科学への無理解

科学の何たるかを全く理解していない「理系の著者」 

「この理論は科学的に証明されました」

この言葉を聞いたとき、おそらく多くの人が、その理論について「正しさが確定したのだ」という印象を持つのではないだろうか。 もちろん、かつては、僕もそう思っていた。 しかし、ある程度の年齢(理系の大学生)になり、素粒子という「ミクロの世界の科学」に興味を持つようになったとき、その「科学的証明への信頼」が大きく揺るがされることになる。

「哲学的な何か,あと科学とか(著:飲茶)」まえがき

「正しさが確定した」が100%の正しさを指すなら、科学に限らず、あらゆる分野において、そのような代物は存在しない。 言い換えると、100%の正しさが存在しないことは、科学特有の性質ではなく、あらゆる物事の性質であるので、そのことによって「科学的証明への信頼」が揺らぐ余地はない。 「正しさが確定した」が、100%の正しさではないが、次の2つの両方を満足することを指すなら、それは「この理論は科学的に証明されました」と等しい(科学の条件参照)。

  1. 現象を説明できる唯一の理論であること
  2. 他の全ての既存の現象と矛盾しないこと

きっかけは、ニュートリノという素粒子を知ったときのことだった。 ニュートリノとは、質量がほぼゼロの「とてつもなく小さい粒子」のことである。 このニュートリノの存在が科学的に証明されるまでのざっくりした経緯を以下に紹介しよう。

ある日、とある科学者が、「ベータ崩壊」という不可思議な現象を発見した。 それはたとえるなら、10kgのボールが2つに割れて、1つ目の破片が6kgだったら、当然、もう一方の破片は4kgになるはずだが、なぜか0.000001kgほど重さの計算が合わないという不可思議な現象であった。 消えた「0.000001kg分の重さ」はどこへ行ったのか? そこで、パウリという科学者は考えた。

「じゃあさ、0.000001kgの超小さい粒子があって、そいつがどこかに飛んで行ったことにしようよ、そう考えればツジツマがあうじゃん」

ツジツマあわせの未知の新粒子。 たしかにそれがあれば計算は合う。 だが、そんな小さい粒子が存在することをどうやって証明すればいいのか? そこで、科学者たちは次のような実験を考案した。

(1)その不可思議な現象が起きる場所の近くに、でか〜い水槽を置く。

(2)その粒子(ニュートリノ)は小さいが、たま〜に、水槽の中の水分子とぶつかり、カチ〜ンって感じで、ちょっとだけ光が出る。

(3)その光を観測する。

この実験を行った結果、その光が特定の頻度で観測されることが確認され、ニュートリノという新粒子があることが証明された。 めでたしめでたし。

以上が、ニュートリノという粒子が発見されるまでの歴史的経緯であるが、はじめて知ったとき、僕はとても驚いた。

だって、「ニュートリノという粒子が存在し、その粒子が観測された」という単純な話ではなく、「今までの常識と合わない現象があり、そのツジツマ合わせとして新しい粒子が仮定され、その粒子があったとしたら見つかるはずの痕跡を確認した」という、なんとも間接的な話であったからだ。

「え? それって、ニュートリノを直接観測したんじゃなく、ただ、水槽から出てくる光を観測しただけでしょ! 別の原因かもしれないじゃん! そもそも、最初の矛盾とかも、何かの計算誤差とか、ケーブルの差し方が甘かったとかじゃないの?」 もちろん、これは子供じみた疑いである。

「哲学的な何か,あと科学とか(著:飲茶)」まえがき

ここでは細かい科学的な誤りは無視する。

科学においては、当然、「ニュートリノという新粒子があることが証明」される前には、「別の原因」「何かの計算誤差」「ケーブルの差し方が甘かった」等、ありとあらゆる可能性を検討する。 また、測定値が理論値と一致するかも検証するし、何度も追試が行われる。

例えば、ニュートリノが光速を超えたとする発表があったが、その実験結果は徹底的に検証され、測定の不備の可能性が指摘された後の再実験の結果では光速を超えていないことが確認された。

このように、科学の証明では、ありとあらゆる可能性が徹底的に検証される。 それを知らずに、言いがかりで異議を唱えることが「子供じみた疑い」であることは言うまでもない。

プロの科学者たちの実験を素人がむやむに疑うべきではないだろう。

「哲学的な何か,あと科学とか(著:飲茶)」まえがき

プロの科学者たちの実験を素人が疑うことは何も問題がない。 プロの科学者と素人の見解が一致しない場合は素人が間違っている可能性が高いにも関わらず、その可能性を検討することなくプロの科学者の方が間違っていると思うことが問題なのである。

でも、それでもだ。 これら科学的な証明のどこかにもしも間違いがあったとしたら……。 そして、その間違ったツジツマ合わせが、まるで「ボタンのかけ違い」のように連鎖していったとしたら……。 ちょっと想像するとゾワゾワしないだろうか?

「哲学的な何か,あと科学とか(著:飲茶)」まえがき

既に説明した通り、「科学的な証明のどこかにもしも間違い」「その間違ったツジツマ合わせが、まるで『ボタンのかけ違い』のように連鎖」の可能性は、徹底的に検証されたことである。

そこまで考えたとき、理系の学生だった僕は、哲学に興味を持つようになった。 なぜなら、哲学は「正しいとは何か?」を問いかける学問であったからだ。

「哲学的な何か,あと科学とか(著:飲茶)」まえがき

本物の哲学は「『正しいとは何か?』を問いかける学問」であるかもしれないが、この著者が本書で哲学として紹介しているものは、単なる詭弁に過ぎず、学問と呼べる代物ではない(決定論と自由意志参照)。

さて、本書は、理系の著者が、そうした哲学を学ぶ過程で知りえた「科学的な正しさ」に関する衝撃的なトピックスをまとめたものである。

「哲学的な何か,あと科学とか(著:飲茶)」まえがき

本書の「トピックス」が「衝撃的」であるのは、「『科学的な正しさ』に関する」ことではなく、「理系の著者」の頭のおめでたさである(ネット上の二重スリット実験トンデモ解説参照)。

「相対性理論を含めて、あらゆる科学理論って、結局は単なる壮大なツジツマ合わせだったの!?」

「正しい科学理論と間違った科学理論を見分けることって実はできないの?」

「赤が、なぜ『あの色』で見えているかは科学では絶対に説明できないの?」

などなど、哲学的な視点で「科学的な正しさ」を問いかけていくと、実はそれがかなり危ういものだと気づかされるだろう。 いままで確かだと思っていた景色がガラガラと崩れる瞬間は、怖いけども、ちょっぴり楽しかったりもする。

「哲学的な何か,あと科学とか(著:飲茶)」まえがき

「それがかなり危ういもの」であるのは、「哲学的な視点で『科学的な正しさ』」ではなく、この方が哲学と称する詭弁に過ぎない。

飲茶氏が詭弁を改めない理由 

飲茶は論客コミュニティという議論掲示板を運営しています。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

議論掲示板を運営しているなら、当然、過去に、飲茶氏の詭弁を指摘した人もいただろう。 飲茶氏の詭弁を鵜呑みにする人は少なくないかもしれないが、気付かない人が全くいないということもあり得ない。 それなのに、飲茶氏が詭弁を改める気配は全くない。 それは、批判に全く耳を傾けない飲茶氏の姿勢にある。

「議論とは、『意見を持った複数の人たち』が論理だけを頼りに『対等』に話し合うことである」

これは一見、まともな議論の定義に思えるが、私は『違う』と思う。

こういう発想で行われる議論は大抵うまくいかない。

私は、むしろ議論において、論者同士は『対等であるべきではない』と思っている。


「『対等』な関係では議論は成立しない」のは何故か。

その答えは単純に、私を含む君たちがみな『どうしようもなく未熟』だからだ。

自分の意図しない方向に議論が傾けばイライラし、 『自分とは違う論理体系を持つ人』に出会えば 腹立たしさを感じ、顔を真っ赤にして罵りたくなる。 そして、ときには 丁寧な言葉で相手の無理解に対して『嫌味』をネチネチと言ったり、 まるで後輩にでも語りかけるような『礼を尽くさないフランクな表現』で茶化したり、 相手の発言の不備を『見ている方が不愉快になるほど断定的な言い方』で責めたてたりする。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

さて、飲茶氏の言うように、「私を含む君たちがみな『どうしようもなく未熟』」なために、「論理だけを頼りに」することができず、感情論に走ることで、「『対等』に話し合うこと」ができないとしよう。 それならば、論理以外の感情論を持ち込むことを禁止すれば良いのであって、「『対等』に話し合うこと」を否定する理由に全くなっていない。 もちろん、それが当事者同士で解決できないなら、管理者裁定が必要になろう。 しかし、それは、「『対等』に話し合うこと」を否定する正当な理由には全くならない。

論における論者同士の理想の関係は 『王と騎士』の関係 であると私は思う。

・王は騎士の『生殺与奪権』を持っており、気に入らないものを文字通り『消す』ことができる。  それゆえ騎士は王に絶対逆らうことができない。

・王は『神聖』な存在である。  したがって、神である王の言葉に対して、なんぴとも『無作法に異を唱えてはならない』。

こういった関係で議論を行う方が、『対等』の関係で議論を行うよりもマシであり、効率的であると私は考えている。


だから、そろそろ気づいた方がいい。 『王と騎士』といった偏った関係性でもないかぎり、 『私たちはまともに議論なんてできない』ということに。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

「『王と騎士』といった偏った関係性」で、「王」は気に入らない発言を排除することが可能となるが、それではまともな議論などできようはずもない。 異論・反論を認めないものが議論であるわけがない。

私は、ネット上の議論を見続けた結果、 ネット上の『対等な議論』というものに『絶望』してしまった。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

自身の詭弁を押し通したい飲茶氏からすれば、それが通じない「『対等な議論』というものに『絶望』」するのも当然だろう。

その『絶望』から次のような『新しい議論』のあり方を考えてみる。

まず、『志(議題)』を持つ人が『王』であることを宣言し、 何もない荒野に『王国(スレッド)』を建てる。

『王』の『志(議題)』はさまざま。 「エネルギー問題について解決策を模索したい」など幅広いものもありうるが、 とりあえずは具体例として、次のような『志』だったとしよう。

『アイデアXによって、原発を根絶できると思います。これについて広く意見を求めます』

この『志(議題)』に惹かれた人たちが『騎士』として『王国(スレッド)』にやってくる。 『騎士』は『王』に意見を献上し、『王』はその意見をまとめ、『議事録wiki』に反映する。

概要は以上である。

『騎士から反論を受けたときに王はどうするべきか』

さて、王国(スレッド)にやってきた『騎士』がまず最初になすべきことは 『王』の議題に対する『反論』の提示である。

ここで、反論はおおよそ次の3パターンが考えられるだろう。 (無意味、不毛な反論は除く)

(1)前提までさかのぼる反論

(2)核心的な反論

(3)枝葉および横やりぎみな反論

以下、それぞれについて、『王』がなすべき対応を記載する。

『(1)前提までさかのぼる反論』

たとえば、こんな反論があったとしよう。

「アイデアXを実現するのには結構な費用がかかりそうですね。 そもそも、『なぜ原発を根絶しないといけないのですか?』」


さぁ、面倒なことになった。

もともとの議題は、 『アイデアXによって原発を無くすことができるかどうか』 である。

だから当然、議題を投げかけたスレ主が議論したい内容は 『アイデアXの是非』 についてである。

しかし、返ってきたレスは、アイデアXについてはおざなりなもので、 『予想外の、なんだか面倒そうな質問』まで含まれていた。

スレ主は、さっさとアイデアXについて議論したい。

そこで相手の質問には適当に返答して、話題をアイデアXに戻そうとした。

「原発が危険だからです。費用がかかると言いますが、 どんな対策でも費用がかかるのは当然ではないですか。 このアイデアXにかかる費用と、原発の安全対策にかかる費用を比べると……」

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

ここでは、このスレ主が、「原発が危険」という確定認識に基づいて論じようとしている点に注目してもらいたい。

彼は、アイデアXという、いわば『新しい料理』をみんなに品評してもらうためにスレッドを立てたのだ。 それなのに……、目の前の相手は、料理ではなく『料理が乗っている皿』について議論を始めてしまった!

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

適切な例え話は、論点を整理したうえで、論点部分で類似していて、かつ、論点以外を単純化するなどした話を挙げて理解しやすくする。 しかし、飲茶氏が持ち出したこの例え話は、論点(一方の結論が他方に与える影響度合い)を混同させたうえで、論点以外(接点がある)で類似した話を挙げ、類似点が論点に該当するのかどうかをわかりにくくして、あたかも、論点で類似しているかのように錯覚させている。 言うまでもなく、飲茶氏が持ち出したこの例え話には、論点以外(接点がある)での類似点は見られるが、論点(一方の結論が他方に与える影響度合い)での類似性があるわけではない。 これは、自分で論点整理ができない人に対しては、極めて有効な詭弁手法である。 逆に、常にしっかりと自分で論点整理をしている人には、全くと言って良いほど効き目がない。 飲茶氏は、こうした例え話を用いた詭弁を多用する(決定論と自由意志参照)。

元の話は、「原発が危険」かどうかと、「原発を根絶できる」かどうかである。 この場合、前者の真偽によって、後者の必要性も変わってしまう。 一方の結論が他方に根本的に影響する点で、両者の関係性は深い。

一方、飲茶氏が出した例え話は、「『料理が乗っている皿』について議論」と「『新しい料理』をみんなに品評」である。 この場合、前者の議論の結果が何であれ、後者には全くと言って良いほど影響しない。 一方の結論が他方にほとんど影響しない点で、両者の関係性は乏しい。

飲茶氏は、「目の前の相手」がスレ主の提示した議題とは無関係なことを主張し始めたと印象付けたいがために、このような例え話を出したのだろう。 しかし、元の話では、スレ主の提示した議題と密接に関連する事項について「目の前の相手」が言及している。 真実に反する印象を植え付ける目的で例え話を悪用することは明らかな詭弁である。

しかし、スレ主の思惑通りに事は進まなかった。

「原発は危険だと言いますが、ここで言う危険とはどのレベルの危険を指していますか? まずは危険の定義を明確にしてください」

返ってきたレスを読んでスレ主は『うっわ、うざっ』と思った。

スレ主が、そう思うのも無理はない。


この不本意な展開にスレ主は苛立ちを感じはじめる。 こんな会話はさっさと終わらせたい。 こうして、スレ主は、ついつい口調がきつくなり、『常識では』『普通に考えて』など 短絡で説得力のない理屈で「原発は危険だから無くすべき」と強引に結論付けて、 話を元に戻そうとする。

このスレ主の不用意なレスで、もうこのスレッドは終了である。

「やはり彼は、 『原発に対して稚拙な理解しか持っていないのに、根絶を叫ぶ浅はかな輩』 であった!」

そう確信を深めた反論者はもう容赦しない。 完全に口調を『論破モード』に切り替える。

「危険だと思う根拠はなんですか? まずそれを提示してください。  提示していただけなければ、その発言は論として無効です。  また、原発をやめて化石燃料による発電方法に戻した場合、  大気がより汚染されることについてはどう考えていますか?」

スレ主が「認識を改めます」と『敗北』を認めるまで、理路整然と追い詰めていく。

一方、「アイデアXについて和気あいあいと楽しい議論ができると思っていたスレ主」は、 この展開に『モチベーション』を維持できない。 もはやスレ主は、「自分が立てたスレッドだから」という義務感だけで返答する。 当然、スレ主が行うレスの質は低下し、 「変なやつに噛みつかれた」という想いもあいまって言葉遣いもだんだんと荒くなっていく。

こうなったら反論者はもう止まらない。 「相手が不誠実で、稚拙で、無作法なやつなら、 こっちも相応の対応をしてしかるべきだ!」

『ヒーーートアップ』

第三者が「いい加減にしなさい」と介入するまで 見るに耐えない不毛なやり取りが続き、それだけでスレッドが埋め尽くされる。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

これは謙虚さが足りない「スレ主」の自業自得であり、「そう思うのも無理はない」わけがない。

前提の真偽が不明の場合は、真偽を棚上げして、かつ、真の場合と偽の場合の両方について論じることは正当な議論である。 というのも、決着がつかないのに前提の真偽に拘っていては、本題の議論ができないからである。 もちろん、その場合も、真偽のどちらか一方だけに偏っていては、到底、議論とは呼べない。 前提の真偽を棚上げしても、真の場合と偽の場合の両方について満遍なく論じていれば、真偽がどちらであるかに偏らない議論が可能となる。 そして、そうした議論によって、前提の真偽が明確になる場合もある。 しかし、前提の真偽を明確にできる場合であれば、真偽を棚上げする正当な理由がない。 前提の真偽を明確にできる場合は、前提の真偽に対して、言いがかりではない、正当な疑義が生じた場合は、前提の真偽から議論し直す必要がある。 何故なら、明らかに間違った前提に基づいていては、到底、議論とは呼べないからである。 言うまでもなく、前提の真偽が明確だとするならば、前提への疑義を認めない意見交換は議論とは呼べない。 また、前提の真偽から議論し直した結果として、前提の真偽が不明となる場合もあろう。

一般に、「原発が危険」かどうかは詳しい情報に基づいて検証しないことには結論を出せない問題である。 しかし、先ほども指摘した通り、「原発が危険」は確定した真実だと、この「スレ主」が認識していたことは疑う余地がない。 つまり、「スレ主」は、「原発が危険」かどうかは明確にできる事実であると認識しているのである。 しかし、「『常識では』『普通に考えて』など短絡で説得力のない理屈で「原発は危険だから無くすべき」と強引に結論付けて」いることから見て、この「スレ主」は裏付けを何も持っていなかったのである。 ようするに、この「スレ主」は根拠のないことを堂々と主張し、その根拠がない事実が暴かれただけである。 このような状況で逆切れするのは、疑似科学論者、トンデモ論者の特徴である。

この場合、「スレ主」が望んでいたことは真理を明らかにするための「議論」ではない。 「スレ主」は、自身の根拠なき妄想の発展に加担してもらうことを「和気あいあいと楽し」くやりたかっただけである。 そうした「議論」に偽装された妄想談義は、疑似科学論者やトンデモ論者の常套手段である。 もちろん、妄想談議だと断ったうえで妄想談義を行うことは何も問題はないし、それならば、妄想談議の前提が間違っていると指摘する方がおかしい。 しかし、「議論」を自称しておいて、その中身が妄想談義となるなら、その「議論」は詭弁以外の何物でもない。

本気で真面目に議論する気があるなら、「スレ主」は、異論・反論に真摯に耳を傾け、自身の主張が間違っている可能性と向き合うべきである。 そして、この場合、この「スレ主」は裏付けを何も持っていなかったのだから、真摯に向き合えば、自身の主張が根拠なき妄想であったことを認めざるを得ないだろう。 そして、ちゃんと根拠に基づいて真相を調べ直してから出直せば良い。 「分からないから教えてくれ」でも良かろう。 もちろん、調べ直した結果として、やはり「原発が危険」だと確信したなら、調べた根拠に基づいて改めて主張すれば良い。 いずれにせよ、「スレ主」の無知・無理解によって議論の前提が崩れており、「反論者」はそれを指摘したに過ぎないのだから、「スレ主」自身の努力で解決すべきことである。 異論・反論に対して聞く耳を持たず、何の根拠もないのに自身の主張が絶対に正しいと盲信しているから、反射的に「『常識では』『普通に考えて』など短絡で説得力のない理屈で「原発は危険だから無くすべき」と強引に結論付けて、 話を元に戻そうとする」のである。 もちろん、結論に全く影響しない重箱の隅を突くだけの揚げ足取りは相手にする必要がないし、明らかに誤った主張を受け入れる必要もない。 しかし、自身の主張を絶対不可侵扱いし、それを完全に覆す異論・反論を認めないことが前提となるなら、それはもう議論とは呼べない。

では、どうすれば良かったのだろうか。

『王と騎士』による議論方式に従うなら、スレ主は以下のようにするべきであった。

①最初の反論がでた時点で、 『前提:アイデアXを適用したときに原発が廃止できるかどうか、のみを問うものとする』 『前提:原発自体の是非は問わない』 といった『議論の前提』をかかげ、その旨を『議事録Wikiで書き込んで、明言する』。

②それでも、反論者がしつこく『スレ主(王)が決めた前提(法)』に疑義を唱えるならば、 スレ主(王)は、システムから与えられた権限を利用し、 反論者を『出入り禁止(国外追放)』にする。 (以後、反論者はスレッドに書き込みできなくなる)

以上である。これで問題は解決する。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

これが、真偽不明の立場で結論を棚上げする意味で「原発自体の是非は問わない」なら妥当な方法であろう。 しかし、この後の説明を見る限り、この「スレ主」の「原発が危険」だという認識が正しいことが前提となっている。 つまり、ここで言う「原発自体の是非は問わない」とは、「スレ主」が正しいと主張していることに異論・反論を唱えることを禁止しているのである。 異論・反論を認めないものが議論であるわけがない。

『スレ主(王)が決めた前提(法)に逆らうものは、出入り禁止(国外追放)とする』

このあまりに独裁的で過激な議論のやり方については、理解すべきポイントが3つある。

『1)前提を疑うこと自体は不当ではない』

まず、「前提を疑うこと」で、有益に議論が発展することは十分にありうる。

たとえば、先の具体例でいえば、前提を問い直すことで、 「原発を根絶する必要はない」もしくは 「根絶ではなく、被害が許容できる範囲で運用できれば良い」 といったふうにスレ主の考え方が変わるかもしれない。

そうなれば、アイデアXに関する議題自体が消滅するわけだが、 これは有る意味では、 『スレ主の議題に対して、より本質的な意味で答えを与えた』 とも言えるだろう。

繰り返すが、このように『前提を疑うこと』で、 『有益に議論が発展すること』は十分にありうる。

したがって、この独裁的な議論のやり方は、けっして 「単純に、前提を疑うことが無益で無価値だから、やってはいけない」 ということを意図してはいない。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

「前提を疑う」ことが、どのような場合に許されて、どのような場合に許されないのか、飲茶氏は論点を全く整理していない。

『2)前提はいくらでも疑いが可能であり、疑いの止めどころは存在しない』

むしろ、問題はこちらの方である。

議論というものは、必ずなんらかの『前提』がなければ成り立たないが、 あらゆる前提について、常に『終わりなき疑い』が可能である。

たとえば、 『ある前提(原発を根絶する)』を否定して、 『別の前提(危険がない状態になればあってもかまわない)』を持ち出すことも可能だし、 前提の前提の前提の……(ようは、なぜ?なぜ?なぜ?)といった形で、 前提の基盤を疑い続けることも可能である。

つまり、『前提を疑い出したら、きりがない』のだ。

だから、どこかで「ここから先は疑いません」という『疑わない地点』を 誰かが『決断』しなくてはならない。

しかし、やっかいなことに、この『決断』は、論理的で合理的なものにはなりえない。

どうしても『単なる好き嫌い、個人的な趣向』になってしまう。


議論の前提というものは、 「一方が独裁的に決定し、他方がそれに疑義を停止して同意する」という形式でしか、 本来、成り立たないのである。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

飲茶氏は、蓋然性の程度を無視し、100%正しいわけでも100%間違っているわけでもないことを全て同列に扱っている。 これは疑似科学論者やトンデモ論者の特徴である(「かもしれない」論法参照)。

確かに、この世の中には、100%正しいことはないし、100%間違っていることはない。 しかし、99%正しいことや99%間違っていることはある。 だから、世間では、ある一定以上の蓋然性をもって真偽を判断するのである。

もちろん、世の中には、真偽の判断が困難なこともある。 しかし、一定以上の蓋然性をもって真偽を判断できることも多い。 いずれの場合も、真偽が不確定か確定か明確になっている。 情報が不足していて真偽を確定できないか、あるいは、高度な蓋然性をもって真偽を確定できるかのどちらかにしかなり得ない。 だから、以下のような主張は成立しない。

  • 『前提を疑い出したら、きりがない』
  • 「この『決断』は、論理的で合理的なものにはなりえない」
  • 「どうしても『単なる好き嫌い、個人的な趣向』になってしまう」
  • 「議論の前提というものは、『一方が独裁的に決定し、他方がそれに疑義を停止して同意する』という形式でしか、 本来、成り立たないのである。」

スレ主としては、「前提に対する疑義が発生したら、なんとかして、 論理的に、合理的に、自分が設定した前提が正当であることを主張したくなる」 わけだが、そんなことはそもそも『不可能』である。 (なぜ不可能かというと、それはまさに言葉のとおり『前提だから』だ)

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

先ほども説明した通り、前提には確定したものと不確定なものの2通りがある。 だから、「まさに言葉のとおり『前提だから』だ」ということは、「論理的に、合理的に、自分が設定した前提が正当であることを主張」することが「そんなことはそもそも『不可能』である」根拠になり得ない。

少し脱線するが、 すべての論者は、議論を行う前に、数学(論理学)における 『公理(証明不可能な暗黙の了解)』という概念を理解しておくべきである。

たとえば、ある数式があったとする。

普通は、 「この数式について、数学者同士が議論すれば、同じ結論がでるに違いない」 と思うかもしれないが、現実にはそうではない。

たとえば、「ゼロで割ったときはどういう扱いにするか?」など、 どのような種類の『公理(前提となるルール)』を設定するかによって、 まったく違った結論が導かれる。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

疑似科学やトンデモ論ではどうかは知らないが、真っ当な数学においては、「『ゼロで割ったときはどういう扱いにするか?』など、どのような種類の『公理(前提となるルール)』を設定するかによって、まったく違った結論が導かれる」ことはない。

「ゼロで割ったとき」にどうなるかは、直感では分かりにくいが、反比例グラフを書くと分かりやすい。 たとえば、1÷Xにおいて、Xの初期値を+1とし、徐々に0に近づけていくと、1÷Xは+∞に近づいていく。 一方で、Xの初期値を-1とし、徐々に0に近づけていくと、1÷Xは-∞に近づいていく。 仮に、どちらかを1を「ゼロで割ったとき」の値として採用するとしても、+∞なのか-∞なのか決められない。 このように「ゼロで割ったとき」の値は不定となるので、「どういう扱い」にもしようがない。 だから、数学上の『公理(前提となるルール)』では「ゼロで割っ」てはいけないこととなっている。 「まったく違った結論が導かれる」ような『公理(前提となるルール)』の差異は存在しない。

だったら、この数式について 「公理Aを使うのが正しいのか?」 「公理Bを使うのが正しいのか?」 を問いかけたいところだが……、 残念ながら、

「そんな問いかけは不可能である。  どのような公理であろうと、つまるところ、それは  『正しいと証明はできないけど、とりあえずこうしておこう』  という、どっかの誰かが暫定的に設定したただの決め事にすぎない。  だから、『どの公理(決め事)を使うのが正しいか』なんて  問いかけたって決着がつくわけがない」

と、数学史上ではすでに決着がついてしまっている。

だからこそ、数学者たちは、 「公理Aを設定したら、こういう結果になります」 「公理Bを設定したら、こういう結果になります」 と語るだけにとどめ、「どちらの公理がより正しいか」なんてことで、 論争をはじめたりはしない。

しいて言うとしたら、 「まったく個人的な主観だけど、公理Bを設定した方が『面白い』結果になるよね。  なので、僕は、こっちを使います」 ぐらいである。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

飲茶氏は「数学史」を捏造している。 2つの公理における結論が相矛盾する場合、「『どちらの公理がより正しいか』なんてことで、論争をはじめたりはしない」なんてことはあり得ない。 当時の知見ではどちらが正しいか決着をつけられなかった事例はあるかもしれないが、矛盾を容認して「論争をはじめたりはしない」などという出来事は「数学史上」一度たりともない。

公理 - 哲学的な何か、あと科学とか を見る限りでは、「『どちらの公理がより正しいか』なんてことで、 論争をはじめたりはしない」とは、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学のことを指しているのではないかと思われる。 飲茶氏は「自明だったはずのユークリッド幾何学の公理が、実際には人間の思い込みだったことが明らかになる」「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」と主張しているが、これは飲茶氏の勘違いである。

ユークリッド幾何学は歪みのない空間でのみ成立する幾何学である。 一方で、飲茶氏自身が説明している通り、非ユークリッド幾何学は「簡単にいえば『歪んだ紙の上に書いた図形』を取り扱うもの」である。 扱う対象が違うから中身も違うのであって、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の間には何ら矛盾がない。 「どちらの公理」も「正しい」から「論争をはじめ」る必要性がないだけである。 確かに、非ユークリッド幾何学の登場により、ユークリッド幾何学が修正を余儀なくされたのは歴史的事実である。 しかし、それは、ユークリッド幾何学が正しくないとされたのではなく、それぞれの幾何学の成立条件が整理されただけである。 歪みのない空間ではユークリッド幾何学を適用し、歪みのある空間では非ユークリッド幾何学を適用するのである。 例えば、一般相対性理論は、リーマン幾何学で論じられるが、ユークリッド幾何学では論じることができない。 ユークリッド幾何学では結論を導くことができないのだから、リーマン幾何学とユークリッド幾何学の間に結論の矛盾は生じ得ない。

確かに、どのような公理も100%正しいことを証明できない。 しかし、現実と辻褄が合わなければ間違っていることがわかるため、「無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」ことはない。 相矛盾する2つの公理が生まれても、どちらかが現実と食い違うことが分かれば、より現実に忠実な方を正しい公理として扱うのである。 量子力学の解釈のようにどれが現実に近いか測定可能な範囲では確かめようがないケースもあるが、相矛盾する公理のいずれもが現実と完全に一致することはあり得ない。 だから、相矛盾する2つの公理が乱立することはないし、その意味での検証は為されているのである。 「個人的な主観」で「公理Bを設定した方が『面白い』結果になるよね。なので、僕は、こっちを使います」などという理由で公理が採用されるわけがない。

『3)前提への疑義は慎重に、かつ建設的でなければならない』

とはいえ、 『スレ主(王)に対して、いっさい微塵たりとも前提への疑義を述べてはいけない』 というのもやりすぎである。

というのも、1)で述べたように、 「前提への疑義」が有益な方向に進む可能性はゼロではないからだ。

ただし、「あなたの前提は間違っている」「こっちの前提の方が正しい」 という論調でやってしまうと、2)で述べたとおり、 「正しい前提(存在しないもの)を巡って、いつまでも議論が続き、  結果、本来の議論ができなくなる」 というやっかいな事態が起こってしまう。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

仮に、「正しい前提」が「存在しない」場合であっても、適切に議論ができれば、真偽の確定が不可能という結論が導けるのであり、「いつまでも議論が続」くことはない。 真偽の確定が不可能であるのにも関わらず、自分の説が正しいと主張することは、根拠なき妄想の提示であって、議論とは言えない。

そこで、前提へ疑義を唱える反論者(騎士)は 以下の原理(騎士道)に従って行わなくてはならない。

・スレ主(王)が設定した『議論の前提』について『疑義』がある場合は 「それは間違っている」という論調で、変更を訴えてはいけない。 あくまでも、 「こういうふうに前提を変更すれば、 より面白い議論になります、より建設的な議論になりますよ」 という『提案』の形で行う。

たとえば、 「アイデアXを実現するためのコストはいっさい問わない」という前提を 取り外した方が、議論が面白くなりそうな場合である。 (その逆に、前提を追加して議論の幅を狭めた方が、面白くなりそうな場合もある)

そういう「建設的な姿勢を見せた上での、疑義は行っても良い」だろう。

ただ、それはあくまでも『提案』であり、 『決定権はスレ主(王)の趣向にゆだねるべき』である。 スレ主の心を動かせなかったときは、自分の表現力の無さを恥じて、 早々に引き下がるべきである。

では、ここで、反論者(騎士)が、 「どうしてもスレ主(王)の前提が気に入らなかった場合」 にはどうすれば良いのか?

それは簡単で、そのスレッド(王国)から出て行けば良い。


(そうしないで、 「現実に起こりえない想定で議論を進め、それでなんらかの結論が得られたとして、 それが果たして正しい議論と言えるのか、はなはだ疑問でうんぬんかんぬん……」 などと、いつまでもスレ主につきまとったら、一向に議論が前に進まず、 『あえてその前提で議論したい』と集まってきた他の人たちに迷惑である)

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

「以下の原理(騎士道)」とやらは単なる疑似科学やトンデモ論を膨らませているだけであるが、特定少数の人間だけが閲覧できる場であればそれも各自の自由だろう。 しかし、不特定多数が閲覧できる場でそれをやることは、異論・反論を封殺したうえでの疑似科学やトンデモ論の流布に該当する。 それは、世間に対する大迷惑であり、「『あえてその前提で議論したい』と集まってきた他の人たちに迷惑」などとは比べ物にならない。

たとえば、将棋において、ある人が 『10手以内に、決着がつかない場合は、先手の勝ち』 というルールを設定したとしよう。

あまりに非常識なルールに思えるが、かといって、 「このルールはおかしい!間違っている!」と 相手に詰め寄ることに正当性はない。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

これで飲茶氏が何を言いたいのかサッパリ意味不明である。 先ほども説明した通り、適切な例え話は、論点を整理したうえで、論点部分で類似していて、かつ、論点以外を単純化するなどした話を挙げて理解しやすくする。 しかし、飲茶氏が持ち出したこの例え話は、論点(従う必要性)を混同させたうえで、論点以外(強要の有無)で類似した話を挙げ、類似点が論点に該当するのかどうかをわかりにくくして、あたかも、論点で類似しているかのように錯覚させている。 言うまでもなく、飲茶氏が持ち出したこの例え話には、論点以外(強要の有無)での類似点は見られるが、論点(従う必要性)での類似性があるわけではない。

ゲームは、そのルールも含めてゲームなのである。 だから、ルールが違えば、それは全く別のゲームである。 もちろん、誰かが「『10手以内に、決着がつかない場合は、先手の勝ち』というルール」を主張しても、それに合意する人がいなければ、当然、そのルールは無効である。 言い換えると、当事者同士の共通認識や合意があるなら、「あまりに非常識なルールに思え」ても、そのルールは有効である。 そのルールが気に入らないなら、ルールを変えた別のゲームを作れば良いだけである。 つまり、この場合、論じるべきことは、そのルールの妥当性ではなく、合意するかどうかなのである。 だからこそ、「『このルールはおかしい!間違っている!』と相手に詰め寄ることに正当性はない」のである。

また、将棋には将棋の基本ルールがある。 金に香車や桂馬のような動きを認めたら、それは、もはや、将棋ではない。 基本ルールの範囲内で、その場限りのルールを設定することは、当事者同士で決めれば良いことである。 しかし、基本ルールに反するなら、それは将棋とは呼べない。 将棋のルールが気に入らないなら、ルールを変えた別のゲームを作れば良い。 そして、その新しいゲームには、将棋とは別の名前をつける必要がある。

議論も、詭弁を用いない等の基本ルールに従う必要がある。 言うまでもなく、前提の真偽が明確であるなら、前提への異論・反論を禁止することは明らかな詭弁である。 議論の基本ルールが気に入らないなら、ルールを変えた議論以外の何かをすれば良い。 そして、それは、当然、議論とは呼べない。 よって、このような例え話では、議論において「原発自体の是非は問わない」ことを正当化することはできない。

「議論の前提(条件、ルール、アプローチ)」の設定について『正解』は存在せず、 誰かが独断で決めなければならないのだとしたら……、

『やりたい人がやりたいようにやれば良い』

と、私は考える。そう考えるがゆえに私は、 スレ主(王)に、これら議論の前提を 『無根拠に独裁的に設定する権限』 を与えたいと思う。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

先ほども指摘した通り、情報が不足していて真偽を確定できないか、あるいは、高度な蓋然性をもって真偽を確定できるかのどちらかにしかなり得ない。 仮に、「正しい前提」が「存在しない」場合であっても、適切に議論ができれば、真偽の確定が不可能という結論が導ける。 よって、「『議論の前提(条件、ルール、アプローチ)』の設定について『正解』は存在せず、誰かが独断で決めなければならない」という前提は成立しない。

たとえば、 『前提:空気抵抗は無視する』 という前提は、まったく現実と整合していない。 現実には空気抵抗があるのだから、 そんな前提を持ち出して『運動』について議論をしても、 現実には起こり得ない結果が導き出されるに決まっている。

だが、実際には、こうした極端な前提で議論した方が 『運動』についてより本質に迫った結果が得られることがある。

という場合もあるのだから、 『やらせてみればいい』のだ。

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々

「空気抵抗は無視する」は、空気抵抗が存在することを前提とした仮定であるから、空気抵抗の否定ではない。 そして、こうした仮定を置く場合は、その正当な理由も説明される。

  • 例1:他の影響に比べて空気抵抗は無視できるほど小さい
  • 例2:空気抵抗の影響と他の影響を別々に議論することが可能

だからこそ、「『運動』についてより本質に迫った結果が得られることがある」のである。 よって、「まったく現実と整合していない」仮定を置きたいのであれば、その仮定を置く正当な理由を説明すれば良いだけである。 それは、正当な理由のない「まったく現実と整合していない」仮定を置く口実にはならない。

「『運動』についてより本質に迫った結果が得られることがある」ことは、「極端な前提」で『やらせてみればいい』条件が存在し得ることを示しているが、無条件で「極端な前提」で『やらせてみればいい』ことを示してはいない。 だから、具体的な条件を明示して、その条件を満たす場合に限って「極端な前提」で『やらせてみればいい』と主張するなら、その条件を含めた妥当性を議論することは可能である。 しかし、条件を限定することなく、いかなる場合でも「極端な前提」で『やらせてみればいい』とする主張は、議論に偽装した妄想談義を正当化しているに過ぎない。

そして、論じた結果を適切に評価できるのであれば、「極端な前提」で『やらせてみればいい』が正当化できる。 しかし、論じた結果を適切に評価できない者に「極端な前提」で「やらせてみれば」明後日の方向に行ったっきり帰って来れなくなるのは明白である。 例えば、ネット上の二重スリット実験トンデモ解説で紹介したように、飲茶氏は、実験結果に反する隠れた仮定を置いて「決して説明できない」「解釈は、袋小路に追い込まれた」と主張していた。 実験結果に反する仮定を置くことが既に意味不明だが、その仮定で「決して説明できない」「解釈は、袋小路に追い込まれた」なら、その仮定が正しくないと考えるのが理性的な判断である。 しかし、飲茶氏は、その仮定を放棄せずに「ツジツマを合わせるために、『ヘンテコな新しい考え方』を作り出」している。 しかも、その後、飲茶氏は別の解釈を紹介するが、それは、飲茶氏が置いた仮定さえなければ何の問題も生じないことを示している。 しかし、飲茶氏が置いた仮定については最後まで明言せず、仮定の問題を有耶無耶にし、その仮定から生まれた『ヘンテコな新しい考え方』を撤回することもしない。 以上のことから、飲茶氏には、論じた結果を適切に評価する能力がないことは明白である。 よって、飲茶氏が「極端な前提」で『やらせてみればいい』と主張するのは百年早い。

「原発自体の是非は問わない」ことについては、正当な理由があるようには見えないし、飲茶氏自身も正当な理由を一切説明していない。 今説明したばかりの飲茶氏の言動パターンから見ても、論じた結果を適切に評価できるとは考えにくい。 というか、循環論証や結論先取といった詭弁手法を目的としている疑いがあり、それならば極めて不当である。

『(2)核心的な反論』

スレ主(王)の主張について、核心をついた反論があったとき、 王はどうするべきだろうか?

その前に、「王(スレ主)」と「反論を述べる騎士(スレッド参加者)」 の『立場の違い』をはっきりとさせておこう。

すべての騎士は、以下の原理(騎士道)に従って議論に参加するものとする。

なお、この原理は、『王と騎士』による議論方式の核心である。 よく心に刻みつけて欲しい。

『騎士(参加者)は、王(スレ主)と対立してはならない!』

『騎士(参加者)は、王(スレ主)の主張を破壊しようとしてはならない!』

飲茶が考える理想の議論のやり方(1) - 飲茶な日々


私が考える反論の『作法』はこうである。

まず、騎士(反論者)は、決して王の反対側の席には座らない。

騎士(反論者)は、あくまでも王(主張者)の『味方』であり、 『身内』であり、王と『同じ側の席』に座っていなければならない。

ゆえに、反論は、次のような形式となる。

騎士A「王様、仮に敵が攻め込んでくるとしたら……、  おそらく、ここに弱点があるとみて、こう攻めてくると思います」

騎士B「もしくは、あっちの方から攻めてくるという手も考えられます」

すなわち。 「反論者自身が、対立者として王の主張の問題点を『指摘』する」 のではなく、あくまでも、王の身内の立場として 「仮想的な敵としての対立者を想定し、  その対立者がどんな反論を述べてくる可能性があるかを『提示』する」 のである。

私は、これが『正しい反論の作法』だと考えている。


(補足) 『反論者は、あくまでも身内の立場として、反論の可能性を提示する』

ところで、なぜ反論者は『わざわざ身内の立場』として、 反論を述べなくてはならないのか?

その理由は単純である。我々が『未熟』だからである。 我々が『反論されると感情をかき乱される心の弱い動物』だからである。

「そんなことはない。まともな反論であれば、ぜんぜん冷静でいられる。  まともな反論を受けて感情が乱されるとしたらそれは乱した方が悪い」

という意見もあるだろう。

しかし、あえて言おう。

『無理!』

「反論されたときは、  自分では気づかなかった問題点を教えてもらえたと思って、  相手に感謝しましょう(^△^)」

なんて話を、議論の作法としてよく聞くが、 でもやっぱり「無理」だと思う。

僕たちは、ちゃんとした反論だろうが、なんだろうが、 公共の掲示板で面と向かって反論されると、 『ドキっ』としたり、『グサっ』ときたり、 『カッチーン』ときてしまう心の弱さを持っている。 そこは、もう正直に認めてしまっていいと思う。

飲茶が考える理想の議論のやり方(2) - 飲茶な日々

「我々が『反論されると感情をかき乱される心の弱い動物』」という理由で、「反論されたときは、自分では気づかなかった問題点を教えてもらえたと思って、相手に感謝しましょう」が『無理!』であるなら、当然、『反論者は、あくまでも身内の立場として、反論の可能性を提示する』も『無理!』なはずである。 それなのに、何故、「騎士(反論者)」には『無理!』を強いることを強要しながら、「王(主張者)」には『無理!』を強いてはならないと主張するのか。 それでは、完全なダブルスタンダードだろう。 飲茶氏の主張では、「王(主張者)」の言動への言い訳としては成立したとしても、同じ言い訳を「騎士(反論者)」の言動に認めない理由が一切説明されていない。 結局、「王(主張者)」に都合が良いように反論を封殺するという結論が先に決まっており、それに合わせて主張内容を組み立てているだけである。

尚、先ほどの「そもそも、『なぜ原発を根絶しないといけないのですか?』」は、それにより議論の大前提が崩壊しているのだから、言うまでもなく「核心をついた反論」であろう。 そして、「騎士(反論者)」は、「公共の掲示板で面と向かって反論」したわけではなく、ただ的確な質問をしただけである。 その程度のことで「 『ドキっ』としたり、『グサっ』ときたり、 『カッチーン』ときてしまう心の弱さ」が「スレ主」の「適当に返答」の言い訳になるなら、何故、「騎士(反論者)」は「適当に返答」を返されたことにより「 『ドキっ』としたり、『グサっ』ときたり、 『カッチーン』ときてしまう心の弱さ」を克服して「反論者は『わざわざ身内の立場』として、 反論を述べなくてはならない」のか。 しかも、「反論者」は初見では反論ではなく質問として返す配慮をしているのにである。 少なくとも、飲茶氏は、こうしたダブルスタンダードを正当化する理由を一切説明していない。

どうしても、僕たちは、 『勝ち/負け』『論破する/論破される』『優/劣』 といった『二項対立』のパラダイムで『世界』をみてしまう。

そして、そういう『パラダイム(ものの見方)』を 持っているからこそ、 議論で反論を受けると感情がかき乱されてしまう。

『議論が苦手』という人は世の中に多いと思うが、 その理由の根本は、結局のところ、この 『議論=勝ち負け』という「パラダイム(思い込み)」 にあると思う。


私は、この 『「議論=勝ち負け(論者同士の対立)」というパラダイム』 (議論とは勝ち負けではないと承知しつつも、 どうしてもそのように捉えてしまう僕たちのものの見方) を変えたいと願っている。

しかし、とはいえ、 「対立はいけませんよ」とか 「相手の感情に配慮して反論を述べましょう」 といった『精神論』『お題目』を叫んだところで、 それが役に立つとも思えない。

だから、議論の構造自体を変更するべきだと思う。

飲茶が考える理想の議論のやり方(2) - 飲茶な日々

以下の前提であれば、やるべきことは、当然、「『議論=勝ち負け』という『パラダイム(思い込み)』」を否定する共通認識を持つことである。

  • 「その理由の根本は、結局のところ、この 『議論=勝ち負け』という『パラダイム(思い込み)』にある」
  • 「私は、この『「議論=勝ち負け」というパラダイム』を変えたいと願っている」

「議論=勝ち負け」ではないとは、意見の対立と人の対立を混同しないことを意味する。 対立した意見に決着がついたとしても、お互いが適切な根拠と論理に基づいて発言していれば、そのこと自体は結果論に過ぎない。 正しいとされた意見を述べた側は、その時は、たまたま、正しいとされた意見を述べたに過ぎない。 間違っているとされた意見を述べた側は、その時は、たまたま、間違っているとされた意見を述べたに過ぎない。 お互いが適切な根拠と論理に基づいて発言していれば、別の機会では立場が逆転するかもしれない。 それは、「対立はいけませんよ」や「相手の感情に配慮して反論を述べましょう」とは全く別の論点である。 だから、「議論の構造自体を変更するべきだと思う」は、そうした論点のすり替えに基づいた結論である。 意見の対立を禁止したら、それはもはや議論ではない。

ただし、適切な根拠と論理に基づかない発言をする者は、高確率で間違った意見を言う側に立つ場合がある。 そして、「お前は根拠もなく発言するから間違えるんだ」のように発言者の姿勢が指摘されると、意見の対立と人の対立が一致してしまう。 しかし、それは、その発言者自身の問題であり、議論のやり方の問題ではない。

2)レスを返さないと、論破された気分になるので、  延々とレスを返してしまう

時系列表示の議論掲示板の場合、 『最後の発言が目立ってしまう』ので、 私たちはどうしても、 『反論しなかった人の負け(逃げ出した)』 『最後に反論した人の勝ち(論破した)』 みたいな印象を持ってしまう。 その結果、 明らかに主題からずれていることがわかっていても、 延々とレスを返してしまうことが多々ある。


結局のところ、お互いに 『最後に自分がツッコミを入れた状態で終わりたい』 と思っているのだから、 当事者同士でレスの応酬を『終えられるわけがない』。

飲茶が考える理想の議論のやり方(3) - 飲茶な日々

『最後に自分がツッコミを入れた状態で終わりたい』都合で「延々とレスを返してしまうこと」を防ぎたいなら、新規内容のない蒸し返し発言を禁止すれば良いだけである。 もちろん、それが当事者同士で解決できないなら、管理者裁定が必要になろう。 しかし、それは、「スレ主(王)」への異論・反論を封じるべき正当な理由には全くならない。

「違います。こういう考え方も成り立つと思います」 「それは、この場合には成り立ちませんよ」 「それは、成り立たないケースをわざわざ考えたからそうなるだけです」 「では、成り立つケースの方が一般的という根拠を示してください」 「いえ、まずあなたが成り立たないケースについて根拠を示すべきです」 「いえいえ、説明責任の観点から、明らかにあなたが示すべきです」 「どうも説明責任の意味を理解していないようですね。そもそも……」

こうして、第三者から「いい加減にしなさい」と言われるまで、 グダグダの議論が続いてしまう。

飲茶が考える理想の議論のやり方(3) - 飲茶な日々

提唱者側に説明責任があることは確立した議論の作法である。 もちろん、それが当事者同士で解決できないなら、管理者裁定が必要になろう。 しかし、それは、「スレ主(王)」への異論・反論を封じるべき正当な理由には全くならない。

『Q:公文書とは何か?』

A:入国前の騎士に、王が意思を伝える際に発行される『形式的なお手紙』である。

たとえば、すごく嫌な騎士がいて、 その人を『除名(休暇に)』したとする。

このとき、王は、 『除名(休暇)について何も発言してはならない!』 (除名の理由も、除名があったことも、公に述べてはならない!) という『国際法』を遵守しなくてはならない。

※国際法をやぶると『法王庁(管理者)』からペナルティ(アカバン)をくらう。 なお、法王は、本議論システムを作った人ではなく、 信用度の高い王が密かに選ばれ、その人が運営しているものとする。 法王の顔が見えないことで、アカバンされた人は個人的な私怨を持ちにくくなるし、 システムを作った人(つまり、飲茶)は、 「すみません、別の人がやってるので私は知りません>△<」と言い張ることができる。

『除名については一切言及不可!』

『除名するなら、黙って除名!』

これが除名の原則である。

※なぜ王は除名について語ってはいけないか? それは、除名された側(騎士)が何も発言できないのに、 除名した側(王)が『あいつを除名した』などとあーだこーだ言うのは卑劣だからだ)

飲茶が考える理想の議論のやり方(4) - 飲茶な日々

「除名した側(王)が『あいつを除名した』などとあーだこーだ言う」ならば、「除名された側(騎士)」がそれに反論できない理由が除名されたせいであることも明らかになる。 「除名された側(騎士)」が「逃げ出した」わけでもなく、「除名した側(王)」が「論破した」わけでもなく、ただ、「除名された側(騎士)」の反論の機会を「除名した側(王)」が剥奪しただけであることが白日の元にさらされる。 であれば、第三者は、過去の経緯から、除名行為の妥当性を判断できよう。 だったら、どうして「除名した側(王)が『あいつを除名した』などとあーだこーだ言うのは卑劣だ」などと言えるのか。 確かに、過去に議論されていない話を持ち出して「除名された側(騎士)」を批判することは、反論の機会を与えない批判という点では卑怯かもしれない。 しかし、過去に議論された話の範囲で除名理由を説明するならば、何ら卑怯に当たらないことは言うまでもない。

むしろ、「除名した側(王)が『あいつを除名した』などとあーだこーだ言」わない方が卑怯であろう。 飲茶氏は、先ほど、「私たちはどうしても、『反論しなかった人の負け(逃げ出した)』『最後に反論した人の勝ち(論破した)』 みたいな印象を持ってしまう」と主張していた。 ならば、「除名した側(王)が『あいつを除名した』」と言わなければ、「除名された側(騎士)」が「逃げ出した」、「除名した側(王)」が「論破した」という印象を周りに与えてしまうはずである。 「除名された側(騎士)」に真相を語る機会を与えずにそうした印象を作り上げることは「卑劣」ではないのか。

『スカウト機能について』

王は、なにも黙って騎士の参加を待つばかりではない。

王から騎士にむけて、『スカウト』をすることができる。

飲茶が考える理想の議論のやり方(4) - 飲茶な日々

それを認めれば、『スカウト』による多数派工作で賛同者を増やすことで議論の勝利を演出できる。 とくに、ネット上の掲示板等の少数で議論している場合は多数派工作が勝利の鍵になってしまう。 それでは真っ当な議論などできるわけもない。

議論の本質に迫るにはそんなことよりも、 『そもそも、あなたは何を求めて議論と呼ばれる行為を行っているのか?』 という目的、動機(もっといえば欲望)について問いかけるべきである。

ようするに、

『どうなりたくて、あなたは議論をしているのか?』 『どうなったら、あなたにとって議論が成功したと言えるのか?』

という話であるが、その答えは、おそらく、

「『自分の考え(主張、問題意識)』を  『相手(他者)』に理解してもらったうえで、  相手から  『自分ひとりでは気がつかなかった視点(反論、提案)』を  提示してもらい、  それによって自分の中に今までになかった『新しい考え』が  生じたとき」

であろう。

この状態になったとき、僕たちは 『ああ、議論をやって良かった』と思えるわけだし、 そもそも僕たちはこの状態を求めて、 「議論と呼ばれる行為」を始めたはずである。

(他人を論破して快楽を得たいという  馬鹿げた目的で始めたのでなければ)

結局のところ、僕たちは、 『他者の知見(自分の知らなかったこと、気づかなかったこと)』 という『利益』を求めて議論を行うのである。

【完結】飲茶が考える理想の議論のやり方(5) - 飲茶な日々

以下の内容について、自分の趣味嗜好に反していても、内容が妥当であれば受け入れるのであれば、「スレ主(王)」への異論・反論を封じる理由はない。

  • 『自分ひとりでは気がつかなかった視点(反論、提案)』
  • 『新しい考え』
  • 『他者の知見(自分の知らなかったこと、気づかなかったこと)』

内容の妥当性の有無にかかわらず、自分の趣味嗜好に合ったものだけを受け入れようとするから、「スレ主(王)」への異論・反論を封じなければならないのである。

ここで『囚人のジレンマ』という言葉について考えてみてほしい。

囚人のジレンマとは、

「お互いが譲り合わず、自分の利益だけを求めてしまうと、  全体としてもっとも低い利益しか得られない」

という状況を表す『ゲーム理論』上の概念であるが、 前述のとおり、議論はまさに この『囚人のジレンマ(互いに相手を利用しようとして共倒れ状態)』 に相当する。

【完結】飲茶が考える理想の議論のやり方(5) - 飲茶な日々

全参加者が、自分の趣味嗜好に反していても、内容が妥当であれば受け入れるのであれば、目指すべき目標はパレート最適となるから、「互いに相手を利用しようとして共倒れ状態」になることはあり得ない。 内容の妥当性の有無にかかわらず、自分の趣味嗜好に合ったものだけを受け入れようとするから、「互いに相手を利用しようとして共倒れ状態」になるのである。

囚人のジレンマを解消するひとつの方策は、

『今回はアナタが利益を得る番で、ワタシが協力する番ですよー』

と『役割』をあらかじめ決めておいて、 その役割を順番に『交代』することである。

仮に今回は、『Aさんが利益を得る人(王)だ』と決めたとする。 この場合、Aさん以外の人たちは『騎士』となり、 『Aさんのために、Aさんが利するように』行動しなくてはならない。

【完結】飲茶が考える理想の議論のやり方(5) - 飲茶な日々

「互いに相手を利用しようとして共倒れ状態」を解消したいなら、パレート最適を目指す必要があり、そのためには、各人がナッシュ均衡を目指そうとする行動を改める必要がある。 「その役割を順番に『交代』する」方法で各人がナッシュ均衡を目指そうとする行動を追認していては、「互いに相手を利用しようとして共倒れ状態」を解消できるわけがない。

【さいごに】

『日本人は議論が下手』だと言われている。 (ためしに「日本人 議論」でネット検索してみよう)

面と向かって反論されるのが苦手で、 『反論=攻撃』という先入観をもっている我々日本人は、 たしかに議論がどうしようもなく下手である。

しかし……だからこそ!

「議論が下手だ」と言われている我々だからこそ! それを逆手にとって、 『よりストレスの少ない楽しい議論のやり方』を 考えられるはずではないだろうか!

【完結】飲茶が考える理想の議論のやり方(5) - 飲茶な日々

「『反論=攻撃』という先入観をもっている」から「議論がどうしようもなく下手」なら、「『反論=攻撃』という先入観」を解消すれば良いだけである。 異論・反論をなくす「やり方」では、「よりストレスの少ない楽しい」ものになったとしても、それでは議論ではなくなってしまうので本末転倒である。

私(飲茶)は、『論客コミュニティ』という議論掲示板を 10年近く運営してきたが、 その進化系として、ここで述べた議論掲示板も作ってみたい!

だが、世界に『議論の模範』を示す、この議論掲示板は、 もはや『コミュニティ』という名では その偉大さを表すことはできないだろう。

そう、この議論掲示板にふさわしい名は……

論客キングダム

【完結】飲茶が考える理想の議論のやり方(5) - 飲茶な日々

異論・反論を禁止する「論客」とは何ぞや? どのような異論・反論であろうとも、論理的に再反論できるのが本物の論客であろう。 というか、飲茶氏が自画自賛する理由が全く理解できない。 異論・反論を禁止した妄想談議では、感情を満たすために議論を放棄した反面教師となっても、『議論の模範』になるわけがない。 何が「偉大」なのかもサッパリ意味不明である。

まとめ 

以上の通り、正当な理由なく、持論への異論・反論を認めない、飲茶氏の姿勢がよくわかる。


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