典型的な疑似科学の例その1

最初に 

これは疑似科学信者の典型的な例である。

 

ちゃんと勉強している人にとってはいまさらな話なのですけど、最近こういう認識に欠けている人が無分別に宗教やオカルトをこき下ろしているのを見るにつけ、書いておかないといけないと思って書きます。

疑似科学の必要性 - 隠すほどの爪なら無い

以下に詳細に説明するが、「ちゃんと勉強している人」が「こういう認識」を持つはずがない。 「ちゃんと勉強」していないからこそ、「こういう認識」を持つのである。

ここで4人に出場してもらいます。

1)科学

2)宗教・哲学

3)オカルト

4)疑似科学

私の感覚的には、今の世論はこのようになっています。

1)>>>>>2)>>3)>4)

しかし本当はこうです。

1)=2)=3)=4)

1)と2)と3)が同じ理由は簡単な話なんですけど、いずれも自然を対象にした自己無矛盾な体系であるということです。 UFOも超能力も、それが実際に起こったのであれば「自然」であり、それを対象として研究することは「オカルト」ですが「自然科学」と本質的に変わりません。 宗教・哲学は「自分自身」ないし「こころ」といった「自然」を扱うものであり、やはり「科学」に分類されるものです。 この辺までは割と異論はないと思います。

疑似科学の必要性 - 隠すほどの爪なら無い

「この辺までは割と異論はない」のはアンタの脳内だけでしょw 尚、4「人」じゃないだろとか細かいツッコミはここではしない。

最初に断っておくと、「哲学」はこの中で一つだけ異質な存在である。 科学との区別が曖昧だった古代の哲学を除く、現代の科学との区別が明確な哲学について言えば、これは科学と違う分野の学問である。 科学について考察する科学哲学もあり、哲学は科学と比べるようなものではない。

確かに、科学は「自然を対象にした自己無矛盾な体系である」が、「自然を対象にした自己無矛盾な体系である」ことは科学の十分条件ではない。 最も重要な差異は「自己無矛盾な体系」をどのような手段で維持しているのかの違いである。 当サイトの科学項目の目的で説明している通り、宗教・オカルト・疑似科学には、反証可能性がない。 すなわち、誤りを一切認めないという結論が決まっている。 だから、コジツケ、都合の悪いことの無視等のあらゆる手段を講じて、主張を全く変更せずに「自己無矛盾な体系」を維持している。 それに対して、科学は、反証可能性があるので、従来理論に誤りが見つかれば、それを素直に認める。 科学では、新しい知見に基づいて理論を修正し続けることで「自己無矛盾な体系」を維持している。

宗教・オカルト・疑似科学は、「それが実際に起こった」証拠を提示しない。 科学では、「それが実際に起こった」証拠を提示する。

以上のとおり、科学とそれ以外は本質的に全く違うものである。 よって、「この辺までは割と異論はない」などと言うことはありえない。

4)疑似科学は「科学のように見えるけど、実は違う」と言うもので、一般的には「自己矛盾」を内包している理論が「疑似科学」と言われます。 たとえば永久機関のように、明らかにエネルギー保存則に反しているのですが、理論は物理学の借り物、それに手心を加えて無理やり成立したように見せかけているものです。 近代物理学の理論を借りるなら、エネルギー保存則を破る理論が必要となります。 このような理論的裏付けなしに既存の物理学などの科学体系を破ったと言ってしまうような行為を指して疑似科学と言います。

疑似科学の必要性 - 隠すほどの爪なら無い

疑似科学とは、科学の条件を満たさないのに外見だけ科学に似せてあるもののことであって、「『自己矛盾』を内包している理論」のことではない。

永久機関は、物理学の法則を完全に無視することで「無理やり成立したように見せかけている」のであって、「理論は物理学の借り物」であろうはずもない。 当然、「それに手心を加えて無理やり成立したように見せかけている」なんてこともあり得ない。

第一種永久機関を実現するにはエネルギー保存則を破る必要があるが、エネルギー保存則を破る証拠を示した者はいない。 第二種永久機関を実現するにはエントロピーの法則を破る必要があるが、エントロピーの法則を破る証拠を示した者もいない。 既存の理論で不可能とわかっていることに対して、既存の理論を覆す証拠を何一つ示さずに可能だと言うから疑似科学とされるのである。

「科学的な態度」を取れば、このような「疑似科学」なんて存在しない方がいいように思えるかもしれません。 しかし、どのような科学ももとは疑似科学だったのです。

疑似科学の必要性 - 隠すほどの爪なら無い

「どのような科学ももとは疑似科学だった」とはw

たとえば、ニュートン力学は「宇宙の始まりに神様が大きなぜんまい時計を巻いて、神の力で物質に運動量を与えた」と言う前提で成立しています。 神の存在を仮定しているのだから、本質的には疑似科学と変わりがありません。

疑似科学の必要性 - 隠すほどの爪なら無い

一体、誰からそんなことを聞いたのだろうか。 ニュートン力学では「宇宙の始まり」を論じることはできないが、「神様が大きなぜんまい時計を巻いて、神の力で物質に運動量を与えた」との前提を置いているわけではない。 科学では未知の物事は説明しない。 ニュートン力学と全く関係がない純然たる疑似科学脳内理論をこの方が捏造し、その脳内理論が未知の物事を「神の力」で説明しているに過ぎない。 ニュートン力学に含まれない脳内理論がニュートン力学に含まれるとこの方が勝手に主張しているに過ぎない。 以上のとおり、これはニュートン力学が「もとは疑似科学だった」とする説明となっていない。

アインシュタインが時間と空間の相対性を理論化することに成功し、理論からは「神」が消え去りました。 しかし「光速度不変の原理」と言った新たな仮定(では光の速度を決めているのは誰?)が必要となりました。

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「理論からは『神』が消え去」ったのではなく、初めから科学理論には「神の力」などなかっただけである。 科学では「光の速度を決めているのは誰」かを問わない。

この方は、仮定や仮説についても混同しているようである。 科学における仮定や仮説は、実験結果を説明するために置く必要があり、かつ、それにより従来理論よりも上手く現象を説明できる場合に採用される。 一方で、疑似科学における仮定や仮説は、これらの条件を満足しない。 両者の仮定や仮説は全く性質が違うものである。 もちろん、「『光速度不変の原理』と言った新たな仮定」が科学における仮定や仮説の条件を満足していることは言うまでもない。

現代でいえば量子力学なども、仮説部分が多い疑似科学なのです。 アインシュタインは最後まで「神はサイコロを振らない」と量子力学には反発的でした。 ニュートン力学から神を取り除いた張本人が、最後に神を持ち出すあたりは大変面白いと思います。

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「仮説部分が多い」かどうかと疑似科学かどうかは全く別のことである。 尚、量子力学の標準理論における主要な仮説は射影仮説のみであり、これは既に説明した科学における仮定や仮説の条件を満足している。 よって、これは量子力学が疑似科学だとする説明となっていない。 量子力学がなければ、物質の三体(気体、液体、固体)も結晶構造も色も説明がつかない。 量子力学の実験は数限りなく行われてきたが、標準理論に矛盾する実験結果はない。 このように、量子力学の標準理論は極めて堅固な科学理論であり、疑似科学などとは全く比べ物にならない。

尚、アインシュタインの「神はサイコロを振らない」の「神」は比喩的な文言であって宗教上の神を指す言葉ではない。 既に説明したとおり、アインシュタインが「ニュートン力学から神を取り除いた」という事実も存在しない。

要は「役に立つから」科学であると、そういう功利的な側面が徐々に芽生え始めてきました。

疑似科学の必要性 - 隠すほどの爪なら無い

科学は初めから社会の「役に立つ」ように社会にとって「功利的な側面」を持つものであって、後から「徐々に芽生え始め」たのではない。 社会の「役に立つ」ものだからこそ、社会にとって必要性が高いのである。 一方で、疑似科学は全く社会の役には立たず、支持者個人の「功利的な側面」のみを追求するから、社会にとって害悪にしかならない。 そして、科学が社会の「役に立つ」のは、真理を追求するために適した手段を採用しているからである。 それに対して、疑似科学は真理よりも信仰を重視するから、全く社会の役に立たないのである。

とくに、医学は患者の「役に立つ」ために存在するものである。 患者の「役に立つ」ことを目的としないなら、それは医学とは呼べない真っ赤な偽物である。 真っ赤な偽物だから、偽医療と言われるのである。

その最たるものがアメリカの原爆開発「マンハッタン計画」でしょう。 量子力学の大家たちが、アメリカに召集され(ヨーロッパからの亡命も兼ねてでしょうが)原爆開発に加担しました。 中には大変後悔している人もいるようです。 アインシュタイン自身は開発に直接関与していませんが、自分の理論がもとでそういう大量殺戮兵器が作られてしまったことにたいそう心を痛めていたと聞きます。

疑似科学の必要性 - 隠すほどの爪なら無い

「大量殺戮兵器」を批判するなら、軍事利用を批判するべきであって、科学を批判するのは見当違いも甚だしい。 これは、早まった一般化と呼ばれる詭弁手法の一つである。 「役に立つ」「功利的な側面」の目的には、当然、道徳的に良いものも悪いものもある。 この方は、そのうちの道徳的に悪いとこの方が捉えているもののみを強調して、あたかも、「役に立つ」「功利的な側面」の目的が全て道徳的に悪いものであるという印象を植え付けようとしているだけである。 この方は、医学分野に関する話をしておいて、何故か、人の命を救ったり、苦痛を取り除くという「役に立つ」「功利的な側面」については一切目を向けない。

「量子力学の大家たちが、アメリカに召集され(ヨーロッパからの亡命も兼ねてでしょうが)原爆開発に加担しました」とは何か勘違いしているのではないだろうか。 確かに、マンハッタン計画に協力した科学者の中に「量子力学の大家」と呼ばれる人たちがいたのは事実である。 しかし、マンハッタン計画において量子力学はあまり重要ではない。 マンハッタン計画が始まる前に一定質量以上のウラン235やプルトニウムを一箇所に凝縮すれば自然と臨界に達して核分裂による爆発が起きることは既に判明していた。 だから、マンハッタン計画の時点では、原爆開発を成功させるために必要な技術は、ウラン235やプルトニウムを濃縮したり一箇所に凝縮させる実用的な技術であり、基礎理論の研究段階ではなかった。 だから、マンハッタン計画に協力した科学者について論じるのに「量子力学の大家たち」を強調することは見当違いも甚だしい。

アインシュタインの「理論がもとでそういう大量殺戮兵器が作られてしまった」というのも典型的な事実誤認である。 核分裂はアインシュタインの理論とは完全に独立した研究の成果として発見された現象である。 核分裂の際に発生する発熱量を有名なE=mc2で説明できるというだけであって、アインシュタインの「理論がもと」となって核分裂が発見されたわけではない。 核分裂の連鎖反応もアインシュタインの理論とは無関係である。 E=mc2を利用すれば原爆の威力を正確に予測できるが、E=mc2がなかったとしても実験から原爆の威力を不正確ながらも予測することは不可能ではない。 その意味でアインシュタインの理論が多少は原爆開発に役立ったとは言えるだろうが、アインシュタインの「理論がもとでそういう大量殺戮兵器が作られてしまった」とは到底言えない。

そして現代。 ズバリ、声高に「科学」を標榜する人は「金の奴隷」になり下がっているのだと思います。

ことさらに疑似科学を貶め、その中に新たな着想の種があると言うことなど考えもしません。 大学の研究費をいかに獲得するか。 そのためには、本当の先鋭的な研究をするのではなく、政治的な動きがメインになっていきます。 ホメオパシーをまじめに研究する研究者になんて誰も研究費をくれないでしょう。

疑似科学の必要性 - 隠すほどの爪なら無い

何を言いたいのか全く意味不明である。

疑似科学の「その中に新たな着想の種がある」と、疑似科学に何らかの価値がある考えることは疑似科学特有の考えである。 しかし、科学と比較するまでもなく、未だ研究対象になってない物と比べても、疑似科学が採り上げた物には何ら優位性は見られない。 むしろ、未だ研究対象になってない物と比べて、疑似科学の方が劣っている場合もある。 例えば、何とかに効くと宣伝されているインチキな健康食品の類に何らかの薬効がある可能性はその辺に落ちている石ころと大差ない。 ホメオパシーに至っては、その辺に落ちている石ころの方がまだ可能性がある。 「本当の先鋭的な研究」とは有望なものを研究することであって、有望性の高いものを差し置いてホメオパシーのような有望性の低いものを優先して研究するのでは「本当の先鋭的な研究」ではない。 ホメオパシーを扱う時点で不真面目なのであり、「ホメオパシーをまじめに研究する研究者」などないのである。 そうした「大学の研究費」の無駄遣いを阻止する「政治的な動き」は全くもって妥当なものであり「金の奴隷」などと揶揄されるようなものではない。

なぜ東京大学卒業の南部陽一郎先生が、いまアメリカ国民なのでしょうか。 東京大学で教鞭を振るっていてしかるべき逸材が、なぜ国外流出してしまったのでしょうか。 「科学」の本質を見ず「金の奴隷」になり下がってしまった同僚たちを見るにつけ、嫌気がさしてしまったのではないだろうかと言うのは、私の単なる憶測なのでしょうか。

たとえば大学の強みは中央と強いパイプを持ち国のお金を引っ張ってこれる、そこにあるのであって、純然たる知的好奇心はそこではむしろ邪険に扱われてしまうのではないかと想像します。

疑似科学の必要性 - 隠すほどの爪なら無い

「東京大学卒業の南部陽一郎先生」は科学者であって疑似科学者ではない。 もしも、「東京大学卒業の南部陽一郎先生」が「ホメオパシーをまじめに研究する研究者になんて誰も研究費をくれない」のような疑似科学冷遇に嫌気がさしたという話であれば、「東京大学卒業の南部陽一郎先生」の話を出すのはもっともであろう。 しかし、どの科学研究に予算を配分するかという科学研同士の選別の話であれば、「東京大学卒業の南部陽一郎先生」の話を出すのは見当違いも甚だしいし、言うまでもなく疑似科学を肯定する理由にもならない。 よって、日本の大学に何らかの問題があって「東京大学で教鞭を振るっていてしかるべき逸材が、なぜ国外流出してしまった」としても、それは疑似科学を肯定する理由にはならない。

ニュートンが晩年、錬金術と占星術の研究にハマっていたと言うのは、あまり知られていない事実です。 疑似科学を疑似科学と言うだけで批判する精神性は、真の純然たる知的好奇心とはむしろ対極にあるのではないかと、最近は思います。

疑似科学の必要性 - 隠すほどの爪なら無い

ニュートンが「占星術の研究にハマっていた」ことを示す証拠は示されていない(占星術では天体の動きを正確に予測する必要があり、その点でニュートン力学と接点があったという事実をニュートンが「占星術の研究にハマっていた」と誤認したのではないかと思われる)が、「ニュートンが晩年、錬金術」の「研究にハマっていた」という事実は、20世紀後半にはよく知られた事実である。 錬金術は、ニュートンの存命時に限れば、未知の分野に対して地道に実験を繰り返す学問であり、疑似科学とまでは言えない。 ただし、ニュートンが行なっていた錬金術の研究手法は科学的ではなかったとされる。 仮に、ニュートンが非科学的な手法で彼の科学分野の研究と同等の価値のある新発見をもたらしたなら、「疑似科学を疑似科学と言うだけで批判する精神性は、真の純然たる知的好奇心とはむしろ対極にある」と言えよう。 しかし、ニュートンが非科学的な手法で何ら新しい発見をもたらしていない以上、「ニュートンが晩年、錬金術」の「研究にハマっていた」という事実は、単に「弘法も筆の誤り」を示す実例に過ぎず、何ら疑似科学の正当性を示さない。

そして、私の中では一つの結論に至りつつあります。 それが、標題に書いたとおり「ニセ医療批判に大義はない」ということです。

医学的・科学的な立場というのは、批判精神が必要であるといわれます。

なので、この人たちのような「ズレた」ニセ医療批判も割とすんなり受け入れられてしまうようです (お友達のお医者さんとかとの間で「イイね!」し合ってるだけなんじゃないのといううがった見方を私はしていますが)。

ただ、科学の立場を冷静に振り返ると、そこで言う「批判」というのは自分自身に対して投げかけられるべきものなのです。 たとえば、「ペニシリン」という抗生物質を発見したアレクサンダー・フレミングという人は、ある菌を培養しようとしていたのですが、その菌が青カビに侵されてやられるということをずっと経験してきました。

最初は「くそ、また失敗か」と捨てていたのですが、よく見ると青カビの周りの菌は皆死んでいました。 そして、「青カビには菌を殺す力があるのではないのか?」と思い至り、ペニシリン(青カビが分泌する菌を殺す物質)を発見しました。

フレミングは「実験に失敗したシャーレ=ゴミ」という自分の思い込みを疑い、そして世紀の大発見をなしたわけです。

ニセ医療批判に大義はない - 隠すほどの爪なら無い

「『批判』というのは自分自身に対して投げかけられるべきもの」と言うなら、真っ先に、その言葉を自分自身に対して投げかけるべきだろう。 自分ができていないことを他人ができていないと批判するのでは、話にもならない。

アレクサンダー・フレミングが「ある菌を培養しようとしていたのですが、その菌が青カビに侵されてやられるということをずっと経験してきました」「最初は『くそ、また失敗か』と捨てていた」という事実は存在しない。 フレミングは、ペニシリンを発見する前に、抗菌作用のあるリゾチームを発見している。 リゾチームの抗菌作用を目の当たりにしたフレミングが、青カビの抗菌作用を見逃すはずがない。 奇跡の特効薬「ペニシリン」 誕生を生んだ史上最大のセレンディピティ - 現代ビジネスによれば、フレミングは青カビによるコンタミネーションが生じてすぐに抗菌効果に気づいており、「もしリゾチームの時の経験がなければ、私はこの発見の価値に気づかず、培地を捨ててしまったであろう」と述懐したとされる。

このように、まっとうな医学に批判精神が必要というのは、思い込みによる「良い発見を見逃すリスク」を減らすためのお題目だと、私は思っています。

で、標題に戻って「ニセ医療批判」というのがどうしてダメなのかを書きます。

つまり、端的に言うとニセ医療批判というのは「だれかが考えた仮説」を否定するものにすぎないからです。

上記で言うならフレミング以外の人が「青カビに菌を殺す力などあるはずがない」と批判するようなものです。 ちょっと工夫すれば、事実とは異なるこの主張にそれなりのデータをでっちあげ説得力を上げることも可能です。 いうまでもなく、この「批判」は科学の大義である「批判精神」とは似て非なるものです。 あくまで、それまでの科学・医学の趨勢を借りて他社の研究結果を貶め悦に至りたいという、下賤な動機しか私には感じられません。

ニセ医療批判に大義はない - 隠すほどの爪なら無い

「ニセ医療批判」において「『だれかが考えた仮説』を否定する」ことと、「フレミング以外の人が『青カビに菌を殺す力などあるはずがない』と批判する」は全く違う。 ニセ医療における「だれかが考えた仮説」は根拠のないフィクションにすぎない。 一方で、フレミングは実験事実に基づいた推測を元に更なる実証実験を繰り返しており、これはニセ医療とは全く違うものである。 フレミングが「青カビには菌を殺す力があるのではないのか?」と思い至ったのは、青カビの周囲に阻止円が生じている事実を確認したからである。 この阻止円は抗菌効果でなければ説明し難いし、抗菌効果であれば容易に説明がつく。 このように、新しい仮説を提唱するに値する実験事実があり、その新しい仮説は実験事実を見事に説明しているのである。 そして、フレミングはその後も実験を続けて、青カビを液体培養した後の濾液にも抗菌効果があることを実験で確認して医学専門誌に論文を寄稿した。 それが別の研究者の目に留まり、ペニシリンが精製されるようになったのである。

確かに、青カビの周囲に阻止円が生じている事実を認めず、「青カビに菌を殺す力などあるはずがない」という「事実とは異なるこの主張にそれなりのデータをでっちあげ説得力を上げる」ようなことは、「科学の大義である『批判精神』とは似て非なるもの」であろう。 しかし、科学の歴史上、偽の証拠で大発見が捏造された事実は少なくないが、偽の証拠で大発見が潰されたという事実は見当たらない。

当然、ニセ医療にはペニシリンのような証拠は何もないのだから、「ニセ医療批判」は「科学の大義である『批判精神』とは似て非なるもの」にはなり得ない。 証拠のあるペニシリンの研究を頭ごなしに否定することは「良い発見を見逃すリスク」となるが、「ニセ医療批判」に該当する「『だれかが考えた仮説』を否定する」行為はフィクション否定に過ぎないので「良い発見を見逃すリスク」は全く生じない。

さて、ニセ医療批判をする人は末期がんの患者が「ニセ医療」に走って死期を早めたとか、経膣分娩困難な妊婦に無理やり自然分娩をさせようとして子供を殺したとか、エキセントリックな例を引用してニセ医療を貶めようとしています。

しかし、そのような例は「標準医療」でも数多起っています。

ニセ医療批判に大義はない - 隠すほどの爪なら無い

「末期がんの患者が『ニセ医療』に走」れば「死期を早め」ることは当然の帰結であり、到底、「エキセントリックな例」とは言い難い。 また、「経膣分娩困難な妊婦に無理やり自然分娩をさせようと」すれば、「子供を殺」すことも当然の帰結であり、到底、「エキセントリックな例」とは言い難い。 よって、これらの「例を引用」することは、「エキセントリックな例を引用」したのではなく、典型的なニセ医療を引用しているにすぎない。

一方で、「標準医療」で適切な治療を受けた結果、本来死なずに済むはずの人が死亡することは極めて「エキセントリックな例」である。 この方は、偶々、運悪く死亡した事例のような「エキセントリックな例を引用して」「標準医療」を「貶めようとして」いる。

最近で言えば、子宮頚がんワクチンの接種による女子中学生の死亡事故です(因果関係は明確にはされていませんが、健康な女子中学生が理由もなく突然死する可能性は極めて低いでしょう)。

これに対して標準医療クラスタがどういう言い訳をするのか見ていたら、「公衆健康のためにはワクチンを接種するほうがよいことは明らかである」(100万人に対する死者が減る)というものでした。

上記の仮説の蓋然性についてここでは議論しませんが、正直違和感を感じます。 花の女子中学生がワクチンを打って突然死するのと、30や40のオバサンが子宮頚がんで死ぬのとは、まるで違うことだと私には感じられるからです。

上記の突然死をことさらに取り上げてワクチン自体を批判したり、場合によっては現代医療すべてを批判する団体もあるようです。

医療サイドに失われているのは、「患者視点」ではないかと思います。

ニセ医療批判に大義はない - 隠すほどの爪なら無い

「花の女子中学生」1人の命が「30や40のオバサン」1人の命より重いと言うなら一理あるが、「花の女子中学生」1人の命が「30や40のオバサン」100人の命より重いと言うなら明らかな暴論だろう。 そんな理由で「30や40のオバサンが子宮頚がん」で「100万人に対する死者が減る」ことを軽視して良いと言うなら、その方が、「患者視点」を欠いている。 「上記の突然死をことさらに取り上げてワクチン自体を批判したり、場合によっては現代医療すべてを批判する団体」の方こそ、「患者視点」を欠いているのである。

以前NATROM氏が標準医療は画一的で個別の医療ができない、というニセ医療側からの批判に対して標準医療のほうがより個別である、と反論していました。

事の真偽はともかくとして、個別医療が進歩しているというのは結構なことです。

しかし「個別医療が進歩している」ということは、今までは画一医療だったということです。

ニセ医療批判に大義はない - 隠すほどの爪なら無い

NATROM氏は「標準医療のほうがより個別である」と主張したようだが、「今までは画一医療だった」とは主張していないようである。 この方が「今までは画一医療だった」と決めつけているからこそ、NATROM氏の主張を勝手に「個別医療が進歩している」と意訳しているに過ぎない。 それを「今までは画一医療だった」根拠とするなら、マッチポンプ以外の何物でもない。

標準医療を信奉するのは構いません。 しかし、もしそうなら「ニセ医療」ではなく「過去の標準医療」を批判するほうがいいのではないでしょうか?

たとえば、最近では塩分の摂取量は重度の腎臓患者以外にはさして問題はなく、血圧上昇との因果関係もないということが分かっています。 しかし、昔の医者は少し血圧が高いと「塩をとるな」の1点張りでした。

私はコレステロールで「卵をとるな」と言われましたが、最近では卵の摂取量とコレステロールの上昇の間にも有意な関係は否定されています。

こういう「過去の標準医療」を一つ一つ丁寧に、批判していくのが地味ですが医師として、人として正しい道ではないかと思います。

ニセ医療批判はエキセントリックで人気がとれます。 しかし、それはニセ医療でお金もうけをたくらんでいる人たちと同じ穴のむじなだということを忘れてはいけません。

ニセ医療批判に大義はない - 隠すほどの爪なら無い

現在進行形のニセ医療を批判することと、既に放棄された「過去の標準医療」を批判することのどちらに価値があるかは言うまでもない。 「『ニセ医療』ではなく『過去の標準医療』を批判するほうがいい」など何を馬鹿げたことを言っているのだろうか。

「お金もうけをたくらんで」いない「ニセ医療批判」がどうして「ニセ医療でお金もうけをたくらんでいる人たち」が「同じ穴のむじな」だと言えるのか。 全く違う物を独自理論でコジツケて同一視するのは、トンデモや疑似科学ではよく見かけることである。

「最近では卵の摂取量とコレステロールの上昇の間にも有意な関係は否定されています」というのは事実のようである。 しかし、「最近では塩分の摂取量は重度の腎臓患者以外にはさして問題はなく、血圧上昇との因果関係もないということが分かっています」とは、どこの並行世界の物語か。

ニセ医療問題は単純なようでいて実は深遠です。 現在の標準医療を構成する医療技術の数々も、元はニセ医療とみなされるようなものから発祥していることが少なからずあります。

医療とニセ医療の間に境界線などない - 隠すほどの爪なら無い

「ニセ医療とみなされる」のは、証拠も出さないうちから一般向けに効能・効果を標榜するものだけである。 そして、「現在の標準医療を構成する医療技術の数々」は、一般向けに効能・効果を標榜する前に効能・効果の証拠を固めている。 私の知る限りでは、証拠なしに一般向けに効能・効果を標榜しておいて、後から効能・効果の証拠を固めたものはほぼ皆無である。 一般向けに効能・効果を標榜した後に適切な科学的手続きに基づいて効能・効果が検証されたものは丸山ワクチンくらいであろうが、丸山ワクチンは効能・効果の証拠を見出せなかったために「現在の標準医療を構成する医療技術の数々」の仲間入りすることはなかった。 それなのに、「元はニセ医療とみなされるようなものから発祥している」「現在の標準医療を構成する医療技術の数々」とは具体的に何を指しているのか。 そのような事実が存在するなら、まずは具体例を挙げるべきだ。 具体例を何一つ挙げない常識に反した主張は、ただの妄想に過ぎない。

ニセ医療を根絶やしにすることが、医療全体の発展に寄与するというのは、私にいわせれば誤解です。

もちろん、ニセ医療情報が出回ったらお医者さんは困るでしょう。 診察室でやりにくくなるでしょう。 でも、本来お医者さんというのはそういう商売なんですから、仕方がありません。 そのうっぷんをネットで晴らすのも悪くはないでしょう。 でも、それはあくまであなた(医療者)のカタルシスであって、医療の発展にはほぼ寄与しません。

医療とニセ医療の間に境界線などない - 隠すほどの爪なら無い

「ニセ医療情報が出回ったら」困るのは、「お医者さん」よりも患者である。 患者の不利益を取り除くことは「医療の発展」であり、その意味で「ニセ医療を根絶やしにすることが、医療全体の発展に寄与する」ことは言うまでもない。

学校の先生でも、昔は平気で自分の思い込みでウソの事を教えていると言う事がありました。 でも今ではそんな先生はいません。 「先生、Wikipediaにはそんなことは書いていませんが!」とツッコミを受けるのが怖いからです。

医療とニセ医療の間に境界線などない - 隠すほどの爪なら無い

これは全く意味不明である。 「平気で自分の思い込みでウソの事を教えている」教師が実在したとしても、それは、単に、その教師個人の資質の問題である。 そのようなデタラメな人は教育現場だけに限らず、社会の何処にでもいる。 そして、それは今も昔も関係ない。 この方の存在がちょうど良い実例である。 当然、まともな教師なら、「『先生、Wikipediaにはそんなことは書いていませんが!』とツッコミを受け」たら、Wikipediaのような信憑性の低い情報を鵜呑みにするなと注意することは言うまでもない。

患者の思い込みで病気をコントロールしようと言うのは医者として正しい姿勢です。 しかし情報が簡単に出回るようになったらそれはやりにくくなります。

それは、医学的に正しい情報であろうと間違った情報であろうと、素人が簡単に情報を調べられるようになるという状況が医者にとって不幸な状況というだけで、情報の正誤には関係がないのです。

たとえば、患者が間違った医学情報を思いこんでいたとします。 点滴を打てば風邪は治ると。 その患者に点滴を打って本当に風邪は治ります。 これは医者としてアリなわけです。 こういう臨機応変さが必要なのでしょう。

医療とニセ医療の間に境界線などない - 隠すほどの爪なら無い

これは「患者の思い込みで病気をコントロール」できるという前提でのみ成り立つ理屈である。 「その患者に点滴を打って本当に風邪は治ります」が証明された事実であるなら、「医者としてアリ」であろう。 しかし、「点滴を打てば風邪は治る」という「患者の思い込み」が多数あることは事実だが、本当に風邪が治ったとする証拠はどこにもない。 そこが問題なのである。

尚、大量の間違った情報が、その間違いを教えてくれる情報が極めて少ないままで、その真偽を判断できない「素人が簡単に情報を調べられるようになるという状況」は「医者にとって不幸」よりも患者にとっての不幸の方が大きい。

ならば、ホメオパシーを信じている患者にだって、何かやりようがあるはずです。

個人的には「ニセ医療の変な情報のせいで苦労をする」と言っているお医者さんは、「セカンドオピニオンなんて変な言葉流行らしたやつのせいで困る」と言っているお医者さんと、それほど差はないと思います。

人間の体という買えの聞かないものを相手に仕事をしているんですから、理不尽なことも受け入れる度量が必要でしょう。 そして、人間は自分の信じたいものしか信じない生き物です。 それもちゃんと理解した上の医者でしょう。 ならば、ニセ医療情報の流布を医療のしにくさの原因として叩くのは、やつあたりです。

医療とニセ医療の間に境界線などない - 隠すほどの爪なら無い

これはホメオパシーに治療効果があるという前提でのみ成り立つ理屈である。 しかし、先ほども説明した通り、科学と比較するまでもなく、未だ研究対象になってない物と比べても、疑似科学が採り上げた物には何ら優位性は見られない。 むしろ、未だ研究対象になってない物と比べて、疑似科学の方が明らかに劣っている場合もある。 「理不尽なこと」が治療効果のないニセ医療を指すなら、「人間の体という買えの聞かないものを相手に仕事をしている」ことは、患者の利益を最優先に考えるなら真っ先に排除すべきであることを示しているのであって、「受け入れる度量が必要」な理由とはならない。

「ニセ医療情報の流布」する行為と、それを信じる行為は全く別の行為である。 そして、医者は患者の命を救うことが仕事である。 「医療」すなわち救命行為が「しにく」くなるのであれば、その「原因」である「ニセ医療情報の流布」を「叩くのは」当然のことであり、「やつあたり」でも何でもない。 守るべき相手は「ニセ医療情報の流布」する者ではない。 患者である。

さて、最近年をとって物事を素直に了解できなくなった私は、この「天然痘ウィルスを人類が根絶した」という説が少し眉唾ではないかと考えています。 それは、30年程前の天然痘ウィルス撲滅以降も、鳥インフルエンザやらSARSやらエボラ出血熱やらエイズやら恐ろしいウィルス性の病気がたくさんあります。 とっととこいつらも根絶してやってくれや!WHO(世界保健機構)さん!って思うわけです。

要は、できないわけです。 流行性のウィルス疾患で最も脅威が小さいインフルエンザですら、今後100年くらいは人類の脅威でなくなる日は来ないだろうという風に思います。 むしろ、来るべき鳥インフルエンザパンデミックに対し何ら有効な手を打てないでいるわけです。

そんなわけで、今では「たまたま、天然痘ウィルスは消え去った」のではないかと思っています。 例によって根拠はありません。

【統合医療】ワクチンでウィルスを根絶できると信じるおめでたい人たち - 隠すほどの爪なら無い

「『たまたま、天然痘ウィルスは消え去った』のではないか」ならば、「天然痘ウィルスは消え去った」とする事実を認めているのであり、「『天然痘ウィルスを人類が根絶した』という説が少し眉唾」などとは言えるはずがない。 と言うと、「たまたま」が意味することはワクチンとは無関係に「天然痘ウィルスは消え去った」のではないということだ。だから、「人類が根絶した」わけではないと主張するかもしれない。 しかし、ワクチンのおかげではないなら、何が原因で「天然痘ウィルスは消え去った」のか。 主張が全く支離滅裂である。

ワクチンの役割は病原体を根絶することだけにあるわけではない。 もちろん、病原体を根絶できれば、それに越したことはない。 しかし、真の目的は疾患を減らすことであり、病原体を根絶することはその手段の一つでしかない。 根絶できないウィルスは、既に多数の変異体があり、かつ、変異が速いためである。 それでも、ワクチンに感染を抑える能力があり、かつ、集団接種を導入できるならば、パンデミックを防止できる。 集団接種を導入できないのは政治的な問題であって、医学の問題ではない。

インフルエンザを「流行性のウィルス疾患で最も脅威が小さい」とするのも過小評価が甚だしい。 インフルエンザは、感染時の致死率でこそエボラ出血熱よりも低いが、感染が拡大しやすいため、年間死亡数ではエボラ出血熱よりはるかに多い。

かかる状況を見るにつけ「人類VSウィルス」の戦いは決して楽観を許せないもののように見えますが、実はさほど心配する必要がないという朗報もあります。 要は、致死性の高いウィルスほど流行りにくいのです。 これは、ウィルスの性質を考えると明らかです。 ウィルスは単体では生きていけません。 必ず、「宿主」を必要とします。 そして、宿主をすぐに殺してしまうウィルスは、決して繁殖することができません。 ちょっと考えればわかります。

だから「運悪く最初の感染者になりさえしなければ」、ウィルスの脅威というのは大したことではないわけです。 エボラ出血熱も、その高い致死率のせいで感染が爆発することはありませんでした。 (まあ、WHOの活躍もあったのでしょうけど)そして、ウィルスはすごいスピードでデザインを変更するのですが、高い流行性を獲得するとともに悪性度は下がるというのが極めて一般的な「進化」の過程です。

あなたや私のごとき末端の人間に致死性の高いウィルスが感染することを心配するより、年末ジャンボが当たったかどうかを心配すべきだ、と私は思います。

【統合医療】ワクチンでウィルスを根絶できると信じるおめでたい人たち - 隠すほどの爪なら無い

「ウィルスの性質を考える」と「致死性の高いウィルスほど流行りにくい」などとは到底言えない。 確かに、潜伏期間がゼロであれば「致死性の高いウィルスほど流行りにくい」ことになる。 しかし、多くのウィルスには一定の潜伏期間が存在するため「致死性の高いウィルス」であっても「宿主をすぐに殺してしまう」ことはない。 感染しても症状が出ない期間がかなりあり、また、症状が出てすぐに即死するわけでもなく、死んだ後も死体や排泄物が感染源になり得ることから、「致死性の高いウィルス」も一定期間は感染者から他者に撒き散らされる。 結果、「致死性の高いウィルスほど流行りにくい」ということはあり得ないし、「高い流行性を獲得するとともに悪性度は下がる」ということもあり得ない。

進化論的に正しい説明は「進化の法則」で新型コロナウイルスが弱毒化する可能性 - ismediaでされている。 宿主が死ぬまでに平均して感染者一人当たり一人以上に二次感染させれば「致死性の高いウィルス」も流行する。 そして、「高い流行性を獲得」すればするほど流行しやすくなる。 1976年に初めて発見された「致死性の高い」エボラウイルスは、2021年4月現在でも根絶できていないが、それは「致死性の高いウィルス」の流行を阻止できないからに他ならない。

エボラ出血熱も2013年12月頃から2014年6月頃にかけて西アフリカで「感染が爆発」して3万人弱が感染し1万人強が死亡している。 これを書いている現在では他にパンデミックになった事例はないが、それは感染者の隔離に成功しているからであって、「その高い致死率のせい」ではない。 逆に、隔離に失敗した例が2013年12月頃から2014年6月頃の西アフリカのパンデミックである。

日本において、エボラ出血熱の感染の危険性が低いのは、ウィルスの国内流入を水際で食い止めることに成功しているからに他ならない。

この前、子宮頚がんワクチンの接種によって女子中学生が死亡したという痛ましいニュースがありました。 ワクチン行政に対し猛省を促すべきこの事態をとって、行政側(と思しき人)は「Public Healthのために多少の犠牲もやむを得ない」というような暴論を展開していました。

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リンク先には「Public Healthのために多少の犠牲もやむを得ない」とは書いていない。 というか、リンク先でちゃんと説明されている「Public Health」の意味がこの方は理解できていないようである。 リンク先では、「副反応はワクチンにつきもの」「被害の程度(人口10万対何人か、重症度はどのくらいか)、ワクチンとの因果関係などをできるだけ正確に調査することが必要」としたうえで、「ワクチンから受ける被害」と「必要なワクチンを受けられない事によって生じる死亡などの健康被害」を比較検証することの重要性を説いて、「ワクチンに対するネガティヴな面だけを強調することは避けねばならない」と説明されている。 ようするに、「必要なワクチンを受けられない事によって生じる死亡などの健康被害」と比較せずに「子宮頚がんワクチンの接種によって女子中学生が死亡した」ことだけを事更に強調して「ワクチン行政に対し猛省を促すべき」などと主張するのは暴論だということである。 ちなみに、リンク先は子宮頚がんワクチンについて「まだ歴史が浅く、がん予防の効果もはっきりしていません」という理由で早期導入には否定的見解を示している。 リンク先には「厚労省はその役目を十分果たしてはいません」とも書いており、「行政側(と思しき人)」ですらない。

30,40くらいになって子宮頚がんで死ぬのと、花の女子中生がワクチンで死ぬのを同列で語るのはとてもではないですが同意できませんし、上でも書いたようにワクチンがウィルスを撲滅する保障などまったくないのですから、そんなことで女子中学生を殺したことを正当化できると考えている頭の中身はどうなっているのか、まったく私ごときの創造を超越しています。

インチキ医療(利権に関係ないので安心してたたける)たたきにいそしんでいる某医師も、こういう暴論(利権に関係するので安易にたたけない)をこそたたくべきでしょう。

【統合医療】ワクチンでウィルスを根絶できると信じるおめでたい人たち - 隠すほどの爪なら無い

ここで問うべきことは、「ワクチンがウィルスを撲滅する」かどうかではなく、そのワクチンが「子宮頚がんで死ぬ」ことをどれだけ予防できるかである。 「子宮頚がんで死ぬ」ことを100人分予防できる代わりに副反応で1人死ぬワクチンはけしからんのか?という議論がなされるべきなのである。 予防効果と比較することなく「そんなことで女子中学生を殺したことを正当化できると考えている頭の中身はどうなっているのか」と主張する方が暴論である。 それは「利権に関係する」かどうかと全く関係がない。


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