など存在しない」などという結論が導けるはずがない。 「この世には酒など存在しない」と主張するなら、この世に存在する酒を自称または他称する飲料の全てについて、アルコール成分が検出されないことを実証しなければならない。 同様に、個人の趣味嗜好等が明確に反映されない設問において自由意志を見出だせない事実をもって「我々には『自分の好き勝手に意志を引き起こす自由』なんてない」などと言えるわけがない。 「我々に、『自分で好きなように物事を選べる』という自由意志がない」ことを証明したいなら、「『自分で好きなように物事を選べる』という自由意志」の対象になり得る設問を論じなければならない。
多くの人にとって一方を選ぶ明確な理由が存在する設問、すなわち、自由意志の対象になり得る設問を用意すると、この詭弁のトリックが良く分かる。 たとえば、コーヒーと紅茶のどちらを飲むか選ばせるとする。 そして、コーヒー好きがコーヒーを選んだり、紅茶好きが紅茶を選んだらどうなるのか。 この場合は、「なぜそれを選んだかの仕組み」は、本人の嗜好によると説明できる。 では、本人の嗜好による選択は、「自由意志ではなく、機械的な意志」なのか。 好きな物を選んだら、それは自由意志ではないのか。 いや、当然、これは逆だろう。 好きな物を選べない状況の方こそが自由意志を阻害しているのである。 好きな物を選べることは、明らかに、自由意志が行使できていることを示している。
たとえば、ある人をバレずに殺して1億円を奪うことが可能だとして、貴方はその殺人を実行するか。 このような設問であれば、当然、「なぜそれを選んだかの仕組み」が分からない方がおかしい。 Yesを選ぶか、Noを選ぶかは、人それぞれだろうが、いずれにせよ、その人なりの理由が明確に自己認識できるだろう。 そして、これも当然だが、「なぜそれを選んだかの仕組み」が分かっていることは、その選択が「自分の外部」によってもたらされた根拠にはならない。 理由や選択はその人固有の人格に左右されるのであって、当然、その人格はその人の内部に存在するものである。 尚、この設問に対して、必ずしも、他者に選択結果や理由を説明する必要はない。
たまに、犯罪実行後に「自分でも何故やったのか分からない」と言う者がいる。 犯人が嘘をついていないなら、それは、人は、必ずしも、咄嗟の場合に合理的な選択ができるとは限らないからであって、それも自由意志を否定する根拠にはならない。 自分の価値観だと信じていたことと自分の実際の行動に食い違いが生じて、自分でも理由を整理できないことはあるかもしれない。 しかし、それでも、その行動は、自分の内側にある人間性に基づく選択の結果であり、「自分の外部」によってもたらされたものではない以上、自由意志には違いないのである。
分かりやすい例を挙げると、例えば、身を賭してでも誰かを守りたいと思っていたとしよう。 しかし、実際に、その状況が発生したとき、我が身可愛さに自分を守ることしかできなかったとしよう。 この場合、身を賭してでも誰かを守りたいと考えることと、我が身可愛さに自分を守りたかったことも、どちらも、自己の意志であることに疑いの余地はない。 理性に基づく意志であるか、本能に基づく意志であるかの違いはあれども、どちらも自己の意志であることには変わりはない。 そして、危険な状況が生じる前は、前者の意志の方が大きいと自認していたのであろう。 しかし、それは、実際に体験していない危険等を過小評価していただけに過ぎない。 実際に危険な状況が生じたとき、その危険に対する恐怖を肌で感じ、その時点では、以前の認識とは逆に、後者の意志の方が大きかったのである。 これは、自己内部の意志の優先順位の問題であるから、自由意志が阻害されたわけではないことは言うまでもない。 単に、危険やそれに対する自己の恐怖感情等を事前に正しく認識できていなかっただけである。 このように、自由意志に関する自己認識の齟齬は自由意志を否定する根拠にはなり得ない。
総合案内
科学一般
疑似科学等
- 疑似科学
- 数学や科学への無理解
- 疑似科学を批判する疑似科学
- STAP細胞論文捏造事件
- CCS地震原因説
- 地球温暖化懐疑論
- 疑似科学者列伝