オッカムの剃刀
論点整理の手法
オッカムの剃刀は論点整理の手法である。
ある事象が仮定Aのみで説明できる場合、追加の仮定Bは必要ない。 このような時、オッカムの剃刀では仮定Bを削る。 それは、決して、仮定Bが間違っていることを示さない。 もちろん、仮定Aと比べた場合の優劣も不明である。 ただ、単に、説明しようとする事象では、仮定Bについて言及できないだけなのだ。 その事象では、仮定Bの妥当性は全く検証できない。 その事象では、仮定Bの真実性も全く検証できない。 言い換えると、その事象と仮定Bは関係がない。 その事象とは関係がないから、その事象の話から仮定Bを切り離すだけである。 そして、別の事象の話をするときに仮定Bが必要になるなら、その別の事象からは仮定Bを切り離さない。 逆に、その別の事象の話をするときに仮定Aが不要なら、その別の事象の話からは仮定Aを切り離すのである。
これは、アニメの話をするときに確定申告の話をしないのと同じである。 アニメの話をするときはアニメの話をし、確定申告の話をするときは確定申告の話をする。 アニメの話と確定申告の話に優劣をつけるわけでもなく、真偽を判定するわけでもない。 それぞれは別々の話題なのだから区別する。 ただ、それだけのことである。
ようするに、今話していることと関係ないことを今の話題から排除しているにすぎない。 そして、それは、今後扱う可能性のある別の話題から排除することを意味しない。 その話題に必要な話だけをする、という論点整理にすぎないのである。
定義
基準は必要性
デジタル大辞泉によればオッカムの剃刀は次のように定義される。
「必要なしに多くのものを定立してはならない」という原則。
必要性の有無が基準であるから、削れるものは不要な仮定だけである
真偽も優劣も判定できない
だから、オッカムの剃刀は真偽の判定則には使えない。 たとえば、次のような2つの仮説がある場合、オッカムの剃刀では両者は対等となる。
- 仮定に過不足のない仮説α
- 仮定に過不足のない仮説β
仮定に過不足のない仮説αから仮定を削ることはできない。 仮説αの一部を削れないのだから、当然、仮説αの全部も削れない。 同様のことは仮定に過不足のない仮説βにも言える。 よって、オッカムの剃刀では仮説αも仮説βも削れない。
真偽の判定則には使えないということは、両者の優劣をつける用途にも、両者の一方を削る用途にも使えないということである。 何故なら、先の2つの仮説に関しては次の3つは実質的に等価だからである。
- 妥当な方の選択する
- 真偽を判定する
- 優劣を判定する
オッカムの剃刀は、過剰な仮定を追加したものと、その過剰な仮定を削ったものの、どちらがより妥当かを判断するための道具である。 つまり、オッカムの剃刀は、妥当な結果を導くための道具なのである。 もちろん、オッカムの剃刀は、正しさを保証しないが、間違った選択にも誘導しない。 オッカムの剃刀が削るものは、事象の説明に不要な仮定のみである。 事象の説明に不要ということは、その仮定はその事象によって証明できないことを意味する。 そして、削ぎ落とされたことは、その仮定が間違っていることを意味しない。 ただ、その事象では検証できない事項だから、その事象に対する検証項目から除外しただけである。 だから、正しい可能性がある仮定を間違っていると判断することにはならない。 オッカムの剃刀は、検証手段を最適化することにより正しい方に進む手助けをするものであるから、決して、間違った選択には誘導しない。 その意味で、オッカムの剃刀は、仮定が必要かどうかの妥当性を判断する手段なのである。
次の2つのいずれかを選ぶ場合を考える。
- 仮定A
- 仮定A+仮定B
この場合は、仮定の真偽を判定せずとも、過不足のない方を選べば妥当な選択になる。 では、次の2つのいずれかを選ぶ場合はどうか。
- 仮定に過不足のない仮説α
- 仮定に過不足のない仮説β
この場合、真偽や優劣を判断せずに妥当な選択をすることはできない。 真偽を判定できないのに、どちらか一方を削れば、間違った方を選ぶ恐れがある。 また、優劣を判定できないのに、どちらか一方を削れば、劣った方を選ぶ恐れがある。 間違った方や劣った方を選ぶなら、当然、それは妥当な選択とは言えない。 つまり、この場合は、真偽や優劣の判定をしない限り、妥当な選択にはならない。 妥当な選択ではない、すなわち、出鱈目な選択であるならば、そのような指針に存在意義はない。 以上により、真偽の判定則には使えないことは、両者の優劣をつける用途にも、両者の一方を削る用途にも使えないことを意味する。
以上、一般化すると、仮説が複数あっても、それらに仮定の過不足がない限り、オッカムの剃刀ではいずれかの仮説を削ることはできない。 これは辞書に書かれた定義から論理的かつ容易に導ける帰結である。
デジタル大辞泉には次のように書かれているではないかと言う者もいるかもしれない。
「ある現象を説明する理論・法則が複数ある場合、より単純な方がよい」などの意味で用いられる。
しかし、この場合、「理論・法則が複数ある」とは、以下のいずれを指すのか。
- 元の「理論・法則」に追加の仮定を加えた「理論・法則」と元の「理論・法則」の並立
- お互いに仮定の数に過不足のない全く異なる出自の「理論・法則」の存在
前者に当てはめると、仮定Aだけで説明できるのか、それとも、仮定Bも追加しなければ説明できないのかを問うことになる。 これは、まさに定義通りの適用である。 一方、後者に当てはめると、仮定A+仮定Bで過不足がなく、かつ、仮定Cでも過不足がない場合はどうするか。 双方とも過不足がない場合にも仮定の数が少ない方を優先するなら、必要性を無視して表現数のみを基準にすることになり、「必要なしに多くのものを定立してはならない」という原則に合わない。
また、表現上の数で判定することには何の合理性も見出せない。 例えば、AとBをDという一言で言い表せ、EとFをCという一言で言い表せる場合、A+BとCの比較は、DとE+Fの比較でもある。 このように、表現上の仮定の数の比較結果は、表現方法で簡単に逆転する。 だから、そのような表現上の数を数えても何の意味もない。
表現上の個数で数えることが必ずしも合理的でないことは頓智にも出てくる。 人知を超えた魔神から「何でも1つ願いを叶えてやろう」と言われた時、人は知恵を絞る。 ある者は「100個の願いを叶えてくれ」と言い、また、別の者は「私を全能の神にしてくれ」と言うだろう。 1円貰うのも1億円貰うのも、叶える願いの表現上の数は、どれも1つである。 しかし、両者の叶える願いの実質的量は明らかに違う。 つまり、ここでは、魔神は、1つという表現上の数だけに言及し、叶えられる願いの実質的量には言及していない。 表現上の1個の願いであっても、その中の実質的量は同じではなく、実質的量次第で得られる利益が全く違うものになる。 実質的量が1円相当の願いを100個叶えるよりは、実質的量が1億円相当の願いを1個叶えた方が得なのだ。 そこで、頭の良い人は、表現上の1個の願いの中により多くの実質的量の願いを込められるかに挑戦する。 以上のことからも明らかな通り、実用面では、問うべきは実質的量であって、表現上の数ではない。
例えば、神の存在を仮定することは万能仮定である。 その仮定では現時点で未発見の現象も含めて、如何なる現象も説明できてしまう。 万能ということは、実質的に無限量の仮定を置くに等しい。 表現上の仮定の数が少ない方が優れているなら、1つの万能仮定を置いた仮説が最も優れていることになる。 しかし、そのような実質的量を無視した表現上の数だけを問う判定基準に何の実用的価値があろうか。
以上まとめると、以下の2点を踏まえると、「ある現象を説明する理論・法則が複数ある場合、より単純な方がよい」における複数の「理論・法則」の意味は、お互いに仮定の数に過不足のない全く異なる出自の「理論・法則」と解釈する合理的理由はない。
- 定義との整合性
- 表現上の数を問うことの無意味さ
合理的に解釈するなら、ここで言う複数の「理論・法則」のとは、元の「理論・法則」に追加の仮定をおいた「理論・法則」と元の「理論・法則」と解釈する以外にない。
誤用等
必要性
オッカムの剃刀を否定する主張で、必要な仮定まで削るかのような誤りを見かける。 しかし、オッカムの剃刀では「必要なしに多くのものを定立してはならない」のであって、必要がある場合に「多くのものを定立」することは禁止されていない。
仮説の選択
太陽風の加速もコロナの異常な高温も 惑星系の同一平面上の整列も黒点も 電気的宇宙論で全部説明つくんだなぁ…… あまりの衝撃になんか呆然としてしまう
2021年12月14日午後7:14(ヤハグイキヨ) - twitter
恒星の光は核融合によるもんじゃありませんでしたとさ ちゃんちゃん
2021年12月14日午後7:36(ヤハグイキヨ) - twitter
ダークマターもダークエネルギーも人類の妄想でした ブラックホールは存在しません 平行宇宙……はどのみち解釈に過ぎないからいいとして 重力レンズも赤方変異も捉え方を大間違いしてました
信じるか信じないかはアナタ次第!!
2021年12月14日午後7:46(ヤハグイキヨ) - twitter
オッカムの剃刀ってこういうのを言うんだろうな 皮肉なもんですねセーガン先生……
ここでは、「電気的宇宙論」によってその他の宇宙論の常識が覆ることを指して「オッカムの剃刀ってこういうのを言うんだろうな」と言っている。 前後の文脈から見て、「こういうの」が「電気的宇宙論」を除外していないことは明らかである。 「電気的宇宙論」(を含めること)で仮定が削れることを「こういうの」と言っている。 そして、全体を見れば、多くの仮定を削れる「電気的宇宙論」がその他の宇宙論よりも優れていると言いたいであろうことも明らかであろう。
しかし、これはオッカムの剃刀の誤用である。 オッカムの剃刀は、お互いに仮定の数に過不足のない全く異なる出自の「理論・法則」の選別には使えるものではない。
仮定数の過少申告
「この仮説は主流学説より仮定が少ないから優れている」と主張される場合、大抵は仮定の数が過少申告されている。 例えば、「多世界解釈は主流学説より仮定が少ないから優れている」と主張される場合があるが、これは仮定の数の過少申告に基づいた主張である。 確かに、元になったHugh Everettの"Relative State" Formulationは、射影仮説を含まない分だけ主流学説より仮定の数が少ないが、現実の実験結果とも合わない。 現実の実験結果と適合するように修正された多世界解釈では、射影仮説に相当する仮定を含んでおり、主流学説と比べて仮定の数は少なくない。
論理的な主張ができる人であれば、仮定の数が優位性の根拠とならないことを知っている。 言い換えると、仮定の数を優位性の根拠とする者は、論理的な主張ができない。 そのような者は、持論を優位に見せる結論ありきの主張をしがちなので、持論の仮定を少なく見せるためには手段を選ばない。 例えば、持論には特定の仮定が不可欠であるのに、目立たなくすることでその仮定が存在しないかのように見せかけることも珍しくない。
尚、根拠なき隠れた仮定を置くことは、オッカムの剃刀を適用しないケースでも、よく見かける詭弁手法である。
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