数学への無理解

文学部教授による「アキレスと亀」 

「アキレスと亀」という、有名なパラドックスがあります。>> Wikipedia:ゼノンのパラドックス

昔、ギリシャで俊足を誇るアキレスと、足の遅い亀が競走をすることになりました。

そのままでは亀が負るのは明らかなので、亀はハンディをもらって、アキレスより前方の地点からスタートすることにしました。

位置について、ヨーイ、ドン! で競走を始めたところ・・・

なぜ哲学者は無限級数で満足しないのか - 小人さんの妄想

ここでは「俊足を誇るアキレス」と「足の遅い亀」の競争であることを良く見てもらいたい。 この話のトリックは、話を聞く人に気づかれないよう、コッソリと時間の進み方を遅らせていることにある。

スタートの時刻を第0チェックポイントとしよう。 そして、第0チェックポイントにおける亀の位置にアキレスが到着する時刻を第1チェックポイントとする。 次に、第1チェックポイントにおける亀の位置にアキレスが到着する時刻を第2チェックポイントとする。 ということを無限に繰り返すため、第nチェックポイントにおける亀の位置にアキレスが到着する時刻を第(n+1)チェックポイントとする。 この場合、nの値をいくら大きくしても、まだ、亀はアキレスより前にいる。 それではアキレスが亀に追いつくことは永遠にない…ように思える。 このアキレスと亀のような話が現実に起きるなら、競争は、最初のスタートが少しでも前に出ていた方が勝つことになり、勝敗に足の速さは関係なくなってしまう。 これは明らかに普通に体験可能な事実に反する。

このトリックを明らかにするために、第nチェックポイントと第(n+1)チェックポイントの時間差に着目してもらいたい。 nが大きくなるに連れてこの時間差は小さくなる。 nが無限大に近づけば、時間差は0に近づく。 すなわち、アキレスが亀に近づくに連れて、時間の進行速度は極限0に近づいていくのである。 アキレスが亀に近づけば近くほど時間進行速度が0に近づくので、アキレスが亀に追いつく時刻は永遠に訪れなくなる。 しかし、現実には、そのような時間が遅くなる現象は生じない。 少なくとも、知的生命体の主観時間では、そのような時間の遅れ方は生じない。 物語の時間進行と実際の時間進行に食い違いがあるから、体験可能な事実に反する考察が生まれるのである。

・・・と、ここまでが一般的に普及している説明であろうと思います。

ところが、上の説明だけでは決して満足しない人たちがいます。

「アキレスと亀」のパラドックスはもっとも解決が難しいものである。

B・ラッセルを初めとする解決法、すなわち無限級数の和は有限であるという数学の命題を対置するやり方は、ゼノンの問題の立て方とは微妙にすれ違ったままで、数学者たちはともかく、哲学者を納得させるには至っていない。

つまり、上の説明では哲学者は納得しない、というのです。

いったいどの辺りが納得ゆかないのでしょうか。

なぜ哲学者は無限級数で満足しないのか - 小人さんの妄想

結論を先に言えば、数学や科学に対する無理解から納得していないだけに過ぎない。

どのような場合にでも「無限級数の和は有限である」のではなく、このアキレスと亀の事例が「無限級数の和は有限である」事例になっているだけである。 そして、アキレスと亀の事例が「無限級数の和は有限である」ことをもっと単純明快に説明したものが、先ほどの時間遅延の話である。 それが理解できる哲学者は納得し、それが理解できない哲学者は納得しないだけに過ぎない。

引用の引用である書籍の著者である植村恒一郎氏は、群馬県立女子大学文学部総合教養学科教授である。 文学部の教授であるが故に科学は専門ではないのだろう。 しかし、それでも、県立大の教授職であるのだから、専門外の分野だからと言って、ちゃんと勉強もせずに安易に否定するのは感心しない。

以下、「時間の本性」という本を読み進めてみましょう。

「アキレスと亀」に登場する時間的要素は、量を持った時間ではなく「同時性」のみであり、時間の量を与える「時計」はまだ存在していない。

最小のタームしか用いないこのような原初的な舞台設定こそが、「アキレスと亀」が最強のパラドックスである理由であり、自立した量としての空間や時間が存在しないのだから、パラドックスの解決には数学は一切使えないのである。


そこで我々が手にすることのできる武器は、「地点」「時点」「運動」といった概念しかなく、「時間」「量」「数」「速さ」といった概念を使うことは許されない。

改めて、最初のアキレスと亀の話を見直してみてください。

もともとそこには「時計」が存在していないのです。

「時計」は説明する人が後から付け加えた概念であって、

元の問題には、「何秒かかった」とか、「秒速何メートルであった」といった前提は一切含まれていません。

無限級数の説明では「アキレスが亀に追いつくはずの20秒」という数字を、当然のように持ち込んでいました。

しかし、この「20秒」という数字は、

・秒を測る時計というものがあって、

・当然追い付くはずであるという答を知っていた

からこそ出てきたわけです。

これでは最初から「追い付くはずである」という結論を、何の理由も無しに押し付けただけではありませんか。

果たして、時計も無く、距離を正確に測る物差しも無く、追い付くかどうかもよくわからない状況で、

「アキレスは亀に追いつくことができる」という結論を導き出すことができるでしょうか。

もしかりに、空間や時間の「量」が単独で問題になっているのであれば、ラッセルのように無限数列の和は有限であるという数学の命題を用いることが有効であるかもしれない。


しかし、「アキレスと亀」はそうではない。 追い付く地点は初めに与えられていないのであり、分割の全体がその内部で行われる空間があらかじめ先取りして確保されているわけではない。


分割の比率を数によってあらかじめ与えるのではなく、二つの運動を互いに関係づけることによってそのつど新たな時点と地点を「切り出して」みせるのが、「アキレスと亀」の議論の本質である。

おわかりでしょうか。

「アキレスと亀」において、速度いくつで、何秒後に、といった道具立てを持ち出すのは、

ちょうど数学において、まだ証明されていない定理を用いるようなものなのです。

なので、無限級数の説明があったからといって「アキレスと亀」が完全解決したことにはならない。

「点」と「運動」と「同時性」のみで説明できてこそ、初めて「アキレスと亀」が解決したと言えるのではないでしょうか。

なぜ哲学者は無限級数で満足しないのか - 小人さんの妄想

植村恒一郎氏の間違いから徹底的に指摘して行こう。

まず、「パラドックスの解決には数学は一切使えない」とする理由が何も説明されていない。 そもそも、これは、数学や科学に対する無理解以外の何物でもない。 そんなことを言えば、あとから生まれた概念は、その概念より前にあった事象の分析には「使うことは許されない」はずであろう。 しかし、それでは、数学も科学も成り立たない。 数学や科学では、従来の概念で解決できない事象があり、かつ、その事象が新しい概念で解決するとき、その新しい概念を採用する。 しかし、概念より前の分析には「使うことは許されない」のでは、新しい概念では何も解決できなくなってしまう。 つまり、古い事象を新しい概念で分析してはならないと言うならば、数学や科学の発展は成り立たないのである。

「時間の量を与える『時計』はまだ存在していない」ことは、時間を計測する手段がないことを示していても、「自立した量としての」「時間が存在しない」ことを意味しない。 百歩譲って、話の中で用いられていない概念はその実在まで否定されると仮定しても、「アキレスと亀」には、既に、「速さ」という概念が導入されている。 先に引用した「俊足を誇るアキレス」と「足の遅い亀」である。 アキレスを足の速い代表、亀を足の遅い代表として登場させている以上、速さの概念が用いられていることは明らかである。 ゆえに、「『速さ』といった概念を使うことは許されない」という主張は成立しない。 ようするに、この植村恒一郎氏の主張は、個々の概念に関する言及を暈すことで、話の中に存在する概念があたかもないかのように偽装しているだけである。

「追い付く地点は初めに与えられていないのであり、分割の全体がその内部で行われる空間があらかじめ先取りして確保されているわけではない」は全く意味のない言い訳である。 それは、故意に「追い付く地点」から逆算して「あらかじめ先取りして確保」した無限級数を用意したわけではないことを示している。 しかし、意図的であろうとなかろうと、それが、「追い付く地点」に合わせた無限級数と数学的に等価になっていることはまぎれもない事実である。 「アキレスと亀」には「速さ」の概念がある以上、「二つの運動を互いに関係づけること」は、当然、「そのつど新たな時点と地点」が「数によってあらかじめ与える」「分割の比率」によって定義されることと等価になる。 これは「数学において、まだ証明されていない定理を用いる」ことになっているかも知れない。 しかし、ここで問うべきことは、話の内容と物事の真偽であって、作者の意図ではないのだ。 その時点で未発見の数学の定理が用いられていたとしても、単に、偶然の一致が不思議だというだけである。 それは、その時点で未発見の数学の定理が命題の解決に使えないことを意味しない。 よって、「無限級数の説明」がその時点で未発見であったとしても、それは、完全解決を否定する根拠とならない。

もっと言えば、「時計も無く、距離を正確に測る物差しも無く」も全くの事実無根である。 Wikipedia:時計の歴史によれば、紀元前2000年頃には水時計が、紀元前500年頃までには砂時計が存在している。 Wikipedia:地図学Wikipedia:幾何学によれば、測量技術も紀元前から存在する。 Wikipedia:数学史よれば、最も古い数学文書は紀元前1900年頃のものである。 以上のとおり、この時代には、既に、「時間」「量」「数」「速さ」といった概念が存在している。

では、引用者の間違いを指摘しよう。 「アキレスと亀」には「速さ」の差が定義されているのだから、直感的に有限の時間で追いつくであろうことは理解できる。 数学に頼らずとも、一定距離毎に考察せずに、段々と距離を短くしていることは極めて不自然だと気付けるだろう。 このような不自然な細工が直感と違う結果を生んでいるであろうことは誰でも容易に推測できることだ。 よって、「追い付くはずである」という結論は、誰でも分かる妥当な推測に基づいたものであり、「何の理由も無しに押し付けた」のではない。

また、何時か正しいと証明される定理であれば、その定理から導かれる結論は数学的に正しい。 それは、「数学において、まだ証明されていない」かどうかとは全く関係がない。 もちろん、その時代の人たちと知恵比べをするのに「まだ証明されていない定理を用いる」のはズルであろうし、その時代の人たちの考えを推測するのに「まだ証明されていない定理を用いる」ことは適さない。 しかし、物事の真理を追求することが目的であるなら、考案された時代において「まだ証明されていない定理を用いる」ことを禁止する理由は何もない。

量の概念を取り入れないのなら、「速さ」の多寡を用いることが出来ないので、そもそも、アキレスが亀より速いという暗黙の仮定が成り立ちません。 そしたら、もう、パラドックスでもなんでもないと思います。


うむむ、確かに。 きっとこの本で主張しているのは、大小関係はあるけれど、 それをより正確な数字に置き換えられないといった状況を言っているのだと思います。 順序尺度ではあるが、間隔尺度ではない、みたいな、、、なんか微妙ですね。

なぜ哲学者は無限級数で満足しないのか - 小人さんの妄想

「大小関係はあるけれど、それをより正確な数字に置き換えられない」ことが問題であるなら、未知数を使って計算すれば良い。

V1
亀の速さ=V2×α
V2
アキレスの速さ
D
アキレスと亀の初期距離

V2>V1(α>1)であれば、D÷(V2-V1)の時間後にアキレスの初期位置から見てD×V2÷(V2-V1)の距離で追いつく。 そして、距離の総和を計算すると次のようになる。

Σn=0→∞(D×(V1÷V2)n)=Σn=0→∞(D×αn)=D×(1−α∞+1)÷(1−α)=D÷(1−α)=D÷(1−V1÷V2)=D×V2÷(V2-V1)

よって、V2>V1(α>1)である限り、「無限級数の説明」が成立するのである。 もちろん、亀よりアキレスの方が速いことが定義されていなければ「無限級数の説明」は成立しない。 しかし、亀よりアキレスの方が速いことが定義されている以上、「無限級数の説明」は他の条件をどう弄くろうとも必ず成立する。 つまり、「順序尺度ではあるが、間隔尺度ではない」という言い訳は成立しない。 コメント欄を見るとε-δ論法で同様のことを説明しようとしている人がいた。

以上のことは、理解できない人にとっては受け入れ難いことかも知れない。 しかし、理解できるかどうかと真偽は別問題である。 植村恒一郎氏の言っていることは「俺には理解できないから間違っている」に等しい。 残念なことに、結構偉い地位にある人が、専門外のことでトンデモ発言することは珍しいことではない。 英文学者がインテリジェント・デザインを多くの科学者が支持していると言ったりとかね。

「量」の概念 

「量」の概念を一切追放して「アキレスと亀」を眺めたならば、実はこれパラドックスなどではなく、

間違ったことを言っていないのではないか・・・

次に、「アキレスと亀のお話は、実は正しい?!」という例を挙げてみたいと思います。

例に挙げるのは、√2という数の計算方法についてです。

√2という数は無理数なので、小数点で表すと1.41421356...と、どこまでも数字が無限に続いています。

この1.41421356...という数字をコンピューターで計算するには、どうするか。

上に描いたのは、ニュートン法による√2の計算方法の概念図です。

√2という数は、y = x^2 - 2 という放物線と、x軸との交点になっています。

問題は、この交点の位置をぴったり数字で求めなさい、ということです。

そこで、グラフ上の交点の近く、例えば x1 = 2 という数を出発点に選びます。

x = 2 という垂直な線と、放物線が交わった点で、放物線に接線を引きます。

そして、接線とx軸が交わった点を、x2 とします。

次に、改めて x2 を出発点として、先ほどと同じ操作を行います。

新しく接線とx軸が交わった点を、x3 とします。

この調子で、x4 -> x5 -> x6 ... と、次々に進んでいけば、どこまでも限りなく√2に近付くことができるでしょう。

では、ここで質問、「この√2の計算は、いつ終わるのでしょうか?」

よく見てください。

「アキレスと亀」の話と、√2の計算方法は、全く同じ論旨ではありませんか。

√2の計算で、x1 をアキレスのスタート地点、1つ進んだ x2 を亀のスタート地点に置き換えてみてください。

「アキレスが x2 まで進む間に、亀は x3 まで進む。

アキレスが x3 まで進む間に、亀は x4 まで進む。

・・・以下、この繰り返し。従って、この計算は決して有限時間内に完了することは無い。」

どこにもパラドックスは見あたらない。

現に、私たちはこれと似た論法で、√2が決して有限桁数で終わらないことを理解しているわけです。

* なぜ黄金比は美しいのか >> id:rikunora:20090401

同じ論法でありながら、かたや「アキレスと亀」は、有限時間内に終わるはず。

かたや√2は、有限時間内には終わらない。

この違いは、何なのか。

なぜ哲学者は無限級数で満足しないのか - 小人さんの妄想

答えはたった一つである。 「アキレスと亀」は実在しない思考上の無限ステップであるから有限時間内に終わり、√2の計算は実在する無限ステップであるから有限時間内には終わらない。 「アキレスと亀」では、距離をだんだんと短くすることによって思考の上だけで成り立つ架空の無限ステップを作り出しているが、現実的に各ステップの距離を等しくすれば(当然、時間も等しくなる)有限のステップにしかならない。

一方で、√2は無理数であり、小数で記述しようとすれば非循環の無限桁数となる。 つまり、√2計算は、思考上で無理矢理に無限ステップにしているのではなく、何もせずとも最初から無限ステップなのである。

√2に限らず、無理数の任意精度演算では、各ステップの計算時間は先に進むほど長くなる。 「アキレスと亀」では、段々短くなる時間が、√2の計算では段々長くなるのである。 よって、有限時間内には終わらないのは当たり前である。

既に√2が存在する、という前提から出発すると、 最初から「追い付くはずである」という結論ありきで始まる議論と変わりません。

なぜ哲学者は無限級数で満足しないのか - 小人さんの妄想

「√2が存在する」と「追い付くはずである」は全然違う。 非循環の無限桁数は、既に存在していても、それをコピペするだけで無限の時間が掛かる。 よって、「√2が存在する」ことは、有限の時間で計算が追いつくことを意味しない。

しかし、例えば有理数しか知らない人が、まだ存在を知らない無理数に向かって操作を繰り返しているのだとしたら、 今度はゼノンのパラドックスと接点を持つと思うのです。

なぜ哲学者は無限級数で満足しないのか - 小人さんの妄想

「有理数しか知らない人が、まだ存在を知らない無理数に向かって操作を繰り返している」なら、それは思考上は有限で現実には無限の話である。 よって、それはゼノンのパラドックスと真逆の話であろう。

はっきり言って、これ、超難問です。

もちろん常識的に考えれば、アキレスは亀に追いつくだろうし、超計算機は実現不可能だろうと思います。

しかし、なぜ?

哲学者の皆さんは、そこんとこ解っているのでしょうか。答があるなら教えてほしい。

なぜ哲学者は無限級数で満足しないのか - 小人さんの妄想

超難問どころか子供でも分かる答えであろう。 それが難関だと思う理由は、一言で言えば「量」の概念を一切追放したからである。

一般に、定性的な理論と定量的な計算が矛盾する場合、次のような場合を除いて、定性的な理論が間違っている可能性が高い。

  • 代入するパラメータが間違っている
  • 適用する数式が間違っている
  • どこかで計算ミスをしている

それは、数学や科学では常識である。 定量的な計算に何も間違いを見出せないないのに、それと矛盾する定性的な理論が正しいと主張するのは、疑似科学者だけである。 植村恒一郎氏は、まさに、定量的な計算に何も間違いを見出せないないのに、それと矛盾する定性的な理論が正しいと主張しているのである。 そして、定性的な理論が正しいと主張するためには、それと矛盾する定量的な計算を否定する必要がある。 そのために、植村恒一郎氏は、導きたい結論に都合が良いだけの合理的理由が何もない「パラドックスの解決には数学は一切使えない」という仮定を置き、話の中に確かに存在する「量」の概念を、あたかも、存在していないかのように偽装したのである。

「量」の概念を一切追放したらこのような矛盾が生じるという皮肉でこの話を持ち出したなら計り知れない天才だ。 しかし、本気で言っているならトンデモであろう。

たぶん、哲学者の目の付けどころは違っていて、ここを切り口に 「時間とは何か」「意識とは何か」といった方面に考えを進めているようです。

なぜ哲学者は無限級数で満足しないのか - 小人さんの妄想

それは考えが迷走する「目の付けどころ」であろう。 もちろん、科学全般の問題として「時間とは何か」「意識とは何か」といった方面に考えを進める必要性は否定できない。 しかし、それは、この問題を解決する目的としては全く必要のないことである。 植村恒一郎氏や、解決すべき課題が何で、そのために何をすべきかが見えていないのだ。 こういう人が真っ先にすべきことは、迷走したまま闇雲に先に進むことではなく、自分が置かれている現状と対策の分析を行なうことである。 それをせずに、迷走したまま何の疑いもなく自信満々に突っ走るから、見当違いの方向に進んでしまって理解の境地に辿り着けない。 そして、自分が理解に辿り着けないことをもって、数学や科学を否定してしまうのである。

もちろん、以上のことは哲学を否定する理由には全くならない。 数学や科学のルールから外れた定性的な考察で数学や科学を否定することが不適切なのであり、それは、哲学とは到底呼べない詭弁である。 数学が間違っていると仮定すれば数学が間違っているという結論は容易に導けるし、科学が間違っていると仮定すれば科学が間違っているという結論は容易に導ける。 しかし、それは、循環論証と呼ばれる詭弁手法であって、何も証明したりはしない。

まだ納得できないものが残る、という点では哲学者に同意します。

なぜ哲学者は無限級数で満足しないのか - 小人さんの妄想

皮肉ではなく本気で言っていたようだ。

また、繰り返すが、哲学者がおかしいわけではない。 おかしいのは自称哲学者である植村恒一郎氏である。 数学や科学のルールに則って数学や科学を論じる哲学者は真っ当な哲学者である。 また、数学や科学のルールに則っていなくても、数学や科学と無関係な話を論じる哲学者も、数学や科学の観点では何もおかしくない。 数学や科学のルールから外れた非常識な主張で数学や科学を否定する植村恒一郎氏がおかしいのである。


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    科学

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