多世界解釈トンデモ解説

はじめに 

多世界解釈の前に「Hugh Everett(ヒュー・エヴェレット)の」と付けている解説はほぼ100%トンデモの通俗説と見て良いだろう。 何故なら、多世界解釈が実験結果と一致するためには世界の分岐が必須であり、その概念を付けた多世界解釈を提唱したのは、Hugh Everettではなく、Bryce Seligman DeWittだからである。

通俗説の実例 

エヴェレット解釈は、ときには多世界解釈とも呼ばれます。 この呼び名から、エヴェレット解釈とは『世界あるいは宇宙が、観測される度に、非物理的な過程として分裂すると解釈することだ』といったような誤った考えが広まってしまいました。 エヴェレット解釈とは、一言でいうと、『波動関数の絶対値の二乗を(確率ではなく)測度として解釈する』ということであって、多世界というのはこの理論を観測問題に適用したときに帰結されるひとつの現象にすぎません。 世界が分裂するという仮定を置いている(著名な物理学者の中にも、いまだにこのような勘違いをしている人達がいます)わけではありません。

エヴェレット解釈に基づく量子力学では、系全体の時間発展はすべてシュレーディンガー方程式で記述され、完全に決定論的です。 波束の収縮は起こりません。 多世界というのは特定の認識主体を通してみたときの世界のことです。 観測過程(通常の相互作用)を通して認識主体(観測者)の状態がシュレーディンガー方程式に従って分岐するので、分岐して生じた観測者の数だけ(それぞれの観測者を通してみた)世界があるということです。 分岐した後も、すべての観測者(分身)は量子力学的な重ね合わせの状態(純粋状態)のまま存続しています。 宇宙全体を記述する巨大な状態ベクトルが一つあるだけで、所謂混合状態というのは実在しません。

我々自身が分岐したことに気づかないのは、状態ベクトルの時間発展が線形だからです。 すべての観測者(分身)が重ね合わせの状態で共存しているにもかかわらず、互いに相手の存在に気づかないのも、この線形性からきています。 異なる世界間で量子的干渉が無くなるから(このような勘違いをしている人達も大勢います)ではありません。 状態ベクトルの時間発展は、完全なヒルベルト空間の中のユニタリ変換ですから、位相相関が無くなることはありません。 (位相相関が『実質的』に無くなるというのは本質的なことではありません。観測問題とは何の関係もありません。)

確率的な振舞の起源(エヴェレット解釈入門) - エヴェレットの多世界解釈

確かに、Hugh Everett Ⅲの相対的状態方程式では、「世界が分裂するという仮定を置いている」ことはなく、「波束の収縮」(射影仮説)もない。 しかし、多世界解釈で説明したとおり、「世界が分裂するという仮定」なくしては、量子力学の各種実験結果が説明できない。

「系全体の時間発展」を測定対象と「認識主体(観測者)」を区別せずに「すべてシュレーディンガー方程式で記述」するなら、測定対象と「認識主体(観測者)」に同じ物理法則を適用しており、測定対象と「認識主体(観測者)」に差異はないことになる。

波動性と辻褄を合わせるためには、(少なくとも、測定前は)測定対象のstate間に相互干渉がなければおかしい。 「状態ベクトルの時間発展が線形だから」という理由で「すべての観測者(分身)が重ね合わせの状態で共存しているにもかかわらず、互いに相手の存在に気づかない」とすれば、それは測定対象にも同様に適用されることになり、測定対象のstate間にも相互干渉がないことになる。 しかし、それでは、二重スリット実験の真相した二重スリット実験の結果は次のようになるはずである。

単一スリット実験結果

このように、「状態ベクトルの時間発展が線形だから」という理由で「すべての観測者(分身)が重ね合わせの状態で共存しているにもかかわらず、互いに相手の存在に気づかない」とする主張は、それ自体が実験結果に適合しない。

また、粒子性と辻褄を合わせるためには、(少なくとも、測定後は)「認識主体(観測者)」のstate間に相互干渉が失われていなければおかしい。 でなければ、「すべての観測者(分身)が重ね合わせの状態で共存しているにもかかわらず、互いに相手の存在に気づかない」という状況は成立し得ず、二重スリット実験の結果は次のようになるはずである。

干渉縞

実際の二重スリット実験の結果は、先の2つのいずれとも違い、次のようになる。

二重スリット実験結果

この結果と辻褄を合わせるためには、既に説明した通り、次の2つの条件が成立しなければならない。

  • (少なくとも、測定前は)測定対象のstate間に相互干渉がある
  • (少なくとも、測定後は)「認識主体(観測者)」のstate間に相互干渉がない

ここで「世界が分裂するという仮定」を置けば、「世界が分裂する」前の全てのstate間に相互干渉があり、かつ、「世界が分裂する」後の全てのstate間に相互干渉が失われる(デコヒーレンス)こととなり、測定対象と「認識主体(観測者)」の相互干渉性の差異と辻褄が合う。 しかし、「世界が分裂するという仮定」のような測定前後での変化を一切導入しないならば、測定対象と「認識主体(観測者)」の相互干渉性の差異に辻褄を合わせるためには、測定対象と「認識主体(観測者)」を区別して双方にそれぞれ違う物理法則を適用するしか解決策はない。 しかし、「系全体の時間発展」を測定対象と「認識主体(観測者)」を区別せずに「すべてシュレーディンガー方程式で記述」するなら、測定対象と「認識主体(観測者)」に同じ物理法則を適用しており、測定対象と「認識主体(観測者)」の差異が説明できない。

以上の通り、Hugh Everett Ⅲの相対的状態方程式は実験結果を無視しただけの不完全な理論に過ぎない。 実験結果と合うように「世界が分裂するという仮定を置いている」Bryce Seligman DeWittが提唱した仮説こそが真の多世界解釈と呼ぶべきものだろう。

最近、量子力学に関するいい加減な本が氾濫しています。 エヴェレットの論文を参照して解説してある本もいくつかありますが、(著者が原論文を読んでいないのか、読んだけど理解出来なかったのか分かりませんが)全部間違っています。 中には、ポスト・エヴェレット派(エヴェレットのアイディア(?)を改良/発展させてより完全な(?)理論に仕上げたと(勘違い)している人達の集団)の書いた(間違った)論文/記事からエヴェレットの論文を『推測して』書いたようないい加減な(事実に反する間違ったことを書いた)本まであります。

確率的な振舞の起源(エヴェレット解釈入門) - エヴェレットの多世界解釈

「原論文」を参照していれば科学的だという誤解が見られる。 「原論文」を参照して分かることは、そこに書いてある内容だけである。 だから、通俗説が「原論文」に書いてある内容と一致しているかどうかは「原論文」で確認できる。 しかし、「原論文」以外との一致性は確認できないし、「原論文」が科学的に正しいかどうかも別問題である。 だからこそ、「原論文」を参照するときは次のようなことに注意する必要がある。

  • その論文は言及対象における「原論文」と言えるのか?
  • その論文に記載された内容は実験事実等と一致しているのか?

多世界解釈については、Hugh Everett Ⅲの相対的状態方程式ではなく、Bryce Seligman DeWittの論文こそが真の「原論文」であろう。 また、既に説明した通り、Hugh Everett Ⅲの相対的状態方程式は実験事実と一致しない。 にも関わらず、盲目的なHugh Everett原理主義者と成り下がった説明をするなら、それこそ「量子力学に関するいい加減な」記述であろう。

では、観測によって我々の状態が分岐していくことに気づかないのはなぜでしょうか? それは、分岐過程が一瞬にして起こり、我々の感覚では知覚できないからというのではありません。 シュレーディンガー方程式が線形だから、我々が我々自身の分岐過程を知覚することは原理的に不可能なのです。 我々自身も、他のあらゆる自然現象と同様に物理法則に従っている以上、物理法則からくる制限を受けるのです。

このように、量子力学的な実験で観測を行なう度に観測者の状態が分岐していき、無数の観測者の重ね合わせ状態になっていく訳ですが、そのことに矛盾するような現象は、シュレーディンガー方程式が正しい限り何一つ現れません。 多世界解釈がおかしいといっているのは、単にそのような状態を認めたくないという心理的な抵抗があるからで、科学的な根拠があるわけではありません。 エヴェレットは、量子力学の定式化を見直し、確率的な振舞は定理として導き出せることを示しました。

以上は定性的な話でしたが、状態の重ね合わせに測度を導入すると、定量的に実験と比較することのできる理論を作り上げることができます。 そして、いまのところ、この理論からの予言と矛盾するような実験的事実はみつかっていません。

文科系のための量子力学的世界像(エヴェレット解釈からの帰結) - エヴェレットの多世界解釈

既に説明した通り、「シュレーディンガー方程式が線形だから、我々が我々自身の分岐過程を知覚することは原理的に不可能」では、「観測を行なう度に観測者の状態が分岐」できない。 「世界が分裂するという仮定を置いている」本物の多世界解釈は「観測を行なう度に観測者の状態が分岐」できるが、Hugh Everett Ⅲの相対的状態方程式では「観測を行なう度に観測者の状態が分岐」できないのである。 「この理論」は波動性と粒子性の二重性を説明できず、量子力学の実験のほぼ全てが「この理論からの予言と矛盾するような実験的事実」となる。 既に説明した通り、「この理論」に関しては、ほぼ全ての実験事実と矛盾するという「科学的な根拠がある」。

そもそも、「文科系のため」と表記しながら、「文科系」が理解できるような説明をせず、煙に巻くような説明で誤魔化している所は感心しない。

コペンハーゲン解釈

ボーアを頂点とするコペンハーゲンスクールの人たちによって広められた一種の哲学で、要約すると次のようになります。

『観測装置と無関係に、対象物の状態に客観的な意味をもたせることはできない。 我々が問題にできるのは、計器に現れた古典的な量としてのデータのみであり、我々が記述できる物理法則というのは、観測装置を通して得られる古典的な物理量に関するものだけである。』

アインシュタイン等が所謂 EPRの思考実験を考案し、量子力学の不完全さを指摘したとき、ボーアは上記のような哲学で量子力学を擁護しました。

一見、もっともらしい答えを与えているようにも見えますが、確率解釈 に内在する物理学上の本質的な問題を、哲学的な問題にすり替えているにすぎません。 (当然、アインシュタインを納得させるには至りませんでした。) 観測対象と観測装置の境界はどこにあるのでしょうか? 観測行為と所謂相互作用とはどこが違うのでしょうか? ボーア自身、明快な言葉で、物理学の理論として、コペンハーゲン解釈をきちんと定義することはありませんでした。 これは、観測問題と呼ばれ、今日でも(一部の物理学者の間で)論争が続いています。

また、実用的な面でもこの解釈には問題(こちらの方がずっと深刻です)があります。 物性や原子核を研究しているぶんには問題ありませんが、量子重力が問題になるような初期の宇宙を研究対象とするときには、この解釈自体が意味を成さなくなってしまいます (このことが、エヴェレットが確率解釈に基づかない量子力学の定式化を試みた直接的な動機でした)。 一般相対論では時空の計量を力学変数として扱います。従って、これを量子論的に扱うと計量が量子化されることになります。 ところが、計量を観測対象にすると、観測装置は、重ね合わせ状態になっている(その計量で定まる)時空の外に置くことになってしまいます。 これは、観測過程をもっと詳しく調べていけば解決するといったような問題ではなく、理論の定式化自体に内在している本質的な問題です。 つまり、理論の枠組みが狭すぎるのです。これを解決するには、この観測装置の存在を前提とする確率解釈に基づく定式化を(特別な場合として確率解釈を含むようなかたちで)変更する必要があります。

文科系のための量子力学的世界像(エヴェレット解釈からの帰結) - エヴェレットの多世界解釈

ある法則が「観測装置を通して得られる古典的な物理量に関するもの」しか扱えないことは、その法則が「観測装置を通」さない場合について言及できないという限界を示しているだけであって、その法則が「観測装置の存在を前提とする」ことを意味しない。 もちろん、「観測装置」に特別な意味があって、かつ、その特別な意味によって原理的にその限界が発生しているのであれば、その法則が「観測装置の存在を前提とする」ことを意味すると言えよう。 しかし、「コペンハーゲン解釈をきちんと定義することはありませんでした」のであるから、「観測装置」に特別な意味があるのかどうかすら定義されていないのである。 であれば、当然、「この観測装置の存在を前提とする確率解釈に基づく定式化」は、この方の勝手な解釈に過ぎない。

量子現象をブラックボックスとして扱っても確率の計算はできますが、それだけではその現象を理解したことにはなりません。 (物理学者の仕事は自然のしくみを解明することであって、工学的な応用だけを考えるのなら工学者に任せておけばいいわけです。) 量子力学的な実験が不可思議な現象のオンパレードにみえるのは、肝心なところをブラックボックスとしてみているからです (素人さん向けに、不思議さを強調するために、わざとそのようにしているのかも知れませんが)。 永久に種が明かされないマジックのようなものです。 一歩踏み込んで量子力学的な描写に基づいて全体を再考すれば当たり前なことばかりです。

コペンハーゲン解釈の弊害 - エヴェレットの多世界解釈

「一歩踏み込んで量子力学的な描写に基づいて全体を再考すれば当たり前なことばかり」の矛盾点は既に指摘した通りである。

この方は、「物理学者の仕事」も完全に勘違いしている。 「物理学者の仕事」は、結果を正しく予測できる法則を作ることであって、「自然のしくみを解明する」は二の次である。 そもそも、「自然のしくみ」を完全に「解明する」ことは原理的に不可能である。 「工学者に任せておけばいい」のは「工学的な応用」の実践部分であり、そのために必要な物理法則を確立することは「物理学者の仕事」である。

「量子力学的な実験が不可思議な現象のオンパレードにみえるのは、肝心なところをブラックボックスとしてみているから」も原因と結果が逆である。 歴史的経緯を見ると明らかだが、「量子力学的な実験が不可思議な現象のオンパレードにみえる」ために、常識的な辻褄を合わせることが困難で、「肝心なところをブラックボックスと」せざるを得なかっただけである。 「素人さん向けに、不思議さを強調するために、わざとそのようにしている」わけでもない。

エヴェレット解釈もコペンハーゲン解釈も実験的には同じ結果を出すので単に解釈の問題にすぎないという話をよく聞きますが、これは「解釈」という言葉の意味を日常用語としての「解釈」と混同したために生じた誤解です。 量子力学で何々解釈というときには通常定式化のことを指します。 「波束の収縮過程をこう解釈する」というような日常用語としての「解釈」のことではありませんので注意しましょう。

エヴェレット解釈 vs. コペンハーゲン解釈 - エヴェレットの多世界解釈

最大主流のコペンハーゲン解釈は標準理論をそのまま採用しており、定式化などしていない。 一般人になじみの深い意識解釈もとくに定式化を必要としない。 そもそも、「定式化」であれば、理論、定理、力学等と呼ぶのが普通であり、「解釈」と呼ぶのは明らかにおかしい。 実際に、「定式化のことを指」す場合は、二重解の理論のように、理論や力学という呼称が用いられることが多い。 一般に、量子力学の解釈とは、数学的枠組みしか示さない標準理論に対して、その物理的意味に言及することを言う。 個々の解釈を正当化する手段として「定式化」が行われることもあるが、「解釈というときには通常定式化のことを指」すわけではない。 「単に解釈の問題にすぎない」は数学的に等価なものの物理的に意味の解釈に過ぎないことを示しているのであり、「日常用語としての『解釈』」と捉えても言葉の意味に大差はない。 真の多世界解釈でも、「波束の収縮」の物理的意味を「世界が分裂するという仮定」に置き換えたものであり、標準理論との物理的な意味の解釈の違いにより「解釈」と呼んでいる。 尚、量子力学の解釈が標準理論の物理的意味に言及するものである以上、標準理論と数学的に等価ではないHugh Everett Ⅲの相対的状態方程式は量子力学の解釈とは言えない。

「いわゆる」コペンハーゲン解釈(正確ではありませんが、伝統的な確率解釈のことをコペンハーゲン解釈と呼ぶこともあります)というのはエヴェレット解釈に基づく量子力学の定式化の中で定理として導出されます。 エヴェレット解釈では波束の収縮を仮定していませんので、少ない仮定で同じ現象を説明できるという意味ではコペンハーゲン解釈より優れた理論だということができます。

エヴェレット解釈 vs. コペンハーゲン解釈 - エヴェレットの多世界解釈

「世界が分裂するという仮定を置いている」真の多世界解釈は標準理論と数学的に等価であるが、「世界が分裂するという仮定」がないHugh Everett Ⅲの相対的状態方程式は標準理論と数学的に等価でない。 数学的に等価ではない以上、一方から他方を「導出」することなどできるはずがない。

この方は「仮定」の意味も誤解しているようだ。 一般に科学において「仮定」とは、実験事実が直接示唆していない事柄を指す。 哲学的に厳密に言えば実験事実が直接示唆しているように見えることも証明されるまでは「仮定」として扱うが、そこまで突き詰めて考えることの方が珍しい。 というか、突き詰めて考え過ぎると、あらゆる「仮定」を証明することは不可能になる。 隠れた変数理論を採用しない限り、「波束の収縮」は、実験事実の見た目そのままに近い形で適用されたものであって、実験事実が直接示唆していない事柄とは一線を画す。 むしろ、実験事実の見た目そのままに近いものを架空の現象として扱う方が明確な「仮定」であろう。 そして、「波束の収縮」を架空の現象として扱う「仮定」を置いたHugh Everett Ⅲの相対的状態方程式は、既に説明した通り、実験事実と矛盾しており、「同じ現象を説明でき」ていない。

物理の理論というのは(哲学とは違って?)、明晰さと有効性を競うという側面があります。 よく知られているように量子力学では観測装置が原理的なところで決定的な役割を果しますが、コペンハーゲン解釈では観測装置の定義がはっきりしません。 観測装置まで系に含めてシュレーディンガー方程式を解くと状態の収縮は起こらずいわゆるシュレーディンガーの猫状態になってしまいますので、(コペンハーゲン解釈では)自然を記述するときに物理的な過程として記述できるところとそうでないところの間に常に「あいまいな」境界が存在することになります。 物性物理学のような分野ではあまり問題になることはありませんが、一般相対論のように時空の計量を力学変数として扱うときには深刻な問題となります。 つまり、どちらが真実かということではなく、有効性という意味でコペンハーゲン解釈には問題があるわけです。

エヴェレット解釈 vs. コペンハーゲン解釈 - エヴェレットの多世界解釈

既に説明した通り、「量子力学では観測装置が原理的なところで決定的な役割を果します」は、この方が勝手な解釈に過ぎない。 そして、Hugh Everett Ⅲの相対的状態方程式については、「有効性という意味」を問う以前に、実験事実と一致しないという致命的な欠陥がある。

尚、「観測装置まで系に含めてシュレーディンガー方程式を解くと状態の収縮は起こらずいわゆるシュレーディンガーの猫状態になってしまいます」はこの方の認識不足に過ぎない。 ノイマンは自著の中で「観測装置まで系に含めて」理論を適用すべきことを主張しており、それでも「状態の収縮」が起きることを示している。 そして、量子測定理論によりシュレーディンガーの猫状態が生じないことが既に明らかになっている。


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