デコヒーレンス

概要 

量子力学における量子デコヒーレンスとは、量子もつれによって干渉性が失われるとする理論である。

ハイデルベルク大学のディーター・ツェヒは重要なことを発見した。 さまざまな状態が重ね合わさっているシステムにおいて、システムの構成要素がお互いに強く相互作用する場合、持続的なパターンが出現するのだ。 持続的なパターンとは、システムの諸構成要素それぞれが、同時に実現する確率が高い状態になっているセット(パターン)である。 逆に、重ね合わせの中で、構成要素の状態がお互いに調和しないパターンの影響は消えていく。

たとえば、要素Aがaという状態になると同時に、要素Bがbという状態になるという確率が高いとき、(ab)という組み合わせは1つの持続的なパターンであるという。 そのとき、Aが別の状態a'になり(a'b)となるのは調和しないパターンであり、システムのその後の発展において、そのパターンの影響は無視できるようになる。 そのようなパターンからの干渉効果が無視できるという意味である。

また、状態a'に対しては別の状態b'があり、(a'b')という組み合わせが、別の持続的パターンを作る可能性はある。 しかし、(ab)および(a'b')という2つの持続的パターンはお互いに影響を及ぼさない(干渉し合わない)。 このように、いくつかのお互いの影響を及ぼさないパターンに分岐していくプロセスをデコヒーレンス(decoherence、干渉性の喪失)と呼ぶ。 要素AとBがエンタングルしている(絡み合っている)ための結果である。

「量子力学の解釈問題―実験が示唆する『多世界』の実在」(ISBN-10:4062576007,ISBN-13:978-4062576000,著:ColinBruce,訳&注:和田純夫)P.131-132

「システムの構成要素がお互いに強く相互作用」して「お互いの影響を及ぼさない」「同時に実現する確率が高い状態になっているセット(パターン)」=「持続的なパターン」が生じて「調和しないパターン」の「干渉効果が無視できる」ようになることは、すなわち、量子もつれ(quantum entanglement)そのものである。 つまり、ここで言っていることは、量子もつれ現象が干渉性の喪失を生じさせるということである。 状態a'と状態bの間の干渉性を無視できなければ、(a'b)となるパターンの影響は無視できないはずである。 言い換えると、(a'b)となるパターンの影響を無視できるということは、状態a'と状態bの間の干渉性を無視できるということになる。 すなわち、量子もつれにより(ab)と(a'b')が「持続的パターン」となる場合、状態a'と状態bの間および状態aと状態b'の間の干渉性を無視できる。

たとえば、シュレーディンガーの猫において、次のように定義する。

要素A
状態a
死ななかった猫
状態a'
死んでしまった猫
要素B
人間

ここで量子もつれにより(ab)と(a'b')が持続的なパターンになったとすると、要素Bは次のように表せる。

状態b
死ななかった猫を見ている人
状態b'
死んでしまった猫を見ている人

このケースでは(a'b)と(ab')は調和しないパターンとなり、干渉効果が無視できる。 結果、状態bと状態a'の干渉性が失われて、死ななかった猫を見ている人には死んでしまった猫が見えなくなる。 同様に、状態b'と状態aの干渉性が失われて、死んでしまった猫を見ている人には死ななかった猫が見えなくなる。

表6−1は、エリック・ヨースの論文から取った。 この場合のデコヒーレンス時間、つまり局所化にかかる時間とは、もともとの位置が確定していない状態が、位置が確定している持続的パターンに分岐する(=お互いの干渉性を失う)のにかかる時間を意味する。 そしてこのデコヒーレンス時間は、対象物の最初の位置の不確定さに依存する。 デコヒーレンス時間と、最初の位置の不確定さの2乗の積は、局所化が起こるメカニズムごとに一定であることがわかっている。 したがってこの表では、デコヒーレンス時間(秒単位)と、最初の位置の不確定さ(センチメートル単位)の2乗の積が記されている。

直径10-3cm 直径10-5cm 直径10-6cm
宇宙背景放射10-61061012
温度300Kの光子10-1910-1210-6
太陽光(地表上)10-2110-1710-13
実験室の真空(103粒子/cm310-2310-1910-17
空気の分子(1気圧)10-3610-3210-30

例えば左上の数字は10-6だが、宇宙空間に浮かんでいる直径1000分の1センチメートル(=10-3cm、強力な虫眼鏡で何とか見える大きさ)の塵が、位置がたとえば1センチメートルのレベルで不確かな場合、ビックバンの残滓である有名な絶対温度3Kの宇宙マイクロ波背景放射(=宇宙空間に充満する光子)の衝突により、10-6秒程度で比較的正確な位置に特定できることを示す。 しかし、もしその位置の不確定さが、自身の直径1000分の1センチメートル(=10-3cm)と同程度しかない場合には、位置が特定されるのに1秒かかる。 最初の位置がかなり確定していると運動量の不定性が大きくなるので(不確定性関係)、かえって局所化に時間がかかる。

表の右上から左下までの数字の大幅な変化に注目していただきたい。 局所化は温度や気圧が地表上の状態に近づくほど速くなる。 また、大きな物体ほど速くなる。 おそらく、塵の粒よりも大きな物体がかなりのレベルで非局所的でありうる場所(つまり位置が確定せず波のように広がっている場所)は、この自然界のどこにもないだろう。 少なくとも宇宙マイクロ波背景放射(表の1行目)は全宇宙に普遍的に広がっており、それが局在化を引き起こすからである。


デコヒーレンスの理論によれば、ミクロなレベル以上で大幅に異なる状態の間の干渉は、非常に急速に消滅する。 2スリット実験での1つの電子が左のスリットを通ったか右のスリットを通ったかの違いしかない歴史は、大きく干渉し合う。 しかし多くの粒子が異なる状態にある歴史は、ほとんど干渉しない。

「量子力学の解釈問題―実験が示唆する『多世界』の実在」(ISBN-10:4062576007,ISBN-13:978-4062576000,著:ColinBruce,訳&注:和田純夫)P.136-137,168

これは、周辺の光子や空気分子との量子もつれ現象が生じる時間を説明している。 これによれば、対象となる構成要素の持つエネルギーが大きいほど、また、大きさが大きいほど、短時間で量子もつれ現象が生じて、干渉性が喪失する。 日常生活の範囲では、人間が認知できないほどの短時間で干渉性が喪失してしまう。 二重スリット実験の真相で説明した通り、逆に、二重スリット実験等の量子力学的実験を行うためには、干渉が必要な期間中には干渉性を喪失させないようにするため、「位置が確定している持続的パターンに分岐する(=お互いの干渉性を失う)」時間を長くとる必要があり、そのためには実験空間中の真空度を高め、かつ、外部からの光等が入らないようにする必要がある。

二重スリット実験で、電子はスリット板(実際には、電子線バイプリズム)と相互作用するが、スリット板は比較的小さいので干渉性が消失する速度はあまり速くない。 そして、 電子がスリットからスクリーンに達するまでは1億分の1秒 二重スリット実験 - 日立 である。 結果として、二重スリット実験では、スクリーンに波が到達するまでの間、干渉性消失がほとんど進行しないので、波の干渉が発生する。 しかし、それを測定すると、少なくとも、人間という超マクロの物体が相互作用するので、干渉性消失が急速に進行する。 結果として、干渉性消失後の状態だけが測定されるので、あたかも、波動関数の収縮のように見える結果が残る。

理論的相性 

多世界解釈では、実験系と測定系の量子もつれによって、干渉性が失われることのみを考慮すれば良い。 よって、量子デコヒーレンスと多世界解釈との相性は非常に良い。

世界が1つしかない理論・解釈では、1つだけ残して他の「持続的なパターン」を消失させなければならない。 測定結果と干渉しない「持続的なパターン」が残れば、それは、多世界解釈そのものになってしまう。 しかし、前述の説明では「持続的なパターン」が如何にして消失するかの説明がない。

世界が1つしかない理論・解釈では、環境との量子もつれにより、1つだけ残して他の「持続的なパターン」が消失することとしているようである。 では、その場合、「持続的なパターン」は如何にして消失するのだろうか。

実証 

デコヒーレンスは単なる理論上の効果ではないことを強調しておこう。 このことは実際に実験によって確かめられる。 そのような実験はすでに、ウィーン大学の恐るべき実験家アントン・ツァイリンガーによって比較的大きな物体を使って実施されている。 フラーレンという、炭素原子60個からなる、サッカーボール型の分子を使った干渉実験である。

ツァイリンガーは、環境によるデコヒーレンス、すなわち周囲の粒子(分子など)との衝突による分子の位置の「読み取り」が、2スリット実験で得られる干渉縞のぼやけをもたらすことを確かめた。 そのような実験の1つは、完全な真空ではない場所で行われた。 そうすると、時折、フラーレン分子が気体分子と衝突してデコヒーレンスが起こり干渉縞をぼかす。 別の実験では、飛んでいるときに、光子を放出するほど熱いフラーレン分子を使う。 放出された光子は、フラーレン分子の位置についての情報を与える。

どちらの実験でも、デコヒーレンスの予想は確認された。 誤差は比較的大きいが、現在提案されている新しい実験は、精度を劇的に上げるはずである。 実際、後の章で見るように、デコヒーレンスの影響に極めて敏感である量子コンピュータのような装置は、自然に、極めて高い精度でデコヒーレンスを測定する方法を提供する。

「量子力学の解釈問題―実験が示唆する『多世界』の実在」(ISBN-10:4062576007,ISBN-13:978-4062576000,著:ColinBruce,訳&注:和田純夫)P.137-138

この実験は、環境との相互作用が射影仮説における波動関数の収縮を引き起こすことを裏付けたと言えるだろう。 しかし、どのような過程で「干渉縞のぼやけ」が生じたのかを確認していない以上、量子もつれが干渉性の喪失になるとする原理を裏付けたとまでは言えまい。 その原理を実証したければ、量子もつれになっている一対の量子ABのaとa'、および、bとb'のそれぞれの干渉性が失われていることを確認する必要がある。 パラメトリック下方変換など、量子もつれの一対の光子を生成する方法は既に確立されている。 生成段階で量子もつれになっているなら、既に「構成要素の状態がお互いに調和しないパターンの影響は消えて」いるはずである。 それならば、ABを別々の二重スリットに誘導して干渉縞を観測すれば良い。 干渉縞が生じれば干渉性が残っていることになり、量子もつれになっても干渉性が消失しないことの証拠となる。 もしも、デコヒーレンスの原理が正しいなら、いずれの二重スリットも干渉縞を発生させないはずである。

現状 

一見、有望に見える理論であるが、 数学的厳密さに欠ける シュレディンガーの猫 - 科学と技術の諸相 とされる。

ただし、この解釈にも、いくつかの問題点がある。 中でも「致命的」ではないかと思われるのが、数学的な厳密さに欠けている点である。 この理論が正当だと認められるには、デコヒーレンスが完全で、分岐した状態が「互いに全く干渉しない」ことが必要である。 ところが、実際に証明できたのは、きわめて簡単なモデル的システムで「互いにほとんど干渉しない」状態に分岐するということでしかない。 わずかに残った「干渉する部分」──死んだ猫にほんの少し混じっている生きた猫の要素?──が、遠い将来、巡り巡って何らかの影響を及ぼすことは、あり得ないとは言えない。

シュレディンガーの猫 - 科学と技術の諸相


なお,割とポピュラーになっている,「Consistent Histories」とか「多世界解釈」などの理論でも,干渉項が消えることが大前提になっているので,この節で述べた,「実は干渉項が完全に消えることは示せていない」という問題は,大問題として残ったままになっている事を注意しておく.

量子測定の原理とその問題点 by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明教授

補足すると、多世界解釈では、デコヒーレンスが採用されている。

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