コペンハーゲン解釈

ボルンの確率規則 

波動性と粒子性の二重性は、各種の実験から、疑う余地のない事実として受け入れざるを得ない。 今日まで、それを否定する事実は全く観測されていない。 しかし、それは非常に不可思議な現象である。 一点に存在する粒子と空間的な広がりを持つ波が同一の物だと言うのだから、こんな不可思議なことはない。 それが事実なら、その正体は、空間的な広がりを持っているのかいないのか、どちらが正しいのだろうか。 また、粒子は最小単位を持つが、波は最小単位を持たない。 言い換えると、粒子としては二つに分けられなくても、波としては二つに分けられてしまうのである。 二重スリット実験はその際たるものだろう。これも非常に摩訶不思議である。

これに対して、ボルンは、確率規則を提唱した。 それによれば、各部の波の強度は粒子としての存在確率を示すのだと言う。 確かに、現実に粒子を観測すると、常に、確率規則が示す存在確率に一致する確率で観測されている。

勘違いしやすいが、確率規則は、波=存在確率と言っているわけではない。 二重スリット実験では、単一の粒子の持つ波どうしが干渉を起こしている。 このことは、波が単なる存在確率を示す概念に留まらないことを示している。 言い換えると、存在確率という概念が波を作り出しているのではなく、確率規則が波を存在確率と見なす概念なのである。 ようするに、波そのものは存在確率以外の何かなのである。 ただ、波と粒子との関係を論じるときには存在確率にだけ着目しようと言ってるだけなのだ。

コペンハーゲン解釈(Copenhagen interpretation) 

ボルンの確率規則とフォン・ノイマンの射影仮説を元に、理論と実験結果を合わせ、その背後にある実在を問わない解釈をコペンハーゲン解釈と呼ぶ。 一口にコペンハーゲン解釈と言っても、決して、一枚岩ではなく、実にさまざまな流派があると言われる。

There is no definitive statement of the Copenhagen Interpretation since it consists of the views developed by a number of scientists and philosophers at the turn of the 20th century.(20世紀前半の多くの科学者と哲学者の見解から成るコペンハーゲン解釈には、決定的な声明は存在しない。)

Thus, there are a number of ideas that have been associated with the Copenhagen interpretation.(だから、コペンハーゲンの解釈には多くの流派がある。)

Asher Peres remarked that very different, sometimes opposite, views are presented as "the Copenhagen interpretation" by different authors.(Asher Peresは、非常に異なる、ときどき反対の、解釈が「コペンハーゲンの解釈」として提示されると述べている。)

英語版Wikipedia:Copenhagen interpretation


最初にお断りしておきますが、「コペンハーゲン解釈」とは何かについて、完全な合意ができているわけではありません。 一般には「ボーアの下に集まった物理学者たちが作り上げた解釈」とされていますが、例えば、ハイゼンベルグとパウリでは随分と考え方が異なっていますし、量子力学の教科書でも、細かな点(これは、しばしば哲学者が本質的と考える点です)には見解の相違があります。 ここでは、多くの物理学者が標準的と見なしている解釈を「コペンハーゲン解釈」と呼ぶことにします。

質問集 - 科学と技術の諸相 by 物理学講師:吉田伸夫


しかし、何が実際にコペンハーゲン解釈であるかについて、一般的な合意はない。

「量子力学の解釈問題―実験が示唆する『多世界』の実在」(ISBN-10:4062576007,ISBN-13:978-4062576000,著:ColinBruce,訳&注:和田純夫)P.104

というように、私的見解の総称であるが故に、人によって「コペンハーゲンの解釈」の中身が変わる。

「コペンハーゲン解釈」では、シュレディンガー方程式の解となる波動関数は、あくまで「測定を行った場合に得られる結果」についての確率振幅でしかなく、測定前の系が“実際に”どのような状態にあるかは、標準的な量子力学の定式化では記述できないと見なされています。 「粒子が波動関数の示す場所に同時に存在する」と解釈されているわけではありませんが、「どこかに存在する」とも言えません(そもそも記述できないのです)。 原子核の周りの電子は、シュレディンガー方程式の解として与えられる特定の定常状態(時間とともに変化しない状態)にあり、定常解の存在が「電子が原子核に落ち込まない」ことの理由になると考えられています。

質問集 - 科学と技術の諸相 by 物理学講師:吉田伸夫


最小限の共通要素は、次の2つの主張にまとめられるが。

(1)唯一の実在とは、意識を持つマクロな観測者によって観測された、実験結果である。それより深い、背後にある実在というものはない(考えてはいけない)。

(2)実験はその装置の設計に依存して、波的な振る舞い、または粒子的な振る舞いと合致した結果をもたらすが、決して両者を同時にはもたらさない。

「量子力学の解釈問題―実験が示唆する『多世界』の実在」(ISBN-10:4062576007,ISBN-13:978-4062576000,著:ColinBruce,訳&注:和田純夫)P.104

「次の2つの主張」はどちらも非常に紛らわしい言い回しであり、読み方によっては誤解する恐れがある。 (1)は、一見、「意識を持つマクロな観測者」が何らかの物理的作用をもたらすと言っているようにも見えるが、「背後にある実在というものはない(考えてはいけない)」と書いてあることから、そうした物理的作用=背後にある実在について言及しているわけではない。 また、(2)は、一見、「波的な振る舞い」と「粒子的な振る舞い」が同時に成立しないと言っているようにも見えるが、「実験は~もたらさない」なので、実験結果として「波的な振る舞い」と「粒子的な振る舞い」が同時に現れないと言っているに過ぎない。 まとめると、(1)は「実験結果」のみを重視し、その実在的意味を問わないとしている。 (2)は、その「実験結果」の内容についての言及だが、それの意味することは次の2点である。

  • 観測前は、波の状態を示す式のみを採用し、粒子の具体的な状態を問わない(又は、問えない)
  • 観測後は、確率的集合体として式を立て直す(波動関数の収縮"wavefunction collapse"と呼ぶ)

実証主義的に考えれば、実験も観測も出来ない現象については、確定的に論じることは不可能である。 波と粒子の二重性の実体については、直接的に観測しようが無い。 だから、波動関数の収縮に相当する現実の現象については良く分かっていない。 ああでもない、こうでもないという議論はあり得ても、合意を形成するには決定的証拠に欠ける。 そこで、数式上の処理として波動関数を収縮をさせるが、現実の現象は深く問わないこととする。

そもそも、推測不能で、かつ、実験で確認する方法も無いのならば、それがどうであるのかを論じる必要性がない。 確かに、推測可能なら、事実がその推測と一致していないと困る。 状態を知ることが可能なら、その状態が理論と一致していないと困る。 しかし、何も分からないのならば、憶測で物事を論じる必要が無い。 分からないことを憶測で断言することは科学とは程遠い姿勢である。 むしろ、それは、疑似科学の領域だろう。

意識解釈(知性ある存在による認識が波動関数を収縮させるという考え)に至っては、少数派閥の主張に過ぎない。 それを「コペンハーゲン解釈」と呼ぶ者がいるのは事実であり、それが間違っているとする根拠もない。 しかし、主流学説としての「コペンハーゲン解釈」とは明確に区別しなければならない。

翻訳補足 

"have been associated with ~(~に関連した)"をバッサリと削ったり、"ideas(考え,思想,着想,意見,見解,理解)"を「流派」と訳したり、かなり、意訳している。 また、"turn of the 20th century(20世紀の変わり目,終わり)"は、正しく約すことよりも、歴史的経緯を正しく反映することを優先した。 コペンハーゲン解釈を論じるには確率規則が必須であるから、議論の開始は、早くても、1926年になる。

Since the Solvay conference of 1927, the “Copenhagen interpretation” has been fairly generally accepted, and has formed the basis of all practical applications of quantum theory.

1955年のハイゼンベルグの論文(?)"TheDevelopmentoftheInterpretationofQuantumTheory"

少なくとも、1955年までには"Copenhagen interpretation"の呼称は定着していたと推測される。 とすると、コペンハーゲンの解釈が産まれたのは、20世紀やや前よりの半ばである。 仮に、解釈の確立に20世紀末まで掛かったとしても、"turn of the 20th century"は歴史的に正しくない。

実験との整合性 

コペンハーゲン解釈は、平たく言えば実験結果至上主義であるから、実験結果と一致しないのでは意味がない。

量子測定理論というと、昔は、実験では区別が付かないような事を議論するような、形而上学・神学の趣もあった。 その状況を大きく変えたのはR. Glauberの1963年の有名な論文であろう。 そのノーベル賞受賞の対象になった論文で彼は、被測定系に測定器の一部を加えた複合系をひとつの量子系として扱うことにより、

(i)被測定系に対して射影仮説を用いたのでは実験と合わないケースがある

(ii)測定器に対して射影仮説を用いれば常に実験と合う整合した理論ができる

(iii)測定器の誤差や反作用も、量子論で矛盾なく計算できる

などを示し、現代的な量子測定理論の扉を開いた。 これにより、量子測定理論は、実験により厳しくその正誤が判定される自然科学の理論へと大きく進化し、その後の大発展に繋がっているのである。 特に精密実験の分析には、量子測定理論はなくてはならない存在になっている。

量子測定理論入門 by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明教授


Q.コペンハーゲン解釈は実験と合わないことがある、とききましたが?

コペンハーゲン解釈の(登場時点の)曖昧な点を、

・意地悪く捉えれば、そうなります

・適切に捉えれば、全く実験と矛盾しない、強靱な理論になっていること がわかります

私が「コペンハーゲン解釈」と言うとき、それは後者。つまり、拙著(量子論の基礎, サイエンス社)に書いたような現代的な内容を指しています。

今日まで、実験との矛盾は何ひとつ発見されていません


コペンハーゲン解釈を間違って理解し、なんでもかんでも非測定系に直に射影仮説とBornの確率規則を使ってしまうと、

・実験と合わない場合がある

・測定器の誤差も測定の反作用も、計算できない

・理論が内部矛盾を示すことさえある

しかし、コペンハーゲン解釈を正しく理解し、正しく使えば、

・(今まで行われた)全ての実験と合う

・測定器の誤差や測定の反作用も、きちんと計算できる

・整合した理論になる(古典ミンコフスキー時空の上の理論としては)

まあ、それでも気持ち悪いですが.

Modern Theory of Quantum Measurement and its Applications by 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系&東京大学大学院理学系研究科物理学専攻:清水明教授

このように、コペンハーゲン解釈は、実験結果と一致する。

トンデモ事例 

重ねあわせ 

「コペンハーゲン解釈は猫の生死等の『重ね合わせ』の概念を用いる解釈」とする説明は正しくない。 コペンハーゲン解釈において、『重ね合わせ』は、数式に用いるだけであって、その実在については言及しない。 『重ね合わせ』に相当する現象が現実に起きているのかどうかは、不問としている。

波動関数の実在 

「波動関数は実在しない」とする説明も正しくない。 そもそも、波動関数は実在するのか?という問いには意味がない。 そもそも、「関数が実在する」という言葉の意味が不明確で、何を問いたいのか明確でない。 問いとして意味があることは、波動関数が何を記述しているかであり、記述対象の現象が実際に起きているかどうかである。 例えば、「波動関数は複素関数だから実在しない」という言い回しがあるが、それは全く意味のない言い回しである。 問うべきことは、何を記述しようとして複素形式を採用したのかである。

波動関数は、実験結果と辻褄の合うように立てた数式である。 よって、波動関数の記述対象の現象は実在する。 では、波動関数が示唆するような空間に広がった波が実在するのかと言えば、その答えは分からないとしか言えない。 コペンハーゲン解釈では、波動関数に記述対象の実在は考えないだけであり、波動関数の記述対象の実体の存在を否定しているわけではない。 実体があるのかないのか、あるとすればどんな姿か、について言及しないのであって、何が正しいかの結論を述べることはできない。

何と言うかアレ 

量子力学の各種実験結果は、粒子が空間的に一点に存在することを示している(厳密には位置だけでなく運動量についても言及しないといけないが、理解し易いように敢えて位置に絞って説明する)。 同時に、空間的に広がりを持つ(あるいは、かつて広がりを持っていた)ことも示している。 そして、いつどのようにして広がりを失ったかについては分からない。 何故なら、比較対象として観測前の状態を得ることが原理的に不可能だからである。 そこで、観測前に波動関数に従った空間的広がりがあったことと、観測時点では一点に収束していること、収束の確率が確率解釈に依存することの3つの実験事実を合意事項として採用する解釈として、コペンハーゲン解釈が生まれた。 尚、確率解釈は、波動関数から粒子の存在確率が求められることを示しているだけで、決して、波動関数が実在する波であることを否定しているわけではない。

Wikipedia:コペンハーゲン解釈(2008年12月22日(月)07:47の版)


もう一つの間違いサイト(ページ)は、Wikipedia の「コペンハーゲン解釈」の項だ。

そもそも、初心者が間違えても、Wikipediaあたりがまともな解説をしていれば、あまり問題はないはずだ。 しかるに、Wikipedia自体が、現時点(2009-01-12)では嘘八百を書いている。次のように。

「コペンハーゲン解釈では、量子は空間的に広がりを持つ」

バカ言ってはいけない。

◆ 量子論のトンデモ - Openブログ

当時のWikipediaのコペンハーゲン解釈の版を見れば誰が馬鹿言ってるのかは明らかだろう。

  • 主語の書き替え(「量子力学の各種実験結果」→「量子」)
  • 記載事項の無視
    • 「粒子が空間的に一点に存在することを示している」
    • 「同時に」
    • 「あるいは、かつて」
    • 「広がりを失った」

Wikipediaには波動性と粒子性の二重性が書かれている。 それを彼は、粒子性のない波動性についての記述にすり替えている。

「コペンハーゲン解釈では、量子は空間的に広がりを持つ」ということはない。 逆に、「空間的に広がりをまったくもたない」のだ。 それが「局在する」という意味であり、「粒子である」という意味だ。

そして、「粒子である」からこそ、「少しずつ稀薄に存在する」(物が稀薄なのではなく、存在性が稀薄である)という意味の原理が採用される。 それが「重ね合わせ」の原理だ。

・局在するものが、稀薄に存在する。(粒子の重ね合わせ)

・稀薄に遍在するものが、まさしく存在する。(波である)

この二つは、正反対のことだ。 なのに、Wikipedia は、この双方を混同している。 量子の局在説を取るコペンハーゲン解釈を、量子の遍在説を取るかのごとく記述している。

こういうふうに、Wikipedia でさえ、事実とは正反対のデタラメを書いているのだ。

( ※ 「空間的に広がりをもつ」という言葉に主語を付けるとしたら、「量子」や「粒子」ではなくて、「存在性の分布」である。 比喩的に言おう。 人間は一箇所に局在するが、人間の存在性の分布は広い領域に渡る。 このように、存在性は、広い領域に渡ることが可能だ。 しかし、だからといって、一人の人間が「空間的に広がりをもつ」わけではない。 …… Wikipedia は、ここを勘違いしている。 つまり、「一個の量子」と「存在性の分布」とを、勘違いしている。 それというのも「重ね合わせとは何か」を、ちゃんと理解できていないからだ。 おおかたの物理学者の理解なんて、この程度のものである。)

◆量子論のトンデモ - Openブログ

量子を「空間的に広がりをまったくもたない」「量子の局在説を取る」(=波動性のない)「粒子である」としているのは、コペンハーゲン解釈ではなく、彼の独自解釈である。 コペンハーゲン解釈は波動性と粒子性の二重性を否定していない。

「おおかたの物理学者の理解なんて、この程度のもの」は、お決まりの彼の決め台詞の一種である。 これは、相間な素人が本職の物理学者に対して かような簡単なことも理解してない 本物の色物物理学者たち - 谷甲州黙認FC・青年人外協力隊 と言うのと変わらない。 どうして「おおかたの物理学者」の方が間違っていると断定できるのか不思議でならない。

そもそも、コペンハーゲン解釈とは「おおかたの物理学者の理解」のことを指しているはずである。 よって、「おおかたの物理学者の理解」通りならWikipediaは間違っていない。 「おおかたの物理学者」が「ちゃんと理解できていない」彼独自の解釈が、「おおかたの物理学者」から○○解釈なんて名前をつけて呼んでもらえるはずがなかろう。

要するに、Wikipediaみたいに、単に「空間的に広がりをもつ」という述語表現を取るだけではダメなのだ。 「何が」という主語表現が必要である。 そして、その主語は、「量子は」というだけでは曖昧すぎて用をなさない。 粒子であるか否かを明示する必要がある。 そして、「粒子では矛盾するから、粒子ではない」と明言する必要がある。

◆コペンハーゲン解釈の破綻 - Openブログ

一点に存在する性質が粒子性で、空間的に広がりを持つ性質が波動性であることは、一般には、常識である。 それゆえに、空間的存在範囲に言及するならば、それが、粒子であるかどうかは言わずとも常識である。 ただし、「粒子として空間的に広がりを持つ」などという頓珍漢なことを言わない限り。 そして、「粒子では矛盾するから、粒子ではない」と言うなら、初めから頓珍漢なことを言っている自覚があるはずである。 それなのに、どうして、最初の段階で粒子と波の性質を取り違えていることに気付かないのか不思議である。

コペンハーゲン解釈とは、何か?

これについては、次の説明がなされることもある。

「観測によって波動関数が収束するという解釈」

しかし、これは本質的なことではない。 副次的なことだ。 なぜか? その前の「収束していない状態」というのが何かが、説明されていないからだ。


だから、「コペンハーゲン解釈とは何か?」という質問には、次のように答えることができる。

「状態が決定される前を『重ね合わせ』という概念で示す解釈」

ここでは、「重ね合わせ」という概念が本質的だ。 だから、次のようにも言える。

「コペンハーゲン解釈とは、『重ね合わせ』という概念を用いる解釈だ」


ところが、コペンハーゲン解釈では、「特定の1匹の猫についても言える」と考える。 そして、こう言う。

「その猫は、半分生きて、半分死んでいる」

つまり、「二つの状態の重ね合わせにある」と。 ──これがコペンハーゲン解釈だ。

◆コペンハーゲン解釈とは - Openブログ

コペンハーゲン解釈は「収束していない状態」について何も説明しない。 式は提示されるが、それがマクロ現実的に持つ意味は説明されない。 「重ね合わせ」は、数学的に、一般的な確率(混合状態)とは違う特殊な確率(純粋状態)である。 それは、実験事実と整合させるためにそのようになっている。 しかし、その「重ね合わせ」のマクロ現実的意味は説明されない。 よって、コペンハーゲン解釈は「その猫は、半分生きて、半分死んでいる」とは結論付けない。 コペンハーゲン解釈では、計算上は「その猫は、半分生きて、半分死んでいる」と計算をするが、実際にどうなっているかは問わない。 実験で確認できないことについて確定的なことを言わないのがコペンハーゲン解釈なのである。

つまり、「観測」という用語の意味が、あまりにも主観的すぎて、客観性をもたない。 これでは客観性があるという科学の位置を占めることができない。 (そもそも「意識」すら関係するから、眠っていた人は「観測はしていなかったから事象は決まらない」と主張するかもしれない。 こうなると根源的に狂ってしまう。)

結局、コペンハーゲン解釈においては、「観測」というものが客観的に決まらない。 「観測」といものが主観的に多義多様になる。 こうなると、これはもはや「科学」ではない。 むしろ一種の「印象」にすぎない。 そして、印象によって物事を語るのは、「科学」というよりは「文学」なのである。

◆コペンハーゲン解釈の破綻 - Openブログ

量子力学的な「観測」とはマクロ系との干渉を指すのであって、知性ある存在の意識が現象を認識することではない。 コペンハーゲン解釈では、マクロ系との干渉とは定義されていないかも知れないが、知性ある存在の意識が現象を認識することだとは定義されていない。 よって、量子力学でもコペンハーゲン解釈でも「観測者ごとに、個別の事情がある」ことは観測結果に影響を与えない。

「観測」という用語の意味を主観的に解釈しているのは彼である。 「観測」という言葉の「印象」よって物事を語っているのは彼である。 つまり、「科学的な理論ではない」のは彼の解釈である。

では、なぜ、コペンハーゲン解釈は、この両者を混同しているか? それは、コペンハーゲン解釈には、そもそも「波 → 粒子」という転換がある、という発想がないからだ。

コペンハーゲン解釈では、「量子は常に粒子」という発想がある。


コペンハーゲン解釈が駄目なわけの核心は、次の点にある。

「波動関数が収縮する、と考える」

◆コペンハーゲン解釈の破綻 - Openブログ

コペンハーゲン解釈では量子は常に波…と言う人間はいくらでもいるだろう。 また、コペンハーゲン解釈では観測に伴って波が粒子に変わると言う人間も少なくはない。 しかし、コペンハーゲン解釈で量子は常に粒子…と言う人間は珍しい。 量子が常に粒子なら「波動関数が収縮する」とは何ぞやと問いつめたい。 彼はコペンハーゲン解釈とド・ブロイ&ボーム理論を取り違えているのではないだろうか。 言うまでもなく、ド・ブロイ&ボーム理論はコペンハーゲン解釈への反証理論である。

量子力学の各種実験結果は、粒子が空間的に一点に存在することを示している(厳密には位置だけでなく運動量についても言及しないといけないが、理解し易いように敢えて位置に絞って説明する)。 同時に、空間的に広がりを持つ(あるいは、かつて広がりを持っていた)ことも示している。 そして、いつどのようにして広がりを失ったかについては分からない。

Wikipedia:コペンハーゲン解釈(2008年12月22日(月)07:47の版)


Wikipedia の「コペンハーゲン解釈」には、次の記述がある。(現時点で)

(粒子は)空間的に広がりを持つ(あるいは、かつて広がりを持っていた)ことも示している。 そして、いつどのようにして広がりを失ったかについては分からない。

これは、間違いではないが、記述としては不十分である。 なぜなら、最も肝心な次の一点が記述されていないからだ。

「量子は粒子として空間的に広がりを持つ」

しかしながら、この言葉の意味するところは、はなはだ曖昧である。

・ 粒子として無数に存在する。(粒子数が無限になる)

・ 粒子は1個だが、それぞれが稀薄化する。(幽霊? 不自然。)

・ 粒子が仮想的に微小化する。(微分的な断片化。モデルが不明。)

このうち、初めの二つは駄目だ。

1番目は、「エネルギーが無限になる」という矛盾が生じるので、駄目。

2番目は、「存在の稀薄化」が非科学。

3番目は、理屈としては成立するが、モデルが不明。 ……ここで、「仮想的に微小化されたものは、波だ」と解釈すれば、問題はなくなる。 ただし、そうすると、物事の発想が根本から崩壊する。 なぜならもはや「量子は粒子だ」という最初の前提が成立しなくなるからだ。

そこで、最初の前提から考え直して、新たに構築したモデルが、「超球理論」である。

◆コペンハーゲン解釈の破綻 - Openブログ

自分が披露した珍説を否定してみせて別の珍説こそが真実だと自画自賛するのでは、見事な自作自演である。 「粒子として空間的に広がりを持つ」では、粒子性と波動性の認識が一般的な常識とは真逆である。 一体、何処からそんな変な解釈が出てきたのだろうか。 ところで、「粒子として空間的に広がりを持つ」のならば、先程の「空間的に広がりをまったくもたない」は何が広がりを持たないのだろうか。 彼の言いたいことがサッパリ理解できない。