決定論と自由意志

総論 

決定論と自由意志が両立するか?とする科学風の議論があるが、これは、科学問題に見せ掛けた循環論証に過ぎない。 こうした問いに答えるためには、決定論と自由意志の言葉の意味が明確に定義されていなければならない。 言葉の意味が曖昧では、明確な答えが出せるはずがない。 では、自由意志とは、どのように定義されているのか。 自由意志は、英語で「Free Will」と書き、これは、直訳すると「自由な意志」である。 「Free」は何からの「Free」を意味するのか。 運命からも「Free」である必要があるならば、決定論と自由意志は相容れないことになる。 しかし、それは、運命から「Free」でなければならないという定義が、非決定論を意味しているからである。 非決定論でなければ自由意志ではないと定義すれば決定論と相容れず、自由意志は非決定論であることを要しないと定義すれば決定論と相容れるという結論になる。 つまり、両立しないと定義すれば両立しないし、両立すると定義すれば両立するのである。 これぞ、見事な循環論証だろう。

決定論と自由意志とを関連づける主張は、単に「運命に束縛されるものは自由でないような気がする」レベルの思い込みでしかない。 また、決定論下での意志決定について、その人の人格と無関係な意志が運命によって決められるとする誤解もあろう。 しかし、現実には、そんなことはあり得ない。 もし、仮に、運命からの「Free」な意志が無かったとしても、それは、意志がその人の人格と無関係に決定されることを意味しない。 何故なら、因果律が破綻しない限り、その人の人格と意志には明確な因果関係があるはずだからである。 決定論では、まず、何らかの原因でその人の人格が決定され、そして、その人格やその他の複合要因が原因となって意志が決定される。 運命が誰かの意志を左右するとしても、その場合は、その運命は、その人の人格も左右するはずである。 人格等が左右された結果として、間接的に意志が左右されるのである。 決して、運命が、その人の人格を飛び越えて、その人の人格と無関係な意志を作り出すことはないのである。

自由意志

自由であるためには、個人特性の形成も自分だけで完全にコントロールしなければならないのだろうか。 たとえば、好き嫌いも自分で完全にコントロールしなければならないのだろうか。 貴方は、昨日まで大嫌いだったあの人を今日から好きになれるだろうか。 貴方は、昨日まで大好きだったあの人を今日から嫌いになれるだろうか。 そうした好き嫌いを自由自在にコントロールできるだろうか。 たとえば、個人特性の形成に外的要因が含まれることは、自由を阻害するのだろうか。 現実問題として、個人特性から外的要因の影響を排除することは難しい。 例えば、正義を重んじるのは、成長過程のどこかで正義の重要性を学んだからだ。 もしかすると、両親が、正義を重んじる人になるように育てたのかもしれない。 もしかすると、小学校の先生が、その人に、正義の重要性を教え込んだのかもしれない。 では、もし、その人が正義の重要性を学び損ねたらどうなるだろう。 それでも、その人は正義を重んじただろうか。 極悪人になった可能性はないだろうか。 以上のように考えれば、個人特性の形成過程において、外部の影響を完全に排除し、かつ、自分で完全にコントロールすることが如何に難しいか分かるだろう。 つまり、自由には個人特性の自立制御が必須だと定義すると、現実問題として自由意志はほぼ存在し得ない。 それでは、定義の段階で結論が決まってしまう。

言葉の定義の問題である以上、当然、そうした定義を選択することも間違いではない。 しかし、特定の条件を定義段階で決めたのであれば、前提段階で確定している条件を議論する余地はない。 最初から確定させていることなのに、あたかも議論の余地があるかのように見せかけるなら、それはインチキな循環論証に過ぎない。

決定論 

  • 決定論
    • 因果的決定論=法則性のある決定論(隠れた変数理論
      • 局所的隠れた変数理論
      • 非局所的隠れた変数理論
    • 確率的決定論=法則性のない決定論
  • 非決定論
確率的決定論
未来を決めるための物理法則は存在しないが、未来はあらかじめ決まっている
非決定論
未来を決めるための物理法則は存在しないし、未来はその時が来るまで決まらない

例えば、タイムマシンで過去に戻って、コッソリ、過去の出来事を観察するとする。 決定論が正しいなら、最初の観察結果と、タイムマシンで見てきた二度目の観察結果は完全に同一でなければならない。 「いや、タイムマシンの影響で過去が変わってるはずだ」と言うなら、それは決定論ではない。 何故なら、決定論が正しいなら、タイムマシンを使うこともあらかじめ決まっているはずだからである。 つまり、最初の観察の時、未来から来たもう1人の貴方が何処かからコッソリと観察を行なっているはずなのである。 決定論では、過去を変えることはできないのである。 過去を変えられたなら、それは、過去を変えることがあらかじめ決まっていなかったことになり、決定論の定義に反してしまう。 一度目の観察結果と二度目の観察結果に違いが生じるなら、それは、非決定論でしかあり得ない。

ちなみに、これは、決定論の真偽の確認方法としては使えない。 というのも、過去の同一性の証明問題が生じるからである。 つまり、一度目の観察結果と二度目の観察結果に違うことを確認しても、同一の過去が非決定論によって違う結果になったのか、過去とそれに良く似た平行世界を比較しただけなのかの違いが区別できない。 尚、この説明は、決定論の真偽を調べる方法について論じたものではない。 あくまで、確率的決定論と非決定論の違い分かりやすく説明するためのものである。 よって、何らかの方法で過去の同一性が証明されているという前提での説明である。

量子力学は次のいずれかが正解であろうと見込まれているが、どれが正解かは分かっていない。

ニュートン力学や相対性理論は非決定論を扱えない。 時空概念と非決定論は非常に相性が悪い。

自由意志 

ある物理現象が決定論か非決定論かを問う物理学的意味があるとしよう。 では、それを人間の意志に限定して考察する物理学的意味はあるだろうか。 結論を言えば、ない。 人間の脳の機能や意志決定のプロセスを論じるのは、完全に、物理学の範囲を超えている。 科学として考察するなら、それは、生物学の範囲に属する。 物理学の範囲にない問題を、物理学で論じようとするのが間違いなのである。 もちろん、生物学の問題に対して物理学を活用するのは間違いではない。 しかし、生物学の問題を物理学の問題として扱うのは間違っている。 つまり、「自由意志とは何か」という問いは、物理学として扱うべき問題ではないのだ。 それを物理学として扱おうとするから、話がおかしくなるのである。

そもそも、科学分野の問題であるかどうかすら疑わしい。 一般的に、「Free Will」の「Free」は、他者からの「Free」を意味する。 人の責任や、他者を支配することの是非を問うのであれば、倫理や道徳等、社会的都合で定義されていることになる。 科学分野ですらない問題を物理学として扱おうして、まともな答えが出るはずがない。 社会的都合で定義した「Free Will」について問うなら、決定論の真偽はどうでも良いことである。 必要なことは、秩序を保つためには社会のルールがどうあるべきかであって、決定論の真偽ではない。 尚、社会で生活する以上、厳密な意味で他者からの完全な「Free」はあり得ない。 一般には、脅迫や洗脳その他手段により本人の正常な判断が奪われる以外の影響は「Free」を妨げないと解釈される。 だから、社会通念上、正当な教育の範囲の行為による影響力は「Free」を妨げない。 例えば、科学的に適切な手段によって得られた理論を科学として教えても「Free」を妨げない。 しかし、科学的に適切な手段によらずに得られた理論を科学として教えるのは、洗脳に類する行為に該当し、「Free」を妨げたことになる。

哲学的な疑問を投げかけるとしても、どのようなプロセスで意志決定されているかが問われているのであって、決定論の真偽は問題ではない。 物理的、あるいは、化学的に見た場合、単純現象が複雑に組み合わさって人間の意志を形作っている。 その構成要素となる単純現象が決定論であろうとなかろうと、哲学的な疑問への答えが出ないことには変わりがない。 非決定論が正しかったとしても、やはり、意志とは何なのか、哲学的な疑問が尽きないことには何ら変わりはない。 哲学的な疑問の本質は、単純現象の組み合わせが人間の意志になることにあるのであって、その単純現象が決定論であるかどうかではないのだ。

実は、自由意志の関する議論の多くは、先にも述べた通り、言葉の定義の問題であることが多い。 何を「自由意志」と定義とするか、その定義の内容に答えそのものが含まれていることが多い。

誤った自由意志論 

良く考えないと騙されそうになる詭弁を紹介する。

そして、右のコップ、左のコップ、どっちでも好きな方を選んで取ってほしい。 なお、2つのコップに違いはない。 自分からの距離も同じだ。どっちをとっても、何も違いはない。 さぁ、あなたはどっちを取るだろうか?


「よくわからないけど、そんな考えが沸き起こった」とは、 「なぜ自分がそうしようと思ったのか原因がわからない」ということなのだから、 まったくもって、 「自由(好き勝手に選べる)意志」なんかじゃない。

だって、結局のところ、「右を選ぶ」という考えは、 「自分にはわからない何か(自分の外部)から出てきた」ことになるからだ。

それは、あなたの体に見えない糸がついていて、 背後で誰かが操っている状況に良く似ている。

誰かが、糸を引っ張ったので、「右手を上げた」にもかかわらず、 あなたは 「よくわからんが、自分で右手をあげたくなったのさ」 と言い張っているのと同じである。

自由意志 - 哲学的な何か、あと科学とか

ここでは、ある一面での類似性だけをもって、他の面でも類似していると誤認させる詭弁手法が使われている。 そして、他の面での類似性を示す根拠を何も示さないまま、印象操作で作り上げた偽の類似性を既成事実化している。 これは、そのサイトで良く使われる詭弁手法である。

確かに、「自分にはわからない何か」という理解可能性は「良く似ている」。 しかし、そのことは次の2つの発生源が「同じ」とする根拠にはならない。

  • 「そんな考えが沸き起こった」
  • 「自分の外部」から「誰かが、糸を引っ張った」

それが根拠になると言い張るなら、白い猫と白い鳥の色の類似性もって種まで類似していると言い張るのと変わらない。

常識で考えれば、考えた理由が明確であるか朧げであるかに関係なく、「そんな考えが沸き起こった」が自分の内側にある脳内から発生したことは明らかである。 であれば、それは間違いなく自由意志だろう。 そして、「自分にはわからない何か」が「自分の外部」である根拠も「誰かが、糸を引っ張った」とする根拠も何も示されていない。 常識に反する仮説を披露しながら、その仮説を支持する根拠を何一つ示していないのでは、話にもならない。

自由意志とは何だろうか? もし、自由意志を 「自分で好き勝手に選択できることだよ」 という意味で捉えているならば、それは明らかに間違いである。 もし、それが自由意志だというならば、 「そんなものはない(^▽^)」と断言しても良い。 我々に、「自分で好きなように物事を選べる」という自由意志がないことは、 以下の実験で簡単にわかる。


そして、右のコップ、左のコップ、どっちでも好きな方を選んで取ってほしい。 なお、2つのコップに違いはない。 自分からの距離も同じだ。どっちをとっても、何も違いはない。 さぁ、あなたはどっちを取るだろうか?


もし、我々が、自分自身の選択について、 「なぜそれを選んだかの仕組みが完全にわかっていた」としたら、 それはもう自由意志ではなく、機械的な意志になってしまう。 したがって、機械的な意志でないためには、 「なぜそれを選択したのか、その仕組みがわからない」 ということが必須条件である。

自由意志 - 哲学的な何か、あと科学とか

これは、そのサイトで良く使われる詭弁手法だが、事実関係を混同させている。 自由意志の対象とならない選択肢を持ち出して、自由意志を論じようとしているのだから、余りにも酷すぎる。 これは、誤謬事例の「早まった一般化」よりも酷い「すり替えた一般化」である。

この設問では、圧倒的大多数の人の価値観に照らして、一方を選ぶ明確な理由が存在しない。 というか、圧倒的大多数の人にとって、「右のコップ」だろうが「左のコップ」だろうが、どーでも良い。 当人にとってどーでも良い選択なのだから、そこに自由意志を挟み込む余地はない。 自由意志を挟み込む余地がない設問なのだから、そこに自由意志を見出せないのは当たり前である。 つまり、「なぜそれを選んだかの仕組みが完全にわかっていた」が「自由意志ではなく、機械的な意志になってしまう」となるのは、この設問の性質によるのであって、自由意志そのものの性質によるのではない。

そのような設問で自由意志を論じるのは、日本人を観察した結果のみに基づいてアメリカ人の性質を語るようなものである。 アメリカ人の性質を語りたいなら、アメリカ人を観察した結果に基づくべきだろう。 それと同様に、自由意志を論じるのであれば、自由意志を挟み込む余地がある設問について論じるべきである。 個人の好き嫌いが明確に反映されない設問を持ち出しても、その設問が「『自分で好きなように物事を選べる』という自由意志」の対象ではないことを示しているだけであり、「我々に、『自分で好きなように物事を選べる』という自由意志がない」ことの証明にはならない。 言い替えると、「我々に、『自分で好きなように物事を選べる』という自由意志がない」ことを証明したいなら、「『自分で好きなように物事を選べる』という自由意志」の対象になり得る設問を論じなければならない。

多くの人にとって一方を選ぶ明確な理由が存在する設問、すなわち、自由意志の対象になり得る設問を用意すると、この詭弁のトリックが良く分かる。 たとえば、コーヒーと紅茶のどちらを飲むか選ばせるとする。 そして、コーヒー好きがコーヒーを選んだり、紅茶好きが紅茶を選んだらどうなるのか。 この場合は、「なぜそれを選んだかの仕組み」は、本人の嗜好によると説明できる。 では、本人の嗜好による選択は、「自由意志ではなく、機械的な意志」なのか。 好きな物を選んだら、それは自由意志ではないのか。 いや、当然、これは逆だろう。 好きな物を選べない状況の方こそが自由意志を阻害しているのである。 好きな物を選べることは、明らかに、自由意志が行使できてていることを示している。

たとえば、ある人をバレずに殺して1億円を奪うことが可能だったとして、貴方はその殺人を実行するか。 このような設問であれば、当然、「なぜそれを選んだかの仕組み」が分からない方がおかしい。 Yesと答えるか、Noと答えるかは、人それぞれだろうが、いずれにせよ、その人なりの理由が明確に説明できるだろう。 そして、これも当然だが、「なぜそれを選んだかの仕組み」が分かっていることは、その選択が「自分の外部」によってもたらされた根拠にはならない。 理由や選択はその人固有の人格に左右されるのであって、当然、その人格はその人の内部に存在するものである。

たまに、犯罪実行後に「自分でも何故やったのか分からない」と言う者がいる。 それは、人は、必ずしも、咄嗟の場合に合理的な選択ができるとは限らないからであって、それも自由意志を否定する根拠にはならない。 自分の価値観だと信じていたことと自分の実際の行動に食い違いが生じて、自分でも理由を整理できないことはあるかもしれない。 しかし、それでも、その行動は、自分の内側にある人間性に基づく選択の結果であり、「自分の外部」によってもたらされたものではない以上、自由意志には違いないのである。